小説「巴里」

 赤く染まった枯れ葉が目の前でぽとりと冬枯れの路上に落ちた。その葉脈のなかに今、ウサマ・ビンラディンはいる。
 私は、そのように思う。
 それにしても、ビンラディン、あなたはいったいどこで、どうして暮らしているのだろう。周囲には、どんな人たちがいるのか。

 私は寝てもさめてもウサマ・ビンラディンのことを思っている。なぜ、それほどまでに彼に引かれるのか。 そう改めて聞かれると、どう答えていいのか分からない。ただ魅かれるのである。国際社会の中でそれだけ気になる存在ということかも知れない。この意味では彼は、たいした人間である。

 二〇〇七年十一日一日夜のナゴヤドーム。プロ野球の日本シリーズ第五戦で日本ハムを破った中日ドラゴンズは五十三年ぶり二度目の日本一に輝いた。
 九回表の外野応援席。
  私は、それまで完全試合の好投を続けていた山井投手がストッパーの切り札、岩瀬投手に代わったところで、中日ドラゴンズ公式ファンクラブ事務局員でありながら、なぜかそれまで気恥ずかしくて一度も腕を通したことのなかった公式ファンクラブのユニホームであるブルーメッシュジャージーに身を包んだ。
 自分なりに心密かに期していた「日本一」が決定する直前にファンクラブのユニホームを着よう、との思いを実現させるためでドラゴンズの勝利により、私にとってのささやかな「夢」が実現したともいえる。
 「あと二人、あと二人」の大合唱が、やがて「あと一人、あと一人」になり、最後は全員総立ちのなか、「あと一球」「あと一球」「あと一球」がひとつの海の波光となって連呼され、球場全体の観客が快走列車に運ばれる如く疾風となって一つに同化してゆく。
 と、思うまもなく一対〇でゲームセットに。その瞬間、球場には色とりどりの紙ふぶきが舞い、観客は総立ちとなり、互いに手を取り合い肩をたたきあって跳びあがり、あたかも人吹雪さながらとなって、喜びを分かちあった。

 ここで熱狂のなかで立ち尽くす私の頭をあるとんでもない想念が駆け巡った。
 その想念は、歓喜のるつぼの中に米国で六年前に起きた9・11同時多発テロの仕掛け人とされる、あのウサマ・ビンラディンが名古屋の観衆に紛れ込み、歓喜のなかで彼も顎ヒゲを揺らせながら「あと一球」「あと一球」「あと一球」と叫んでいた、という事実に近いものだった。
 「事実に近い」とあえて表現したのは、彼がもし名古屋の出身で野球好きだったなら、たとえテロリストだったとしても、おそらくこの場面で人々の輪のなかにとけ入って歓喜しただろう、からである。
 世間一般常識的には「そんな、馬鹿な。ありえないことだ」と一笑にふされそうだが、この世の中、ありえないことがきっと起きるのだ。だから油断出来ないのである。ところでビンラディンが9・11の主犯だったという現場での物証はまだ何一つない。その超本人がナゴヤドームで日本のファンと一緒に手を振り、声をあげていて何が悪いのか。

 話は昨年八月にさかのぼる。
 当時、私たちはパリに出かけたが、そのときの模様を私は克明に記した。あのときも行く先々でウサマ・ビンラディンの亡霊に出会った。
 内容は次のようなものだった。

 ×       × 

 1

 平成十八年八月二十五日朝。
 私たちは、これからパリで生活する長男の正貫(まさつら)と恭子さん夫妻の下を訪ねる。
 ここで私はまたまた突拍子もないことを、と読者のみなさまからのお叱りを敢えて覚悟のうえで、あの自由の女神像の近くで同時中枢多発テロを起こした犯人、ウサマ・ビンラディンに道中、たとえ夢のなかでも会えれば、と本気で思っている。
 午前十時過ぎ。
 機はセントレア(中部国際空港)を飛び立った。二年半ほど前に脳内出血という不意の病(やまい)で倒れはしたが、幸いその後の医師の治療にも恵まれ奇跡的に回復した舞が突然、叫ぶように首を振った。
 「怖(こわ)ない。怖くなんかない。あたし高所恐怖症じゃあ、ないんだから」(ということは、彼女は高所恐怖症なのだ)。
 機内でのふたりのやり取りは、こんなところから始まった。
 ジィージィーという蝉の泣くような音。一方で、ウンウンと何かが唸り、絶えず蒸気の如き独特な機音が、この機内に浮かんでいる。二種の音のリズムである。
 ひと眠りする。眠りの底で機音がゆりかごの中の調べのように続いている。舞も、やがて腕を組み寝入ったようだ。

