連作短編小説「玉木さんと鈴木くん その4『進路』」

 俺の両親は共働きで二人とも医者だ。頭が固くていつも偉そうで人を下に見ている。俺も医者にしようと厳しい教育をしていた。俺が中学でグレなければ今もずっと続いていただろう。ただ父親だけは未だに諦めていないらしい。
「先生から電話があったぞ」
 恐らく俺が全教科赤点をとったことによる「息子さん、このままだと留年しますよ」みたいなことを言われたに違いないと思いながら、俺は親父の小言を聞く。
「まったく、いい加減にしてくれ。今年は受験だ。遊んでいる暇などないぞ。今まで大目に見てきたが、髪の毛もそろそろ黒に戻したらどうだ」
「嫌だ。親父もいい加減に諦めれば」
「ヒロ。お前はこの先どうするつもりなんだ」
「親父には関係ない」
 この問答をどれだけ繰り返しても、俺の中の結論が変わることなどない。親父だって俺が髪の毛を茶髪にして、喧嘩上等。校則を破ってばかりいる原因が自分にあることぐらいもう気付いているはずだ。それでもまだ俺が医者になることを諦めていないのならば、親父こそ馬鹿だ。
「関係ないわけがないだろう。お前は俺の息子だぞ」
「俺は、お前のことを親父だなんて思ったことはない」
 勢いでそう言ってしまって、俺ははっとして口をつぐんだ。父の隣で不安そうな顔をずっと浮かべていた母を一瞥する。さらに険しい表情になった母を見て、俺は言ってはいけないことを言ってしまったのだと自覚する。
「……悪い。言い過ぎた」
「いや。お前がそう思っているのならもう好きにすればいい」
「え?」
 親父の意外な言葉に、俺は目を丸くする。素直に謝ったのにその返答は予想していなかった。
「出て行け。この家から」
「ちょっと、お父さん」
 親父の発言を、母は止めようとしてくれていたが意味もなく。俺は親父がものすごく怒っているのを感じ取っていた。
「わかったよ。言われなくても出てってやるよ」
 俺は舌打ちをしてそう吐き捨てた。本当に出ていこうと思い、自室に戻って大きめのカバンに着替えを詰め込む。後ろから母親の声が聞こえてくるが、俺は無視して詰め終わった荷物を持って家を出る。行き先はいつものところだった。

「また家出してきたの。勉強の邪魔になるから出て行ってくれないかしら」
 隣の家に駆け込むと、幼馴染の玉木梓から辛辣な第一声を浴びせられた。そう、俺の玉木家への家出はもう何度も繰り返されたことだった。子どものころから変わらない。俺の憩いの場所になっていた。俺がこうして家出をするたびに隣のおばさんは仕方ないといった顔をして俺の家に一報をする。そして翌日に、母親が迎えに来るというのがいつものことだった。しかし最近は母親が迎えに来ようがなんだろうが、二三日は家に帰らないようにしている。たった一日の家出など、子どもみたいで嫌だからだ。
「お前の邪魔はしないよ。どうしても嫌なら、別の所に行く」
「そうしてくれると、ありがたいわ」
 いつもだったらこんな言葉、平気なはずだった。ただ今日、違う点があるとすれば父親が俺に向かって「出て行け」といったこと。普段ならば俺が勢いで「出て行く」と言って家出をするところなのに。今回は珍しく親父から突き放されたのだ。傷ついていないはずがない。
「そうかよ」
 俺は小さく呟いて、それから荷物を持ち直す。
「やっぱり他に行く」
「そう。いつも強引に泊まるのに、どういう風の吹き回し」
「別に関係ないだろう」
「そうね。他に行ってくれたほうがこちらとしても助かるわ」
 迷惑をかけている自覚はあったので、何も言い返せなかった。
「じゃあな、ガリ勉女」
「うるさいわ」
 俺の精一杯の皮肉に、耳に手を当てて聞こえないふりをする梓。一応気にしてはいるらしい。玉木家を出ると、眩しい夕日が目に入った。思わず瞼を閉じる。
「さて、どうしたものか」
