小説「冷たい初恋」

 靴屋での日銭稼ぎを終えた俺は、隣町の居酒屋に車を走らせていた。外は十二月の初めとは思えないほどに寒く今にも雪が降り出しそうだった。この日は同じスーパー内の食品売り場で、野菜の仕出しのバイトをしている大学生に誘われた飲み会があった。俺は、カーステレオから流れるジョニー・バーネットを聴きながら、こんな日に飲み会をするなんて下心まるだしじゃないかと、ふと思った。
 目的地には二十分ほどでついた。そこは雑居ビルの二階にある面白くもおかしくもない、全国チェーンの居酒屋だった。俺はその店の階段を上りながら、以前、地元にあったこの店を三日でクビになったことを思い出していた。その店の店長は天性のキチガイで、みんなから嫌われていた。ことあるごとに大学まで行ってそんなこともわからないのかと目を血走らせてわめきちらし、空気を吸う感じでバイトをクビにしていた。「この店で働きたいヤツなんて五万といる」というのがヤツの口癖だった。下らない仕事なのだが。その店長はしばらくして少女買春の罪で捕まった。
 店に入って、店員に同僚の名前を言うと奥の座敷に案内された。店内は暖かくて、そこにいるだけでも一キロは太った気になれた。重たいブーツを脱いで、襖を開けると、すでに飲み会は始まっていた。部屋には女が四人と、男が三人(俺を含めて四人)いて俺以外は全員大学生のようだった。興味の湧く顔をしたヤツは一人もおらず、どいつもこいつもヤワな顔をして面白味とはまるで無縁そうだった。俺は同僚の横に座ると挨拶と自己紹介をしてジン・トニックを頼んだ。まんまるのパンケーキに穴を三つ開けたような顔をした一番不細工な女の子の前の席だった。その子はアヤナだかアンナだかといった毛唐臭い名前を言ったが覚える気がなかった。机の脇にいた、男が、俺に会釈をしたので俺も軽く会釈をして返した。短髪の良く似合う、スポーツマンタイプのいけ好かない野郎だった。俺はそいつを一目見るなり嫌いになった。今夜の主役がこいつなのは女の子の態度でわかった。

 連中はどうでもいいことやつまらないことで、狂ったように笑っていた。話の内容は主に学校のことや、身内の恋愛についてだった。俺は連中が楽しそうにはしゃぐ様子をながめながら何度も飲み物をお代わりした。なんのことだかさっぱりわからずそれ以外にすることがなかったのだ。連中と交わした言葉は、「うん」と「それはそれは」の二言だけだった。女の子達は、友人のユカちゃんをはらませたマサアキという男をこき下ろすのに熱中していた。「マサアキは男のクズだよ」と、ピンクのセーターを着た女が興奮した様子で言う。「あいつはもし子供ができたら結婚しようって言ってたんだよ。それなのにアイツは、いざ子供ができたら別れようって言ったんだって! ユカはすごく傷ついて、ずっと泣いてるのにマサアキはもう他の女と付き合ってるの! 私はユカの親友だからすごく悔しい!」
 それを聞いた周りの連中が一斉に「サイテー」だの「悪魔」だの「クズ野郎」だのと騒ぎ立て始めた。さっきのいけ好かない野郎が、「今度会ったらぶっ飛ばしてやる!」と憎々しげに言うと、大歓声が起こった。いまや打倒マサアキを合言葉に部屋中の人間が一致団結していた。連中のその姿はセプテンバー・イレブンの後のアメ公共を連想させた。アラブ人を殺せとわめき散らすヤツらの姿を。俺はつまみの唐揚げを食べながら、マサアキについてボンヤリと考えた。確かにマサアキはひどいヤツだが悪いのはこいつだけじゃない。十九、二十歳のガキの戯言を真剣に受けとめたその女も悪い。いや、悪いのはその女の頭か。ははは・・・・
 しばらくして話題が変わった。マサアキから世界情勢になった。女の子の一人が先日テレビで見たどこかの国の戦争の話をすると、男共が待ってましたとばかりに自分の意見を言い始めた。俺は連中がやたらと難しい言葉を吐くのを聞きながらもくもくとグラスを傾けた。少しでも自分のことを信念のある、知的で優しい男に見せようとする姿がひどく滑稽だった。そして、いかにも自分は優しいいい女だといわんばかりに、かいがいしく料理を取ったり、グラスに酒を注いだりしている女の子達の姿も。まるで狐と狸の化かしあいを絵に描いたみたいな光景だった。たいした演技力の持ち主共だ。きっと将来出世するにちがいない。
 俺はさっきの男が、懸命に自分の思想をまくし立てているのを聞きながら、また煙草に火をつけた。この一時間で十四本もの煙草を吸っていたがそれ以外にすることがなかった。そもそも、俺は人前で喋るのが苦手だった。と、その時一人の女の子が俺に話しかけた。
 「香村君はどう思う?」