 日本列島は高気圧に覆われている。とはいうものの、秋の気配が濃くなったという。関西から西はにわか雨があるだろう、この週末は広い範囲で晴れそうだ、と機内のイヤホンからテレビ画面のニュースが流れてくる。一日の最低気温が二五度以上を熱帯夜という。ことしの特徴、それは北日本で熱帯夜が多かったことだ。秋田では七年ぶりの熱帯夜続きだった。
 機内の画面が突然、途切れた。雲のなかにでも機が入ったのか。それとも積乱雲のせいなのか。
 もしかしたら、二〇〇一年九月十一日に米国で起きた同時中枢多発テロの主犯とされる、あのウサマ・ビンラディンが、はやくもこの機内でテロを実行しようとでもしているのか。いまのところ、画面切断が何を意味しているのか、は分からない。常識的には、気流の関係としか思えないが。私が、ここ数年というもの、ビンラディンの幻影に取り憑かれているせいかもしれない。
 しばらくすると、こんどは男性の、野太く艶のある声で次のような機内アナウンスが聞こえてきた。
 「みなさま。この飛行機は、日航437便、エールフランス295便の共同便でございます。私、副機長のコニシと申します。当機は、ただいま高度三万一千フィート(九千五百八十メートル)を飛行中です。あと五十五分でシベリア東岸に達します。以降はロシア平原、エストニア、バルティック、デンマーク、オランダ、ジャーマニィー、ベルギーを経てシャルル・ド・ゴール空港へは、現地時間の午後三時二十分に到着予定です。パリは現在、晴れており、気温は二〇度前後と伝えられています。このたびの御搭乗、まことにありがとうございます」
 画面が突然、途切れたのは、コニシなる人物が、このアナウンスをするためだったのだ。なんだ、そうだったのか。とは言ってもビンラディンは世界の果てにいようが、どこに居たって少しも不自然ではない。

 機内アナウンスが終わったところで、再びイヤホンをすると、こんどはBBCからと見られる日本語訳のニュースが唐突に耳に飛び込んできた。
 内容は概略、次のようなものだった。
 ─オランダ治安当局は、つい先ほどアムステルダムのスキポール空港を飛び立ったKLM航空機内で十二人の男を逮捕しました。機内での携帯電話の使い方が怪しく不審な行動が見受けられたためで、離陸後まもなく身柄を確保した、とのことです。この逮捕劇につきオランダ政府関係者は、旅客機の安全には念には念を入れねばならず、機内での航空保安官の行為は正しい、と認識しています。ただ具体的に十二人が、どのような行動をしたか、は、まだ分かってはいません。いずれにせよ、航空保安官の行動は正しく、旅客機はただちにスキポール空港に引き返し、現在、十二人とも取り調べを受けている、とのことです。幸い乗員、乗客にケガはありませんでした。