 俺はそう呟きながら、右手で太陽の光を遮る。季節は春で、もう外も夏のように暖かくなってくる頃だった。何人かの友人宛に、家に泊めてもらえないかとメールを送る。これで誰からも良い返事が来なければ野宿でもするかと考えていた。一人目の返信。ダメ。二人目もダメ。三人目も四人目も勘弁してくれと返信が来た。俺は仕方がないので公園で野宿するルートを選ぶことにした。

 所持金三千円。俺はもっと持ってくればよかったと後悔していた。最初は玉木家に泊まる予定だったので、お金など必要ないと思っていたのがいけなかった。高校生なので当然カードも持っていない。友人宅にも断られた俺は、一人公園で寝袋もなしにベンチに横になるしかなかった。
「ちくしょう。梓め。一生恨んでやる」
 俺より勉強をとったことを後悔させてやる。と一人で愚痴りながら携帯を見る。親からの不在着信が一件も入っていないところに虚しさを感じる。俺のことはどうでもいいのか、それとも玉木家に居ると思って安心しているのか。その場合まだ玉木家に電話していないことになる。やはりどうでもいいのか。電池がもう半分程なくなっている。残量が減るたびに俺の中の不安が増していくようで、俺は見るのをやめた。ベンチに横になっていると固くて背中が痛いので、起き上がる。隅を見ると鳥の糞らしきものが見えて、俺はそこらに落ちていたスーパーのチラシを上においた。横になる前にベンチもティッシュで軽く拭いているが、綺麗とはいえなかった。正直、俺は家に帰りたかった。柔らかいベッドが恋しい。
「鈴木くん?」
 不意に声をかけられて、俺は視線を向ける。公園の入り口に立っていたのは女の子で、俺はその顔に見覚えがあった。
「白井さん? もしかして遊びに来ていたのか」
 そこにいたのは白井みづきという梓の友人だった。お互いの家に遊びに行くほど仲がよく、俺が玉木家に行くとたまに顔を合わせることがあった。
「ううん。親戚の家がこの公園の真裏で、今日は法事があったからそのまま泊まるの。今は、ちょっとコンビニに行く途中で」
 白井は首を横に振りながらそう言った。ああ。そうか。と俺は思い出していた。この子は必要以上に他人に気を使う。今だって俺に話しかけなければ時間を割くこともなくコンビニに行けたのに。
「そうか。いってらっしゃい」
 俺は自然に右手を振る。この公園はダメだなと頭で考えていた。白井に見つかってしまって居心地が悪い。
「あの。どうしたの、その荷物」
 白井が指摘したのは、俺が家出するときに持ってきたボストンバックだった。中身は衣類で鞄はそれなりに膨らんでいた。
「あー。気にしないで」
「旅行にでもいくの」
「まあ、そんなとこ」
「そっか」
 会話が途切れる。俺は白井に本当のことは言わなかった。言ったところで白井を頼れるわけでもないと思っていたからだ。白井がさっさとコンビニに行くことを俺は願っていた。ところが、白井は俺の座っているベンチの近くまで来た。俺は心臓が飛び跳ねそうになる。白井はポケットから携帯電話を取り出すと、何やら操作しだした。なんだろうと思いながら白井をじっと見つめていると、白井は画面をこちらに向けた。
「さっき、梓ちゃんからメールが来ていたの。鈴木くん、旅行じゃなくて家出でしょう」
 それは証拠をつきつけるようだった。俺は図星をつかれて顔をしかめた。つまり白井は俺の家出を最初から知っていて、俺の姿を見つけたから声をかけたということらしい。メールには俺を探している。見かけたら連絡下さい。と書いてあった。
「あいつ。自分で追い出しといて何してんだ」
 俺はそう言って頭を抱える。
「梓ちゃんなりに、心配しているんだと思うよ。隣、いい?」
 白井がそう言うので、俺は頷いて少しだけ横にずれる。思えばこうして白井と二人で話をするのも久しぶりだった。
「コンビニ行かないの」
「鈴木くんに話があるから。後でいい」
「家の人が心配するだろう」
「それは鈴木くんも」
「俺は、心配なんかしてないだろ」
 自分でそう言って、溜息をつく。気分は最悪だった。
「ねぇ、鈴木くん。何で梓ちゃんがあんなに勉強ばかりしているのか、その理由を知っている?」
「知らない。自分のためとか言いそう」