 「えっ?」
 俺は顔を上げた。この四人の中で一番かわいい、細面で目の大きな女の子だった。茶色のロングヘアーが良く似合っていた。この容姿なら三十五までは何もしなくても食っていけることだろう。
 同僚の佐伯が俺の耳元で言った。「ユーゴスラビア空爆についてどう思うか聞いてるんですよ」
 俺は彼女の方をチラッと見た。「別に」
 「別に?」と彼女が俺に聞き返した。「それはどういう意味?」
 「そのままの意味だよ」
 「アナタはテレビを見たり、新聞を読んだりちゃんとしてるの?」
 「たまには」
 「じゃあ、難民キャンプが空爆されたのは知ってるはずよね。あなたはそれを見てかわいそうだとは思わないの?」
 「多少は」
 「多少はってどういう意味なの?」
 俺は彼女の顔に目をやった。「辞書でも引いたらどうだい」
 「一体なんて人なの! 信じられない!」
 突然彼女が机を叩いた。その拍子にツマミの唐揚げが一センチ近く、皿から飛び跳ね、空になったビール瓶が揺れた。他の連中がジッと俺の方を見つめた。俺はその女のすさまじい形相を見ながら気がおかしくなったのかと思った。
 「たくさんの子供や、何の罪もない人間が犠牲になっているのよ! あなたはそれでも何も感じないの!」と巻き髪の女が興奮気味に口をはさんだ。四流売春宿でうろついていそうな品のない女だった。化粧が濃すぎて皮膚がゴムのように見えた。
 「かわいそうだとは思うよ」と俺は言った。「でもそれが戦争ってもんだろ。それにあらかじめそこでそうして死ぬようにそいつの運命はできていたんだよ。不可抗力ってヤツさ。悲しいことじゃない」
 「なんて野郎だ」と佐伯の横にいた、より目の男が言った。「こいつは本当の冷血動物だぜ」
 そいつが俺の方をにらみつけた。俺は目と目の間に両手を突っこんで、数センチほど引き伸ばしてやりたい衝動に駆られた。
 「あんたは戦争で大切な人を失くしたことがないからそう言えるのよ」とホットケーキみたいな顔をした女がしたり顔で言った。
 俺はスコッチをあおった。「それはお互い様だろ。じゃあ、あんたは空爆で両親を失くしたことがあるのか?」
 部屋中の人間が黙りこくった。佐伯が心配そうな表情を浮かべて俺の方を見ている。俺は佐伯の顔を見ながら、やっぱりこんな所にはくるんじゃなかったと思った。集団行動がキライなのはいくつになっても治るもんじゃない。
 数秒ほどしていけ好かない野郎が忌々しげに言った。いや、忌々しそうなフリをして言った。自分がいかに強い正義感を持っているかを誇示するために。「香村君・・・・できればあんたを殴ってやりたいよ」
 俺は残りのスコッチを飲み上げると微笑んだ。「やってみなよ」
 室内に張り詰めたな空気が漂った。まるで部屋中の時間が止まったようだった。いけ好かない野郎がジッと俺を見つめた。ヤツの目がどうしようと訴えかけていた。予想外の俺の反応に困っているようだった。多分、こう言えば俺がビビって逃げ出すとでも思ったのだろう。佐伯が「やめて下さいよ」とポツリと俺に言った。
 「いや、やめとくよ」とヤツが言った。「君なんて殴ったって何の意味もない。それにこの席を白けさせたくないんだ」
 俺は内心、ホッとしていた。実は少しビビッていたのだ。ヤツは俺よりも少しだけ背が高くて体格もよく、あまり殴り合いたい相手ではなかった。もっとも人と殴り合いたいと思ったことなど一度もないのだが。
 「どうやらお互いに少し飲みすぎたみたいだな」
 俺は膝を立てて立ち上がろうとした。もうこの場所にはいたくなかった。女の子全員と、寄り目の男が、耐え難い視線を俺に向けていた。もう限界だった。と、その時、ヤツ再び口を開いた。
 「命拾いしたな」
 俺は、再び腰を下ろすとヤツの顔をにらみつけた。ヤツの言い方と、臆病者特有の上ずった声色が頭にきた。白痴のオッサンにキチガイ扱いされた気分だった。しかし、なんて卑怯な野郎なんだ。自分の身が安全だとわかった途端に強気になりやがる。こいつは、自分よりも弱いものにしか手を出せない、クソ野郎の典型じゃないか。中学の時に俺が大キライだった、犬や猫を殺して遊んでた生徒会役員のお坊ちゃんとそっくりだ。教師からはベストスチューデントだの神童だのと言われていたが。
 「テメー、さっきからふざけたこと言ってんじゃねぇよ」と俺は見下したように笑った。「かかってこいよ。このおかま」
 また、重苦しい空気が部屋中に立ち込めた。全員が息を飲んで俺の方を見ていた。ヤツの目には明らかにさっき以上の恐怖が浮かんでいた。さっきまで偉そうなことを言っていた寄り目の男はただ見ているだけで止めようともしなかった。自分が巻き込まれたらどうしようと、ビクビクしているようだった。たいした友情だ。