 十二人の背後にはいったい誰が潜んでいるのか。もしかしたら、とまたまたビンラディンの幻影に慄く。

 飛行機はハバロフスク上空を超えたようだ。
 機体の足下の辺りが、ふらふらと心地よく浮いたり沈んだりしている。無重力の宇宙船も、こんなふうに揺れるのだろうか。飛行機だって宇宙の片隅を飛んでいるのだから宇宙船と言えなくもないな。私の脳細胞が揺れに併せて勝手な思考を巡らしている。
 ニュースが終わったところで、座席に備え付けの画像スウィッチをあちこちと替えてみる。突然、こんなメロディーがイヤホンから耳に飛び込んできた。
 ♪はしゃいでたあの日:思い出のなかで ふたりは巡りあえた
 ・・
 輝きながら あしたの永遠を 歩いて・・のメロディー
 といった調べが聞こえてくる。
 メロディーを耳に先ほどから、ずっと機外カメラを見ている。雲のような雪のような白い真綿みたいなものが浮かんでいる。なんだろう。やはり雲ではないか、と脳細胞がそちらに向いた。
 明らかに雲である。
 耳のなかでは、からだまでが絞り込まれてしまいそうな音曲がながれている。
 こんどは映画を見ることにした。自ら選んだチャネルは、「SОМEТHING NОW」である。
 黒人女性のケニアが、白人男性マックイーンを好きになってしまい、いったんは結婚を決意するも、周りの反対に押されて結局のところは断念し他の黒人と一緒になる、といった粗筋である。
 「時には扉を開かなければいけないこともある」「おまえたちが愛しあっていることはパパにもよく分かっている」「私たちは胸のなかに強い理想を持っている」「捨ててつかめ、理想にしがみつくよりまともだわ」
 会話の一言ひとことに、深い人間愛と社会性、黒人と白人間に横たわる運命的なものが色濃く反映され、「おまえならどんな夢も実現できるよ」という言葉とは裏腹の展開に私はしばし、われを忘れて画面に見入ったのだった。
 
 映画を見たあとはチャネルを機外カメラに切り替え、再び外の光景を見遣った。
 どこまでも淡い雲がただ浮かんでいる。
 ただ、それだけだ。
 画面を替え、パリのエリアガイドを開いてみる。
 「パリ市内は20の区に分けられ、中心から外側に向かって時計廻りに配置されている。形がカタツムリに似ていることから、エスカルゴとも呼ばれている。街の中央を流れるセーヌ川を挟み北側が1~4区、8~12区、16~20区の右岸、南側が5~7区、そして13~15区の左岸という構成になっている。」
 エリアガイドは前頁へと続き、そこには「シテ島/(左岸図の5) モンパルナス  МОNPARNASSE」とあり、「20世紀初頭から第2次世界大戦ころまで、ここを拠点として活躍したモジリアニ、シャガール、スロフビンスキー、サティそして藤田嗣治らパリに定着した外国人芸術家の集団、エコール・ド・パリに愛された街。個性的な彼らが芸術論を戦わせたカフェがいくつか残っている。そんなモンパルナスも、いまでは高さ209メートル、59階建てのオフィスビル、モンパルナス・タワーに象徴されるビジネスとショッピングの街へと変貌を遂げている」と説明されていた。
 モンパルナスか。
 超高層ビルのないパリでの高層タワーとの説明に、私の頭には、またもあの顎ヒゲのビンラディンの姿が浮かんだのである。彼はいま、どこでどうしているのか。
 モンパルナス・タワーに、また民間機をぶつける気でいるのか。

 あらためて機外カメラを見る。雲の集団が渦の中に吸い込まれてしまいそうだ。延々と続く白い雲。雲ばかりが画面を流れていく。
 それはそうと、人間は誰しもがいつでもどこかで生きているのである。笹舟のように大気のなかを揺れる飛行機。浮いたり沈んだり、まさに人生街道と同じである。私と舞が地方記者と、その妻として辿ったこれまでの長い道が思い出される。二人とも、そのまま寝入ってしまったようだ。

 突然、すごい鼾(いびき)に起こされた。舞ではない。でも、女性だ。どこかほかの旅行ツアーの添乗員のようだ。こんな時にでも寝ておかなければやってられない、といった顔でゴーゴースースーと寝入っている。
 鼾に合わせるように時折、強い横揺れが腰の下の方から肉体を抉り湧き上がってくる。そういえば、舞がまだ二十歳のころの話だ。
 志摩の通信部で夜ごと舞の歯ぎしりに、こちらの全身が刺身包丁で切り刻まれてゆくような、そんな恐ろしい錯覚にかられ、何度も何度も寝入りざまを起こされ、ドキリとさせられた。
 犯人は彼女のチャームポイント、可愛い八重歯だった。