 何故、白井がそんな話をするのか俺はわからなかった。てっきり家出のことを説教されるのかと思っていたのに。
「鈴木くんのためだよ」
「は? 何で」
 予想外の答えに、俺は目を丸くする。勉強と俺とどういう関係があってそうなるのだ。俺が困惑した顔をしていると、白井は言った。
「何となく聞いてみたんだ。将来なりたいものでもあるのかなって。そのために勉強しているのかと思っていたの。でも、鈴木くんが医者になりたくないから、自分が医者になるんだって言ったの。最初は意味がよくわからなかったんだけど、鈴木くんの両親が医者だって聞いて、何だか納得しちゃった」
「何だよそれ」
 俺は梓らしいと思う反面、怒りが湧いてきていた。梓は俺と俺の両親のために犠牲になるつもりなのだ。そんなので俺と俺の親父が納得するとでも思っているのだろうか。
「梓ちゃんは、鈴木くんを解放してあげたいんだと思う。そのために必死になって勉強している。鈴木くんはここで何をしているの」
「俺は……」
 言葉が出なかった。俺はずっとあの両親から逃げたかった。だから何度も何度も歯向かって俺は俺のしたいようにするんだって粋がっていた。けれど、結局俺は何がしたいのか未だにわかっていない。俺はただ自分のことだけを考えていた。梓が俺のために何かをしようとしていることなんてまったく気づいていなかった。
「こんなことじゃあ、去年の恩返しになんてならないとは思うけど。今度は私が貴方たちを助ける番。だから、もっと梓ちゃんと向き合ってあげて。誰かのためにそんなに必死になれるなんて、凄いことだと思うから」
 去年。そう言われて俺は思い出していた。去年の夏。俺と白井はあの時もこうして話をしていた。友だちになりたい人がいるのと、白井は切り出した。俺は親身になって相談に乗ったのを覚えている。
「白井。十分だよ」
 俺は立ち上がる。このままここにいてはダメだと思った。俺は梓と話し合わなければならない。

 梓は玉木家の門の前に一人立っていた。白井と別れた後、きっと彼女が梓にメールを送ったのだろう。帰ってくるとわかって出迎えてくれたのだ。
「おかえりなさい。遅かったわね」
 梓は俺の姿に気がつくとそう言った。
「お前なぁ。出て行けって言ったのそっちだろう」
「あら。そうだったかしら」
 とぼける梓の目の前に立つと、俺は何となく昔話をする。
「だいたいお前は昔からそうだ。素直じゃないうえに嘘つきだ。覚えているか? 小学生のころ、お前の家でご飯を食べさせてもらったとき。俺が嫌いなピーマンを食べ残すたびに、お前が食ってくれていた。自分もピーマン嫌いなのにな。俺は毎回『あずさちゃんに食べてもらった』って言うのに、お前は俺が全部食ったって嘘をついた」
 だから褒めてあげてと言うのだ。俺は両親に褒めてもらった覚えがない。梓はそれを知っていて、可哀想だと思ったのだろう。だから嘘をついてまで俺を立てようとしてくれた。余計なお世話だと俺は思っていた。梓は、その後も数々のつまらない嘘をついた。ほしいものがあったときは大抵ほしくないと言うし、基本は心配をかけたくないとか相手に気を使ってとかそういうものばかりだ。
「そんなもの。覚えていないわ。何が言いたいのよ」
 俺はボストンバックを道路に置くと、首を傾げる梓を自分の胸へと引き寄せる。
「つまりお前はそういう奴だ。人のために自分を犠牲にしても平気なんだ。けれど、そんなのは間違っている。俺のためにお前が医者になろうだなんて、そんな馬鹿みたいなこと俺は望んじゃいない。だからもう必死で勉強なんかしなくていい。頑張らなくていいんだ。つまらない反発はもうしない。親父とはちゃんと話し合う。それで、医者にならないことを許してもらう」
 俺ははっきりとそう口にした。医者にはならない。それはもう俺の中では決まっていること。だからどうしたらいいのかを考えて、出したことだった。梓には自分のなりたいものになってほしい。俺は覚悟を決めたのだ。