 俺は大きく息を吸い込むと、やつの顔を見てバカにした感じで言った。「オメーは日本語がわかんねーのかよ? この、おーかーまー!」
 「うるせー!」
 ヤツは立ち上がると俺の方に歩いてきた。どうやらキレたようだった。俺も脇にあったビール瓶をつかんで立ち上がった。平静を装っていたが実は心臓が破裂しそうなほどにドキドキしていた。ちょっと追いつめすぎたかなと一瞬思った。
 ヤツは佐伯の後ろで立ち止まると闘志の固まりといった目で俺をにらみつけた。「おい、おまえさっき俺になんて言ったんだ?」
 俺は数秒おいてからニッコリと笑った。「おーかーまー!」
 「野郎!」
 ヤツが右手を大きく振りかぶるのがわかった。俺は一歩前に出て勢いよくビール瓶でヤツの横面を叩いた。頬骨に命中した確かな手ごたえがあった。ヤツは張り付くような形になって激しく壁に激突すると両手で顔を押えて床にしゃがみ込んだ。そしてしばらくして指の間から流れ始めた血の混じったヨダレを見てワナワナと体を震わせた。まるで生まれてこのかた血を見たことがないようだった。口の中をちょっと切ったくらいでオーバーな野郎だ。
 ようやく事態を把握した一番かわいい女の子が「大丈夫」と言って席を立った。それと同時に他の女の子が一斉に「大丈夫」を連発した。しかし、どうしていいのかは誰もわかっていないようだった。巻き髪の女が「救急車を呼ぶ?」と言ったが、ヤツは力なく右手を振っていた。ヤツはこの場におよんでまだタフガイを気取っているようだった。ある意味たいした野郎だ。俺はビール瓶を床に置くと、サイフの中から、一万円札を三枚出してそれをテーブルの上に投げた。それが今月の俺の全財産であり、この席をつぶしたお詫びだった。むろん治療費も含まれている。俺は、佐伯に「悪かったな」というと、襖を空けて部屋を出た。佐伯は不思議とあまり驚いた顔をしていなかった。まだ状況が把握できてないのだろうか。ブーツを履いていると襖の中から俺の悪口が聞こえた。
 「安心しろよレオナ! 今度会ったら俺があの薄気味悪い男をぶっ飛ばしてやるからな。あの大バカ野郎を! あいつは絶対友達がいねーぜ!」
 さっきの寄り目の男の声だった。俺は、さっきの野郎じゃなくてあいつを殴っておくべきだったと一瞬思った。この手の金魚のフンにはただうんざりするだけだ。

 店を出ると外は雪だった。かなり激しく降っていて吹雪のようだった。身を切るような寒さだったが、酒で火照った体には心地がよかった。少なくとも最初の一分間は。俺は最後の煙草に火をつけると大粒の雪が街灯の明かりに反射してキラキラと輝く様子をボンヤリと眺めた。降りしきる雪が通りを白く染め上げていくのはどこか幻想的な光景だった。ドブ臭い商店街ですら何か特別なもののように思えた。さっきのできごとが信じられないほど穏やかな夜だった。
 煙草を吸い終えると、駐車場に向かって歩き始めた。車は歩いて十分ほど離れたところにあったコインパーキングに入れてあった。店の駐車場は平日のくせに一杯だった。でも、なんで居酒屋に駐車場があるんだろうか? 飲酒運転は法律で禁止されているはずなのに・・・・ 
 十分近く歩いたが、駐車場は見つからなかった。俺はさらに商店街の中をさまよった。店のシャッターが軒並み閉まっているせいで、自分がどこにいるのかすらよくわからなかった。ほとんどの店がつぶれているようだった。人に聞けば早い話なのだが、こんな時間にこんなさびれた通りを歩くものは一人としていなかった。俺は酔いが回った頭で何か目印になるものがなかったかを思い出そうとしたが、隣の車が赤だったこと意外は何も思い出せなかった。俺は、とりあえず来た道を引き返そうときびす返した。雪はさっきよりも強くなっており、すでに数ミリほど積もっていた。俺は落書きだらけの冷たいシャッターを眺めながら携帯電話を車の中に忘れてきた自分のバカさ加減を心から呪った。普段使うことなんてほとんどない代物なのに。
 さらに五分ほど歩くと、踏み切りにぶつかった。俺は自分がさらにとんでもない方向に来たことにようやく気づいた。駐車場の側に踏み切りなんてなかったし居酒屋の側にもそんなものはなかった。俺はだんだんと激しい恐怖に憑かれ始めた。自分が遭難しているのは疑いようがなかった。脳内のアルコールが脈拍とともに蒸発していくのがわかった。一瞬、俺の脳裏に明日の新聞の見出しがデカデカと浮かんだ。

 ? 商店街の真中でやわな二十四歳男性の死体を発見!
 他殺か? 自殺か? それとも大雪による凍死か? ?