 また底からの揺れが下から襲った。機外カメラは、ウラル山脈上空を映し出している。二本の白く太い線がYの字型に連らなっている。川なのか。上空から見るかぎり、平和で穏やかな流れだ。
 私はここであらためて座席の備え付けイヤホンに電源を入れ、ポップス・インターナショナルクラッシックスを聴くことにした。舞は隣の席で宮川大助、花子のお笑いをきいている。彼女はほんとうにお笑いが好きだ。先ほどまでいつもの癖であるシックハウス症候群の後遺症ともいえ、昨年夏の新居への移転後、ずっと尾を引き今だに治らないクッション咳を時折していたが、お笑い画面にはしばしば楽しそうな笑みまで浮かび、なんとかこの長丁場もしのげそうだ。
 ポップスは、スタート・サムシング、リズムでゲット・ユー、ゴーストバスターズ(ロング・バージョン)、ゴールドとつづき、ハイヤー・ラヴの調べが流れ始めた。私にはこれらのポップスがテンポの速い一連の流れのなかの曲のように想われて仕方ないのだ。速いテンポに併せ、からだを左右上下に動かし、足で床をいつまでも踏みならし、全身が曲といふ陶酔境のなかにまで入ってしまっている。そんな気がするのである。
 傍らの舞の画面には月亭八方なる人物が、身ぶり手ぶりよろしく、両手を時折もみながら何かを問いかける調子でいる。私は私でマイエンドレス・ラヴの曲を聞きながら涙がこぼれ落ちた。
 エンドレス・ラヴになると、テンポはそれまでの曲と違ってきていた。ヴァー、ヴァーと、息を静かに吐きつづけ、むしろ安堵を与えてくれる機音と妙に融けあい感傷の襞に迫ってくる。
 ジャスト・アナザーデイ…
 このフレーズを聴いていると、画面どころか、私の心までが、かつて見た四季折々の風景とともに一つひとつ切り替わってゆくのだ。舞とこれまで歩んできた地方記者の断面がひとコマずつ、目を瞠った視界のなかを亡霊となって通り過ぎ消えていった。
 またまたテンポのすばやい「ボディロック」、「ライト・ヒア、ライト・ナウ」と続いていった。からだじゅうが心地よく叩かれるような音調だ。私はまたまた浅い眠りに落ちていったようだ。何度も寝て起きる。
 これを繰り返している。

 気がつくと、疲れを知らない、三つか四つぐらいのこどもが二人、機内通路を二度、三度と両手を挙げ何やら声をあげながら往復し、はしゃいで走り回っている。ヒゲを生やした外人男性が赤ちゃんを胸に先ほどからあやしながら通路を歩いている。
 やがて、ポップスの最後の曲である「ホールド・オン」が流れ始め、機内天井の二列の明かりがともされた。機内での微かな蒸気音は相変わらず出ている。わが家の浴室の換気扇によく似た音といえなくもない。

 「みなさま。あと一時間ほどでシャルル・ド・ゴール空港に到着します」
 乗務員によるアナウンスが耳に迫った。それまで何ひとつ喋らなかった舞が、顔半分を私に向けて、ぼそりと言った。
 「離陸するのはいいのよ。でも、着陸は嫌い。着陸は、ガ、ガ、ガアーッ、てくるんだから。一瞬、船が左右に大きく揺れ、沈むみたいな感触なのだから。小船が大揺れに揺れ、だんだんと地獄に突っ込んでゆく。そう言う感触がきらいなの。私たち、これから地獄に堕ちてくの」
 思いもかけない発言に私は、またまた、今や頭のなかにこびり付いてしまっているウサマ・ビンラディンを思い出していた。
 着陸地点で待ち伏せるビンラディンの怨念が乗客を一人残らず殺そうとしている:

 私はパリ到着を前に、もういちど画面に映し出された世界各都市のなかの「パリ」をクリックしてみた。そこには次のような言葉が溢れていた。
 ─エッフェル塔。1889年パリ万国博での鉄の刺繍
 ─コンコルド広場。フランス革命の時計台。ルイ16世、マリーアントワネット王妃が絞首刑に遭った最期の場
 (このコンコルドだったら、ビンラディンが人波に紛れていたとしても、決しておかしくもない。私は夢を見ているのか。コンコルドからビンラディンを発想するなぞ、ありえない、それこそ荒唐無稽のことなのに。いやそうじゃない。ビンラディンがコンコルド広場を何げない顔で歩いていたとしても、何も不思議じゃないよ。そんなことよりも、いま彼がどこにいるか、なんだよ。どこに居たって、少しも不思議じゃないんだよ)
 ─(元日に男女がキスを好き勝手にできる、という)シャンゼリゼ大通り
 ─エトワール広場の凱旋門。ナポレオン・ボナパルトの命で建設
 ─モンマルトルの丘。サクレクール帝政が19世紀末に40年の歳月をかけ建設
 ─テルトル広場。カフェやレストランがあり、多くの画学生がいまも絵を描いている