「何よそれ。私がいつヒロのために医者を目指しているって言ったの。私は好きで勉強しているの。勘違いしないで」
「白井から聞いたんだよ。どうせ俺と親父たちのためだろう。違うのかよ」
 俺の言葉に、梓は観念したかのように嘆息した。
「そうよ。私、おじさんたちと約束したの。私が医者になったらヒロのことは諦めるって。ヒロのことを自由にしてくれるって」
「そんな約束したのかよ」
 俺は驚いて声を荒げた。思っていた以上に最低な親父だった。俺は思い出す。中学に入るまで梓の成績はそんなに良くなかったはずだ。そうだ。俺が髪の毛を茶色にしたあの頃から急に真面目に勉強に打ち込むようになったのだ。
「だって仕方ないじゃない。あんたの辛そうな顔を見ていたら、放っておけなかったのよ」
「だからって、ばかか? 放っておけばよかったんだ」
「放っておけるはずないわ。だって――」
 梓が言葉を言い終わる前に、俺はあることに気付いた。身体が密着しているせいか、梓の体温が妙に熱い。いや、熱すぎる。その異変に気づいた俺はとっさに梓の両肩に手を置き、身体から引き離してから顔をまじまじと見つめた。
「ちょっとまて、お前。熱があるんじゃないか」
 梓は顔色が悪く、呼吸も荒かった。俺は確信して梓の額に右手をあてる。やはり熱い。
「大丈夫よ。熱なんてないわ」
「ばかやろう。俺のことずっとここで待っていたのか」
 俺はそう梓を叱りつけた。どうせ昨日も夜中まで勉強していたに違いない。俺は今まで気づけなかった自分にも、体調が悪いことを隠していた梓に対しても憤怒していた。
「そんなんじゃないわ」
「もういいっ。とにかく家に入れ」
「大丈夫よ。このままでも」
 俺は渋る梓を家の中へと押し込んだ。どうしてそんなに抵抗するのか理由はすぐにわかった。中に入ると俺たちを出迎えたのは、俺の親父と母親だった。玄関での問答が聞こえたのか居間から出てきたのだ。
「ヒロ」
「親父? どうしてここに」
 俺は驚いて一瞬だけ本題を忘れそうになったが、すぐに我に返ると梓の腕を掴んで前に出す。
「そんなこと今はどうでもいい。親父。こいつ熱があるみたいだ。今すぐ治してくれ」
 親父は俺の言葉に眉毛を少しだけ動かして、それから何も言わずに梓の手を両手で包むように握った。
「母さん。梓ちゃんを寝かせるから用意を頼んでくれ」
「わかった」
 母親はそれを聞くと頷いて、慌てて梓の母を呼びに行った。親父は「歩けるかい」と梓に聞くと手を引いて奥まで歩いて行った。俺はというと、そのまま玄関で立ち尽くしていた。しばらくして荷物を外に置きっぱなしだったことを思い出して取りに戻り、俺は玉木家を見上げた。自分は無力なんだと痛感した。梓が体調を崩してしまったのはすべて俺の責任だ。荷物を肩に背負い直し、建物から視線を外す。俺は宛もなくゆっくりと歩き出した。

「悪いな、有沙。突然押しかけて」
「いいよ。それよりさっき家に電話したら、おばさんが凄く心配していたよ。おじさんに止められているから電話もできないって嘆いていた。それと、伝言。梓の風邪はすぐ治るから安心してだってさ」
 床に布団を敷きながら有沙が言った。俺はあの後電車に一時間程揺られて、一人暮らしをしている梓の姉、玉木有沙のアパートに転がり込んだ。有沙は俺より六歳年上で、社会人だ。頼れる姉貴だと思っている。一人暮らしの女性の部屋に転がり込むのはいかがなものかと思い選択肢から外していたのだが、完全に行く場所を失っていた俺は最後の手段として選んだのだ。
「そうか。別に心配なんてしてない」
「梓も大概だけどさ。あんたも時々素直じゃないよね」
 有沙の言葉に俺は何も言い返せなかった。ベッドの上で胡座をかいて有沙の姿を見つめていると、枕が飛んできた。それは顔面に当たり、俺は後方に倒れた。
「いってー。何しやがる」
 言いながら起き上がると、有沙は腹を抱えて笑っていた。
「あっはっは。らしくない顔しているからつい。悩んでるんでしょう。話だけでも聞くけど」
「笑いながら言うことじゃないだろ」