 
 俺は辺りを見渡した。そして煙草を切らしていることを思い出し、二十メートルほど先にある一軒の酒屋の方に歩いていった。その店の軒先には煙草の自販機と、ジュースの自販機があった。そして公衆電話も。まさに地獄で仏だった。さっき今月の生活費のほとんどをつかってしまったが、幸運なことにまだ小銭と千円札を合わせて一万円近くはあった。温かいコーヒーと煙草くらいは買える。考えるのはコーヒーブレイクの後でいいだろう。それに線路があるということはこの辺に駅があるってことだしそのうち誰かが通るだろう。煙草を買おうと年代ものの自販機に金を入れていると後ろで声がした。女の子の声だった。
 「あのう・・・・」
 俺は後ろを振り返った。背が低くて、すこしぽっちゃりとした黒髪の女の子だった。茶色のダッフルコートのようなものを着て、俺の方をジッと見ている。切れ長な目と口元のホクロがなんともかわいらしくて日本人形のようだった。年は十七、八といったところだろうか。
 「はい」
 俺はセブンスターのボタンを押すと、出てきた煙草を取り出した。
 「あのう・・・・」と彼女がまた遠慮がちに言った。「私も雨宿りさせてもらっていいですか?」
 「ああ、どうぞ」俺は煙草のセロファンを切ると、封をやぶって中から一本取り出し、口にくわえて火をつけた。「むさくるしいところですが」
 彼女はクスリと笑うと店のシャッターの前に立った。
 「なんか飲む?」と俺は彼女に聞いた。「よかったらご馳走するよ」
 「ありがとう。でもいいです」
 俺は缶コーヒーを買うと、彼女の横に立って栓を空けた。自販機の灯かりと、外灯のたよりない光が彼女の顔を照らしていた。彼女の肌は透き通るように白く、まるでビスクドールのようだった。
 「ねぇ、お兄さんは何してる人なの?」と彼女が言った。
 俺は甘ったるい缶コーヒーを一口飲むと彼女の方を振り向いた。「今は、道に迷ってる酔っ払いだな。で、明日は靴屋の日雇い店員として働く売れないバンドマン・・・・・」
 「そして優しい人ってわけね」と彼女がつけくわえた。
 優しい人だって? 俺は眉をしかめた。そんなことを言われたのは初めてのことだった。この俺が優しい人? 俺の親父はいつも俺のことを冷血動物だって言ったぞ。
 「名前は?」と彼女が俺に聞いた。
 「ああ・・・・慎一、香村慎一って言うんだ」
 彼女がクスリと笑った。「レトロな名前ね。なんか大正時代の書生みたい」
 「ああ、よく言われる。親父が偏屈なヤツだったんだ。ところで君は?」
 「筑摩優子」
 「いい名前だね」
 「本当にそう思う?」
 「ああ。日本人らしい、いい名前だと思うよ。俺は今流行りのレイカだとかカレンだとかって名前よりも、優子だとか智子だとかっていう古臭い名前の方が好きなんだ」
 「それって誉めてるの?」
 「もちろん、誉めてるんだよ」
 「けなされてるような気がする」
 「ごめん。俺は口下手なんだ」
 彼女が踏み切りの方を眺めながら嬉しそうに微笑んだ。どこか陰のある笑い方だった。俺は彼女を見ながらなんで傘ももっていないのに、髪や肩に雪がついていないのだろうと、ふと思った。
 「最近変な事件がよく起こるでしょ」と彼女が突然言った。「その理由はわかる?」
 「いや」
 「親が変な名前をつけるからよ。レオナだとかネロだとかペーターだとかハイジだとかカマンベールだとかそんなバカな名前をつけるからいけないのよ。そんなホワイトトラッシュ共の名前をつけるから犯罪が欧米風になっていくのよ。レオナなんて名前は聞いただけで吐き気がする」
 俺はしばらく考えてから首を縦に振った。なんとなく当たっているような気がした。そういえばさっきのいけ好かない野郎もそんな感じの毛唐クサイ名前だった。たいした洞察力だ。この子はきっと頭のいい子にちがいない。
 「ねぇ」と彼女が言った。「お兄さんには彼女がいるの?」
 「いや・・・・」俺はチラッと彼女の方を見た。「君は?」
 「私も」
 「じゃあ、似たもの同士ってわけだ」
 「そんなところね」
 俺は短くなった煙草をブーツで踏み潰した。
 「高校生かい?」と俺が彼女に聞いた。
 「うん一応ね。あんまり学校には行ってないんだけど」
 「学校は退屈だからな」
 「そうじゃないの・・・・」と彼女が言う。「友達がいないの」
 俺は冷たくなり始めた缶コーヒーをグビリとあおった。「学校の連中がバカに見えるとか?」
 「全然」
 「じゃあ、学校に行く途中にゲーセンがあってついその誘惑に負けちまって、着くと学校が終わってるとか?」
 「そんな人いるの?」
 「ああ」
 「どこに?」
 俺は右手の親指で自分を指した。「ここに」
 「えっ? そうなの?」
 「ああ、俺はそれで出席日数が足りなくなって高校を四年間行ったぜ。修学旅行には二回も行った。二回目の時なんて俺がツアーガイドさ。『あちらに見えますのがまったく出ないパチンコ屋でございまーす。三万円つぎ込んでもまったくかかりませーん』とかなんとか言ってね。毎回、校長に会うたびに今年こそは卒業できるんだろうなって言ってからんでやったよ。そしたら卒業させてくれた」
 彼女が笑った。「いいなぁ」