 まもなく座席前の画像が一斉に消えた。
 着陸が迫ったためで、こんどは機内中央に設置された大型のテレビに映し出される画面で現在の飛行状況をもう一度、確かめてみる。
 画面には飛行速度、到着地までの距離、出発地現在のデータなどが一定間隔で流されている。それによると、飛行高度が32000フィート(9753メートル)、飛行速度が毎時927キロメートル、時間は午後2時50分(パリ時間、日本時間なら9時50分)で、着陸予定時間は3時15分となっている。 つい一時間ほど前の高度35000フィート、外気温度が氷点下70度に比べたら、当機は着実に着陸に向かって飛行していることが分かる。

 8分後。こんなアナウンスが機内に流れた。
 「お知らせします。お客さまの中でトイレで指輪を落とされた人いませんか」
 飛行機は、そんなことはお構いなしでモスクワ、ウィーン上空をとおの昔に通り過ぎてパリは目前に近づいている。
 やがて飛行機の腹の下の方でコトンという音がしたようだ。いつものあの音である。大地に最初にその両足をつけるに違いない車輪の音にほかならない。死刑囚がギロチンにかけられた時もあんなようなカラリとした音がするのだろうか。「あとは、衝撃があるはずよ。やっぱり嫌だな。地獄に堕ちてゆく」と舞はポツリとつぶやいた。
 着陸時の衝撃をあまりに意識した分だけ、衝撃は意外と少なく日航・エールフランスの共同便は滑走路を滑るように着陸した。考えてみれば、私も舞も飛行時間が長い(12時間と少し)から、その分だけ着陸時の衝撃がひどいものと思い込んでいたふしがある。正直いってヤレヤレ、第1関門は何とか切り抜けた、というのが二人の実感だった。特に二年半ほど前に脳内出血で倒れたことがある、病み上がりの舞の体力が一体どこまで持つのか、が一番心配だっただけに、着陸時のうれしさは格別だった。
 舞の体力が今度の旅を機に少しずつでも回復してくれれば、それに越したことはない。目には見えない神さまがもし、彼女の健康と世界で一つしかない偉大なる文学賞のいずれを取るか、とその選択を迫るとしたなら、私は、どんな賞よりも舞の健康の大切さの方を選ぶに違いない。
 そして長い目で見れば、元気な舞に、いつものようにその稚拙極まる文体(舞はいつだって、そう言いつつ僕に刺激を与えてくれる)を何百回、何千回と指摘されつつ、それでも少しでも長く執筆を続けてゆくことこそが、将来、自身がそれなりの作家に育つ一番の道ではないか、と。私はそう思うのである。
 私の文学に、舞の存在は欠かせない。
 飛行機が無事着陸したあと、腰のシートベルトをはずし、ふと、そう思って傍らの彼女に目をやると、その両目はキラキラと少女の如く輝いていた。遠かったが心のなかにいつも棲むビンラディン、そして舞と一緒にこのフランスまで来てよかった、と思った。