「ごめん。真面目に聞くね」
 拗ねたように言うと、有沙は先程まで緩みきっていた顔を整え、俺の横に座った。ベッドが二人の体重で軋む。寝巻き姿の有沙姉ちゃんを見るのは、本当に久しぶりだった。子どもの頃はよく俺と有沙と梓の三人で雑魚寝することもあったから、見慣れていたはずなのに。
「俺は勉強が嫌いなんだ。親父と母さんが強要してくるから。医者になるために勉強は大事だって。俺が自分でなりたいって、言ったわけじゃないのに。勉強ばかりで友だちと遊ぶこともできなくて、辛かった。だから俺は有沙たちが羨ましかった。隣の芝生は青いって言うだろ。まさにそれだったんだ。俺は玉木家に生まれてきたかったっていつも思っていた」
「ふーん。うちは逆だったな。隣の家はお金持ちでいいなって。家がうちより大きいし、車もうちより高そうなもの乗っていたじゃない」
「その代わり、家にほとんど親が帰ってこなかったけどな」
 皮肉を込めて俺は言う。どんなに勉強をしても欲しいものが手に入っても、一番大事なものが欠けていたように思う。俺はずっと、寂しかったんだ。
「家庭教師のお姉さんとかいたじゃん。あの人元気なの」
 有沙がそう尋ねてきたので俺は思い出す。そういえばそんな人もいたなと。
「あー。あの人は母さんの高そうなネックレス盗んだのがばれて首になった」
「うわー。そんな話聞きたくなかった」
 遠い目をしている有沙に、自分で聞いたんだろうとつっこみたかった。実際、俺もあまり思い出したくなかった。すごい剣幕で怒る母に、下手な言い訳をする家庭教師。俺はそれをこっそり見ていたのだ。彼女が首になってからだと思う。俺の中でそれまで自分を形成していた何かが崩壊したのは。
「髪の毛染めてピアスあけて喧嘩して。今でもそうだけど、中学時代はアホなことして先生に呼び出しくらうとか日常だったな」
「私が実家に帰ると毎回、顔に痣つくっていたよね」
「その点、高校入ってからあんまり呼び出されなくなったよ。俺成長しているだろ」
「あー。はいはい。で? さっきから思い出話しばっかりで本題に入ってないよ」
 痛いところをつかれて、俺は苦笑い。悩みを有沙に話すのは何だか恥ずかしいから、つい遠回りをしてしまった。
「有沙姉ちゃん。俺、医者になろうかなって思うんだけど。今さらだよな」
 意を決し言うと、有沙は無言で顔を固まらせた。真面目な顔をして俺は有沙を見つめ続ける。
「は? 待って、どういう心境の変化なのそれは」
「予想通りの反応をありがとう。今まで散々、反発してきたからな。自分でもびっくりするよ。梓が俺のために医者になろうとしていたことと、無理をして体調を崩したことが主な理由なんだけどな」
 俺は正直に言った。俺のために熱を出した梓を見て、俺は助けてやりたいと強く思った。もし自分が医者だったら、もっと早く体調の変化にも気付いてやれたかもしれないと思った。
「確かに今さらだけど。でも、いいんじゃないかな。なりたいって思ったんならなれば。まだ間に合うと思うよ。私なんて大学行くまで自分が何の職に就くかまったく決めてなかったんだよ。それが今じゃデザイン関係の仕事してるんだよ。そう思うと高校生で将来のこと考えられるなんて凄いよ」
 有沙はそう言って軽く拍手をしてくれる。
「今までこんなに強く、何かになりたいって思ったことはなかった。親父の言うとおりにするのは癪だけど、俺は俺なりに頑張りたい。だからやっぱり親父と話し合わないといけないよな」
「うん。おじさんとおばさん喜ぶと思うよ。梓も多分、応援してくれると思う」
 誰かのためなら、きっと人は動けるのだろうなと思う。大切な人のためならなおさら。これから死ぬほど勉強しなければいけないのは億劫だけれど、俺は頑張れそうな気がしていた。
「有沙姉ちゃん。ありがとう」
 明日も仕事だからとベッドで眠る有沙に向かって、俺は言う。それから床に敷いてくれた布団に入り電気を消す。
「頑張れ。ヒロ」
 眠りに入る間際、有沙がそう言ってくれたような気がした。 (完)