 「高校を四年間行くことがか?」
 「ちがうよ。楽しそうでいいなって意味だよ!」と彼女が笑いながら言った。そして彼女は数秒ほどして突然暗い顔になった。「私、学校に友達がいないの。みんなから嫌われてるんだ」
 「じゃあ、君もみんなのことを嫌ってやれ。それでおあいこだ。キライなヤツと無理して付き合うことなんてないさ。友達がいないんならギターでも始めればいいよ」
 また彼女が笑った。「お兄さんは楽しい人ね。学校にお兄さんのような人がいたらな」
 「俺もそう思うよ。高校の時に君みたいな子がいたらなって。そうしたらきっと四年間も高校行くハメにならなかっただろうな」
 「お兄さんは高校の頃に友達はいた?」
 「一人だけな」
 「ふーん」彼女が長い髪を耳にかけた。「その子とはまだ友達?」
 「ああ。たまに地元に帰るんだけどその時はいつも会うよ。でも、もうこの世にはいないんだ」
 「どうしたの?」
 「自殺した。会社の社長にさんざんいじめられて、それを苦にビルの十一階から飛び降りたんだ」と俺は言った。「自分勝手な野郎だよ。俺や自分の両親のことなんて微塵も考えなかったんだ。あの世で会ったら絶対にドンペリを奢らせてやろうと思ってる」
 「私と一緒ね」
 「えっ? 君の友達も自殺したの?」
 「ねえ」と彼女が真剣な顔で言った。「お兄さんはまだ生きていたい?」
 「はっ?」
 「お兄さんはまだ生きていたいかって聞いたのよ」
 俺は彼女の顔を見ながら、しばらく考えた。死ぬこと自体はどうでもよかったがバンドのことと、書きかけの短編のことが少しだけ気にかかった。それに憧れのバンド「ナイロン」との対バンが一週間後に迫っていた。たいしたことではないのだが。
 「そうだな、まだあと少し生きていたいな」と俺は言った。「幸薄い人生だけどね」
 「そう・・・・」
 彼女が急に暗い表情になった。まるで両親が空爆で死んだかのような悲しげな表情だった。冷たい空気がことさら冷たく感じられた。俺はまた何か変なことを言ったのだろうか。でも何を? 俺はひび割れた足元のコンクリートを眺めながら、自分の言ったことを思い出そうとした。しかし、思い当たる節はなかった。
 俺は彼女の顔を覗き込んだ「おい・・・・どうかしたのかい?」
 突然、彼女がニッコリと笑った。そして、両手を俺の首に回すと、自分の唇を俺の唇に押し当てた。歯と歯の当たるガチっという音がした。俺は思わず後ろにのけぞってシャッターに背をくっつけた。一瞬、唇に柔らかい氷をくっつけられたような気がした。ひどく冷たい唇だった。
 彼女は俺から離れるとクスリと笑った。俺はバカみたいに口を半開きにして呆然とその場に立ち尽くしていた。何が起こったのかさっぱりわからなかった。夢だろうか。
 「私ね・・・・」と彼女が嬉しそうに話はじめた。「キスするのはこれが初めてなの」
 「夢じゃなかったんだ」
 「イヤだった?」
 「いや、うれしいよ・・・・すごく」と俺が言った。「でも、初めてならもっとちゃんと人を選ぶべきだよ。初めての相手が俺なんてのは君がかわいそうだ」
 彼女がニッコリと笑った。「お兄さんだったからよかったんだよ」
 「俺は、ごらんの通りのロクデナシだぞ。定職もなければ、金もない・・・・おまけにバンドも全然売れてない・・・・」
 「関係ないよそんなこと」と彼女は笑った。「もっと自信を持って」
 「ありがとう・・・・」
 俺はどう返していいのかわからず黙りこんだ。口の中でリップクリームの甘い味がかすかにした。ラズベリーのような優しい味だった。
 彼女は突然、軒先から出ると俺の方を振り返った。「じゃあ、そろそろ行くね」
 俺も雪の中に飛び出した。「送るよ」
 「いいの、この近くだから。それと、お兄さんの車は、この先を真直ぐ行ったところにあるコインパーキングに止まってるよ。そばに小さな社があるからすぐわかると思う」
 「えっ?」
 「こまかいことは気にしなくていいのよ」
 彼女はもう一度俺の首に手を回すと、ゆっくりと唇を重ねてきた。今度は歯もぶつからずうまくいった。いいキスだった。俺は彼女の肩に右手を回すと腕に力を入れた。そして彼女の髪から雪の匂いがとれるまでずっとそうしていた。なんだか雪の妖精とそうしているような気がした。
 彼女は俺から離れるとニッコリと笑った。「今のはどうだった? 上手にできてた?」
 「ああ。将来きっといい女性になるよ。君は」
 「本当?」
 「本当」と俺は言った。「だから君も自分に自信を持って」
 彼女は嬉しそうに微笑むと、雪の中を歩き始めた。そして突然後ろを振り返ると、「仇をとってくれてありがとう」と言った。そう言ったように聞こえた。俺はなんのことだかわからなかったが、「気をつけてな」と言って、右手を振った。彼女が踏み切りを超えると、ちょうど警報機が鳴り始めた。俺は電車が通過してからもジッと彼女の歩いて行った方向を眺めていた。

 翌日、二階の社員食堂で煙草をふかしていると制服姿の佐伯が入ってきた。午後七時のことだった。ヤツは入り口脇の自販機でジュースを買うと「やあ」と言ってうれしそうに俺の方に歩いてきた。まるで昨日のことなど屁とも思っていないようだった。きっと昨日の晩、何かいいことがあったのだろう、と俺は思った。