 2

 シャルル・ド・ゴール空港に着いてからは、しばらく空港内の喫茶店と出発ロビー待合室で時間を過ごしたが、喫茶店ではコーヒーを注文し、たまたま居合わせた英国人の母子連れと英語で互いにふたこと、三言話し合った。その母は私たちに向かって日本へは、ぜひ一度行ってみたい、と話していた。
 そして私と舞は、三時間後には、最初の目的地であるニースに向かうエールフランスの乗り継ぎ便に乗った。
 「どうせ行くのなら、南仏にいきたい。パリに住む正貫のところへは、少しだけ寄れば、それでいいんじゃないの」
 こんどの旅は舞の希望どおり、彼女の意向にあわせてのツアー選択で、ニースへは一時間半後に着いた。
 その乗り継ぎ便機内のなかで私たちは思いがけないものを目にしたのだった。
 座席に座って、ホッとした気分で手にした機内誌。何げなくペラペラと頁をめくっていると、そこにはなんと、日本の俳句が、特設された「haiku」コーナーに、それも日本語で掲載されていた。それぞれ一頁を使い、大きく紹介されていたのが次の二句である。
 <涼風や 袂にしめて 寝入るまで>
 <涼しさや 裾からも吹 藪たたみ>
 ほかにも<喋々や 何を夢見て 羽つかひ>や<釣竿の 糸にさはるや 夏の月>など各頁に四句ずつ紹介されており、作品はすべて一八世紀の俳人、加賀千代女(かがのちよじょ)によるものだった。長年、自らも俳句をたしなんできた舞が、ここで一言付け加えたのはいうまでもない。
 彼女は異国での俳句との出会いに驚きながらも、こうポツリと話した。
 「それにしても(ちよじょの作品で)一番有名なのが載っていない」
 それはなんだ、と顔を上げる私に向かって舞は答えた。
 <朝顔に つるべ取られて もらひ水>っていう俳句があったはずよ、と。
 舞はさらに
 「確か、ちよじょは芭蕉にも会いに行ったのじゃなかったかしら」とつづけた。
 ついでながら機内誌の紹介句には、すべて英訳と仏訳による俳句も同時掲載されていた。
 私は、その両方に目を落としてエールフランスの粋な計らいに、嬉しい気持ちを抑えずにはおれなくなったのである。ビンラディンがもし日本びいきだったなら、こうした機内誌をどう受け止めるだろうか。日本の俳句に関心を持つような気がしてならない。

 ニースのコート・ダジュール空港には一時間半で着いた。
 夜間というのに、町は明け方のように明るかった。私は十数年前の深夜遅くオランダのスキポール空港に降り立ったとき、アムステルダムが白夜に光り、幻想的な風情を醸し出していたことを思い出していた。
 私たちは白夜のなかをバスでニース市内のホテルに向かった。
 車内では観光会社の売れっこ女性添乗員である西尾さんから「テレホンカードはたばこ屋さんで買うといい。七~八ユーロもあれば買えます」とか「切手は日本までなら、九十セントあればよい。ホテルのフロントで日本まで手紙を送ってください、と頼めば送ってくれます」「フランスの水道水は、あまり信用できません。ブルターニュ地方では、すごく強い農薬を使うことがある、と聞きます。やはりミネラルウォーターの方が安心です」といった注意事項とも受け止められる話が次々と出された。
 また、日本からパリ、パリからコート・ダジュールへの機内で何度もビールや赤ワイン、白ワインつきの機内食(それは魚のカレーであったり、パスタだったりした)が出され、ホテルに着く時間が午後八時を過ぎることもあってか、初日の夕食は出ないとのこと。必要なら、近くのスーパーマーケット「カルフール」が九時四十五分までやっているので、それぞれそちらで調達するように、との説明まで怠りなくあった。
 ニース市内に入ると、小型車を中心に車という車が寸分の余地もないほどに路上駐車しており、バスの運転手は途中、何度も立ち往生しながらも軽業師さながらにバスをホテル(「アポシアニース」)玄関先に横付けした。
 私と舞はいったんホテルに落ち着くと、同じグループのツアー客の後ろを追うように「カルフール」に出向き、ここでミネラルウォーター三本と缶ビール二本、食後のくだものセットを購入し、室内に持ち込んだ。