 ヤツが俺の前の椅子に腰を下ろした。「昨日はお疲れ様でした」
 俺はチラッとヤツを見た。ヤツの方から大きらいなセロリの匂いがした。「昨日は悪かったな」
 「いや、いいですよ」とヤツが笑った。「俺もあいつはキライだから」
 「ふーん。ならよかった」
 俺は煙を吐き出すと煙草を灰皿に押し付けた。どうりで、友達が殴られてるのに涼しい顔をしてたわけだ。
 「休憩中ですか?」
 「いや、もう終わった。帰るところだよ」
 ヤツがズボンのポケットから煙草を取り出して口にくわえた。「ところで香村さんはあの後、どこに行ったんですか?」
 「まっすぐ帰ったよ。途中で一時間近く道に迷ったけど」
 「えっ? 迷う? あんなところで一体どうやって?」
 「来た道を忘れればいいだけのことだよ。簡単なことさ」
 ヤツが笑いながら煙草に火をつけた。数メートルほど前の席にカップラーメンを持った警備員が座った。午後七時を過ぎた食堂には俺達とそのオッサンしかおらず、ラーメンを啜るズズッという音が妙に大きく感じられた。二十以上もあるテーブルがバカみたいだった。
 「何かいいことでもあったのか?」と俺が言った。「やけにうれしそうだな」
 ヤツが照れくさそうに笑った。「ええ、実はあの後、レイカちゃんと遊ぶ約束したんですよ」
 「誰のこと?」
 「あの中で一番かわいい子です」
 「ふーん」
 俺はテーブルの上のレモンティーに手を伸ばした。ヤツが誰のことを一番かわいいと言っているのかよくわからなかったが、詳しくは聞かなかった。誰と誰がひっつこうが別にどうでもいいことだった。
 「今度は、もっといい面子の時に呼びますよ」
 「ありがとう。でも、もういいよ」
 「ひょっとして昨日のことがトラウマになってます」
 「いや、むしろ感謝してるよ。お陰でいい子に会えたんだ」
 ヤツが身を乗り出した。「誰です?」
 「おまえの知らない子さ。あの場所にはいなかった」
 「どこでですか?」
 「あの辺に踏み切りがあっただろう。その手前の酒屋さ」
 「えっ?」ヤツが眉をしかめた。「踏み切りの手前の酒屋? 丸八のことですか?」
 「店の名前までは知らないよ。つぶれたような酒屋だったけど」
 ヤツがいぶかしげに俺を見つめた。「どんな子でした?」
 「かわいい子だったよ。背が小さくて、ぽっちゃりしてて、黒髪がよく似合ってて、口元のホクロと切れ長な目がすごく色っぽかった。まるで日本人形だよ。しかも、すごくいい感性の持ち主だった」
 「香村さんが好きそうですね・・・・・」
 「ああ」
 「ところでその子はどんな服装をしてました?」
 「ダッフルコートを着てたな・・・・茶色の」
 「えっ?」ヤツの顔が一瞬曇った。「その子の年は?」
 「一七、八ってところかな。詳しくは聞いてないけど、高校生だって言ってた。もっともクラスのヤツらに嫌われててあまり学校には行ってないらしいけど」
 ヤツはジュースを一口飲むと真剣そのものと言った表情で俺をにらんだ。「ねえ、香村さん・・・・そういう冗談は止めてくださいよ」
 「冗談なんかじゃないぜ」俺は煙草を口にくわえた。「これは真実だ」
 「昨日のことを根に持ってるんですか?」
 「感謝してるって言っただろう」
 「その話はだれから聞いたんですか?」
 「はっ?」
 俺は唇をひん曲げてヤツの顔を見た。なぜだかヤツの顔には血の気がなかった。煙草を握る手が心なしか震えている。
 「ところで香村さん」とヤツが言った。「その子に名前は聞きましたか?」
 「ああ、聞いたよ」
 「なんて名前でした?」
 「筑摩優子だ。古風ないい名前だろ?」
 「ウソでしょ?」
 「ほんとうだ」
 「ウソって言って下さいよ」
 「なんで本当のことを、ウソっていわなきゃいけないんだ?」
 ヤツは大きな溜息をつくと、目の前の灰皿の辺りを見つめた。そして脅えたような目をしてなにやら独り言を言った。何を言っているのかはよくわからなかったが、あの子のことを知っているようだった。ヤツは何度か筑摩という名前を口にした。
 「おまえどうかしたのか?」としばらくして俺が言った。「まさか、あの子はおまえの元恋人か?」
 ヤツは何も答えなかった。青白い顔をしてただ灰皿の辺りを見つめているだけだった。俺はヤツの顔を見ているうちにだんだん怖くなってきた。まるで何かにとり憑かれているかのようだった。視線があちこちを泳ぎ回り、どこを見ようとしているのかさっぱりわからなかった。
 「おい、何か言えよ」と俺が言った。「おまえコカインか何かキメてねーか。目がワイン中毒みたいだぜ。おまえあの子の何なんだ?」
 「そいつは・・・・」と数秒ほどしてヤツが話し始めた。「俺の高校時代の同級生だったんですよ」
 「はっ?」
 俺はヤツの言ったことが理解できなかった。こいつはすでに成人式を迎えており、何回考えても年が合わなかった。やはりこいつは何かキメているのだろうか。
 「おまえ、考えてからモノを言えよ」と俺は笑った。「おまえは、二十一であの子は高校生だぜ」
 ヤツが甘ったるい缶入りレモンティーをグビリと飲んだ。「自殺したんだ・・・・高校二年の冬に。香村さんが言ってた、踏み切りで電車に飛び込んで」
 「なに?」
 「香村さんてここら辺の出身じゃなかったですよね?」
 「ああ・・・・」
 「地元では有名な話ですよ。俺と同じ年くらいのヤツなら誰でも知ってますよ。それにあそこで筑摩を見たっていう人が何人もいる。香村さんが言ってたみたいな茶色いダッフルコートを着た筑摩をね。あいつが死んだ時に着てた服がそれだったんです。それに昨日みたいな雪の降る寒い晩だった」
 「ウソだろ?」
 「本当です。もし俺の言ってることが信じられないなら青果のバイトの上田に聞いてみればいいですよ。あいつは俺と同じ高校だったから知ってるはずです。高二の時、俺と上田はあいつと同じクラスだったんです」
 俺はヤツの顔を覗き込んでジッと目を見た。ウソを言っている目ではなかった。ヤツはいつしか落ち着きを取りもどしているようだった。防腐剤の固まりのようなレモンティーが効いたのかもしれない。
 「理由はなんだったんだ?」
 「いじめです」
 「やっぱりそうか」
 ヤツの表情がまた曇った。ヤツは俺から視線をそらすと、自分の手元をジッと見つめた。まるで俺と視線を合わせるのを避けているかのようだった。コイツがそれに関与していたことがなんとなくわかった。
 「昨日、香村さんともめた人がいたでしょう?」とヤツがポツリと言った。「あいつも同じ高校だったんだ」
 「それで」
 「あいつが・・・・レオナが主犯格だったんだ」
 「あいつが?」
 俺はふと昨日の帰り際にあの子が言っていたことを思い出した。「仇をとってくれてありがとう」と言っていた意味がようやくわかった。あの子はあのいけ好かない野郎をぶっ飛ばしてくれてありがとうと言っていたのだ。そういえばあの子がキライな名前の例に挙げていたのもこの名前だった。
 俺達はしばらくの間、黙りこくった。ヤツはひっきりなしに携帯でメールを送っていた。静まり返った食堂は、ラーメンの汁を啜る音と、携帯のボタンを押す音でにぎやかだった。俺は煙草のヤニで黄ばんだ壁を見ながら、あの子のことをぼんやりと考えていた。不思議とあの子がこの世の人間でなかったことに恐怖はなかった。それ以前に信じられなかった。同姓同名者なんじゃないかと一瞬思った。一体、あの子はあのいけ好かない野郎に何をされたのだろう。死ななきゃいけないほどのことをされたのだろうか。でも、死ななきゃいけないほどのことってどんなことだ? 
 「おい」と俺は言った。「あの子はなんでいじめられたんだ? あの子は人に嫌われるような子じゃないはずだぜ?」
 ヤツが面倒くさそうに携帯から顔を上げた。「家がド貧乏だったからですよ」
 「なに?」
 「高一の終わりに、あいつの親父が自殺したんです。借金を苦にして。それ以来みんながあいつの机に『金返せ!』ってマジックで書いたりするようになったんです。財布がなくなったフリをしてその罪をあいつになすりつけたりとかね」
 「人間の所業とは思えないね」
 俺達はまた黙りこくった。話すことがもうなかった。ヤツは携帯電話をいじりながら「あっ、やっぱりレイカちゃんも同じなんだ」とうれしそうにつぶやいている。俺はテーブルの上の煙草に手を伸ばすと、昨日のクソ野郎の陰険な嫌がらせに耐えている彼女の姿を想像した。そして昨日のクソ野郎とその傀儡が口汚く彼女を罵り、傷つける様子を想像しているうちにだんだんと怒りが込みあげてきた。これまで感じたことのないような悲しみに似た怒りだった。携帯を見ながら笑っている佐伯の顔に吐き気がした。なんて汚らしい笑顔なんだ。きっとこいつはあの子がいじめられているときもこんなふうに笑っていたにちがいない。昨日のクソ野郎と一緒に白い歯を見せて。彼女にはこの笑顔がどのように見えただろう。
 「ところで」としばらくして俺が言った。「高校時代、おまえは昨日の野郎と仲がよかったのか?」
 ヤツが面倒くさそうに携帯から顔を上げた。「ええ、同じ中学で同じ高校でしたから」
 「どれくらい仲がよかった? 昼飯は一緒に食ってたか?」
 「はい」
 「買い物とかにも一緒に行ったか?」
 「はい」
 「帰りは一緒だったか?」
 「はい」
 「ネロって確かおまえのあだ名だよな?」
 「はい」
 「それを聞いて安心したよ」俺は椅子から立ち上るとヤツの方に歩いていった。「じゃあ、おまえもあのクソ野郎と一緒にあの子を殺したってことだな。そういえばあの子がキライな名前に上げた中におまえのあだ名があったよ」
 ヤツは数秒ほどボーッと俺を見ていた。何が起こったのかわかっていないようだった。そしてこれから何が起こるのかもわかっていなようだった。警備員のオッサンがラーメンの汁を啜りながら不思議そうにこっちを見ていた。俺は、右の拳を硬く握り締めると左手でヤツの髪をつかみ、のんびりと言った。「雪の妖精からのあずかりものだ。ありがたく受け取りなよ」
 「おい! 待ってくれよ!」とようやく事態を把握したヤツがわめいた。「あんた言ってることが無茶苦茶だぜ! 俺は何もしてない! 見てただけだ! あいつをすっ裸にして写真を撮ったのは他のやつだぜ! 俺じゃないんだ!」