 翌朝のニースは、どこまでも晴れ上がった。
 ふと海を見下ろすと、窓辺からの射光がまばゆく、ひかった。そればかりか、ニースの光りの帯のなかにあのウサマ・ビンラディンの顔が鮮明に浮かんで消えた。
 昨夜は疲れきった表情で「カルフール」からホテルに戻り、入浴後は死んだように寝入った舞だが、異国の晴れわたった空には、やっと満足そうな笑みが浮かんだ。室内に何げなく飾られている海の絵も、舞のこころをほぐしてくれたようだ。
 ホテルの窓から見下ろす町並みも、ここでしか味わえない下町の情緒がある。
 昨夜は遅くまで若者たちがパンパンと何かを打ち鳴らして遊んでいたようで、その音は未明までつづいていた。日本ばかりでなく、世界中でこうして未来ある若者たちが何の屈託もなく、日々を過ごしているのである。
 バイキングの朝食は、フランスパンのクロワッサンとバター、ジャム、それに飲み物だけ、といかにも貧弱に思われたが、私たちが旅なれていないせいで他にも用意されていた料理に気がつかなかっただけで、実際は焼肉とか野菜サラダも用意されていた。私も舞も、食事を終えて部屋に引きあげる時になって、やっとこれらの存在に気づいたが、おなかは一杯で時すでに遅しだった。
 朝食のあと、私たち南仏ツアーの一行は、ホテルフロント部分一角の壁に掲げられたマチスの絵を横目にしながらバスに乗りホテルを出発した。
 ニースの丘から見渡す半円形の海は、どこまでも澄みきっていた。なぜか、この町では海の匂いがしないのが不思議に思われた。この後は画学生が点在する海辺のプロムナードを散策したが、野菜や果物、新鮮な魚の豊穣さには、あっけにとられるほどに驚いた。海の見える路上にキャンバスを前に座り込んだ白い帽子姿の顎ヒゲ男は時折、澄んだ目で渚の方を望み見るほかは、観光客などは自分に関係ないといった表情で、ただ黙々と絵筆を走らせていた。

 こんなわけで、私たち「美しきフランス世界遺産紀行」ツアーの一行は、その後アルル、アヴィニョン、リヨン、ブールジュ、シャンボール、トゥールの順でバスで北上。どこも好天に恵まれ、五日目の夜をトゥールのホテルで過ごした。この間、私たちは食事のつど、ワインのロゼをグラスに一杯ずつ頼んだ。ロゼをあおりながらのムール貝などフランス料理の数々は、次第に日を追うごとに私たちの体に馴染んでいった。
 翌日は午前中、初めての雨にずっとたたられながらもバスはモンサンミシェルの修道院へ。修道院のなかの観光を終えるころには雨も止み、レンヌへ。ここでフランスを代表する高速列車ТGVの2等車に乗り、二時間後に長男正貫と恭子さん夫妻の待つ花の都パリにとうとう着いたのである。
 パリの宿泊先である「ソフィテル・ラディファンス・グランアルシェ」に到着してまもなく、長男夫妻は、最初は同じ名前のほかのホテルと間違えながらも、さっそくホテルまで駆け付けてくれた。私と舞は、ОECDの大切な仕事や大学留学研修をやりくりしてわざわざホテルまで出向いてくれた二人に対し、この物語のなかで心から敬意と感謝の気持ちを表しておきたい。
 ありがとう。正貫、そして恭子さん。
 私と舞が、三重県志摩半島の新聞社通信部(現三重県志摩市阿児町鵜方)に居た時は、三十年後にパリの晴れた空の下でこうした形で親子が会えるなどとは、夢にも思ってはいなかった。あのころ、私も舞も取材や通信部の留守番、育児などに追われていた。不思議なえにしとは、このことを言うのだろうか。