 「そんことまでしてやがったのか! この薄汚ねーブタ野郎が!」
 俺は全体重を乗っけて思いっきり右の拳をヤツの顔面に叩きつけた。閑散とした食堂に骨と骨のぶつかる鈍い音がこだました。ヤツはうめき声のようなものを上げて顔を抑えたまま机に突っ伏した。ヤツの指の隙間から垂れた血がテーブルに赤いシミを作った。俺は呆然とする警備員のオッサンに一瞥をくれるとヤツの背中に唾を吐きかけ、食堂を後にした。警備員のオッサンが「だいじょうぶか?」と言って席を立つのがわかった。俺は店の外に出ると駐車場に向かって歩き始めた。そして、手についていた血を二ブロックほどさきにあった電信柱にこすりつけた。外は相変わらずの雪で、あの子の唇のように冷たかった。なぜアイツにあれほど腹が立ったのかが自分でも不思議だった。

 翌日。朝の十時に目を覚ました俺は、飯も食わずに近所のスーパーに向かった。そして店内の花屋で三千円の花束を作ってもらい、食品売り場で缶ジュースとお菓子を買うとすぐさま車に飛び乗って隣町に向かった。花屋のおばさんが「彼女にかい?」 と聞いてきたので、「献上の品です」と言っておいた。途中、何かプレゼントを買っていこうと思い国道脇のジーンズショップに立ち寄って、温かそうな濃い茶色のマフラーを買った。少し地味だったが、無地でどんな服にもよく合いそうだった。レジで金を払うと財布の中からちょうど札が全部なくなったが、惜しいとは全く思わなかった。金ならまた稼げばいいし、家にはまだ米と醤油があった。
 隣町には三十分ほどで着いた。車はこの間のコインパーキングに入れた。昨日、一昨日の雪のせいで道が混んでいたが悪くはなかった。そのお陰で久しぶりにのんびりと音楽を聴くことができた。途中、二度ほどスリップしたが、さいわい事故にはならずに済んだ。俺は屋根の上に十五センチほどの雪帽子を乗っけた車を見ながら今度まとまった金が入ったらスタッドレスタイヤを買うことにしようと思った。もっともそれまでに冬が終わっていなければの話だが。
 荷物を持って雪でぬかるんだ通りを商店街に向かって歩いて行った。風が切りつけるように冷たかった。商店街はこの間来た時と寸分狂わぬ有様で、ほとんどの店がシャッターを下ろしたままだった。昼前だというのに人通りはほとんどなく、いるのは暇そうな年寄りばかりだった。つぶれかけた喫茶店の前で年寄りのグループと鉢合わせた。燻製ニシンのような干からびた集団だった。一人のジイさんがいぶかしげに俺を見ながら「この国はもう終わりじゃ・・・・ええ若いもんが昼間から遊んでおる」と漏らした。俺はそのジイさんにニッコリと微笑むと、そんな国にしたのはあんたたちだぜと心の中でつぶやいた。あんたたちがどこかで舵をとりちがえたのさ。
 十分ほど歩くとこの間の踏み切りに差し掛かった。俺は踏み切りを渡るとこの間の酒屋の方に歩いて行って辺りを見渡した。彼女がどこにいるかはすぐにわかった。警報機の横に枯れた花束と、ジュースの缶が置いてあった。長いこと誰も来ていないのか、レモネードの白い缶が排気ガスと泥で真黒になって雪に埋もれていた。見るからに寒そうだった。
 俺は汚れた缶と、枯れた花束を掴むと酒屋の前のゴミ箱に捨て、自分の買ってきた花束やジュースをそこに置いた。それから袋をやぶいてマフラーを取り出すと、警報機の横の柵に巻きつけた。隙間ができないように硬く二重に結んだ。
 立ち上がると、ジーンズの前ポケットから煙草を取り出し、火をつけた。そして一口だけ吸うと、またしゃがみこんで、雪の中にフィルターの部分を差し込み線香のかわりにした。俺はジーンズの腿で手を拭うと、両手を合わせて、目をつむった。
 「バカかおまえは・・・・」
 俺は思わず言った。とむらいの言葉をかけようと思ったができなかった。なぜだか勝手に死んだ彼女にむしょうに腹が立った。高校時代の友人が自殺したときの何倍も腹が立った。おまえは、自分のしたことがわかっているのか・・・・
 もやもやした気持ちが一分以上続いた。憎悪と感情が殺しあっているような気分だった。俺は落ち着くのを見計らって優しい声で彼女に語りかけようとした。むろん心の中で。でも、言うべきことは何も見つからなかった。ただ生きて出会えたらいい友達になれたのにと思うだけだった。きっとステキな女性になれたのにと・・・・
 目を開けると雪に刺した煙草はとっくの昔に灰だけになって消えていた。どうやら五分近く彼女に話しかけていたようだった。俺は立ち上がるとポケットから煙草を取り出し、一本抜いて火をつけた。目の前では柔らかい冬の日差しに包まれたマフラーが冷たい風に揺れていた。まるで全てのことから開放された彼女が安堵の寝息を立てているかのように揺れていた。優しくも悲しい光景だった。太陽に反射して輝く雪がどことなく彼女を思い出させた。笑っているみたいだった。
 俺は少しうつむいて彼女に「またな」とつぶやくときびすを返して駐車場に向かった。そして車に乗り込んでエンジンをかけると部屋に向かって走り始めた。俺はしばらくしてカーラジオ流れ始めたクワイアーの『冷たい初恋』を聴いて少しだけ泣いた。