 「お父さんがこの間、行ってたトルコが大変だったみたい。ここのところ、米国のCNNテレビが毎晩ニュースでどんどん流してるが、お父さんたち見た? 」
 パリ市内のホテル一室を訪れ、最初に正貫が口にした言葉に私たちは仰天した。
 「いや見てない。何か、あったのか」との問いに今度は恭子さんが答えた。
 「トルコのリゾート地、アンタルヤでテロが続き、多くの人たちが死んだり、ケガをしたみたい。犯行声明まで出されたみたいよ」
 アンタルヤといえば、世界的なリゾート地でも知られ、つい一ヵ月ほど前、トルコ政府のプレス招待で各地を二週間ほどかけて回った際に訪れたことがある。
 トルコ南西部の地中海に面した世界有数のリゾート地で、海沿いに広がるホテルというホテルには大小のプールから、古代ローマのコロシアム(大劇場)にも引けを取らないコンサートや演劇用マンモスステージ、階段状となった大観覧席、さらにはコテッジ…とありとあらゆるものが完備しており、あまりのスケールの大きさに、息をのんだ日が、ついきのうのようでもある。
 そればかりか、私は海を見下ろす広大な高台で、水を加えると見事なほどに白濁するラク酒を手にバイキング料理を楽しんだあと、どうしても地中海の、その汐の香に浸かりたくなり、真夜中にただ一人、ホテル自室を抜け出して高台直下の海浜ビーチに出たのだった。
 幸か不幸か、そこには誰ひとりおらず、私は人けがないのを確かめると、ビーチに並べられた長椅子の一つにシャツ、ズボン、パンツと脱ぎ捨て、全裸となり、ゴム製のサンダルだけをはき、小石に足を取られつつ海に入り、波のなかに身を沈めた。
 しばらく波と戯れていると、私の脳裏には、なぜかしら、遠く離れ、かつて地方記者として家族で暮らした志摩や能登の海が思い出されるのだった。この海は、私たちが歩いてきた日本の海にまでつながっているのだー
 感傷に浸るまもなく、気がつくと私のちいさな全身が月明かりの下、沖合いはるか遠くにまで押し流されているではないか。私は我に帰り、波の合間を縫いながら岸に向かって夢中で泳ぎ始めた。やっとの思いで足の立つ場所まで近づく。が、ここからが大変だった。
 頼りのサンダルは知らぬ間に波に流されてしまっており、何百、いや何千どころか、何万、何億個もの小石がバラけてトグロを巻く海底には、とても素足のままでは痛くて立ってはおられない。私は意を決してわざと全身を海面に浮かせ、そのまま岸辺まで泳ぎ切ることにし、大小の波に何度も何度も流されそうになりながら、それこそ、命がけで浜辺にたどり着いた。
 真夜中の地中海での一人だけの葛藤。限りない波の襲来からやっとこせ抜け出た私が浜辺に立ち、ホッとした表情で空を仰ぐと、そこには三日月形の月だけが笑みを浮かべ、私を見守ってくれていた。月は志摩や能登の海、琵琶湖畔で見たそれと全く同じだった。
 おかげで、地中海という海がその魅力の反面、いかに狂気を秘めているかも、よく分かった。
 まさか。そのアンタルヤでテロが発生しただなんて。私の脳裏にある人物の映像がまたしても走って消えたのは、長男夫妻からトルコでのテロ発生を聞いた、その瞬間だった。私が過去五年間、その存在と活動にこだわり続けてきたウサマ・ビンラディン、その人にほかならない。
 ウサマ・ビンラディン。彼は、私が以前に書いた小説「懺悔(ざんげ)」のなかでは、能登のヤセの断崖でジ・ハード(聖戦)と叫んで身を投じ、社会に波紋を投じたことにはなっているのだが。あくまで、小説のなかでの話だ。
 とはいえ、トルコで起きたテロの内容は、その後日本に帰国し調べた新聞記事によれば、「トルコで爆発 3人が死亡」「クルド独立武装組織が犯行声明」の見出しつきで、概略次のようなものだった。
 ─[カイロ共同]トルコ南西部の地中海に面したリゾート、アンタルヤで28日、爆弾が爆発し、3人が死亡した。負傷者が多数出ているという。ロイター通信が地元警察当局者の話として伝えた。観光客を狙ったテロと見られる。
 ─[カイロ共同]AP通信によると、トルコ南西部のリゾート、マルマリスなどで27日から28日にかけて起きた爆弾事件で、クルド人の独立派武装組織「クルド解放のタカ」が28日、ウェブサイトに犯行声明を出した。
 =いずれも8月29日付M紙夕刊

 そういえば、私がトルコに出発する際、なぜか取材ノートには、こんな内容のことが記されていた。
 「イスタンブールの片田舎で、まさか、その地で私が、あのウサマ・ビンラディンに会うなんてことは思ってもみなかった」と。
 私がどこまでもビンラディンの幻想に取り憑かれているのは今も変わらない。

 正貫と恭子さんがパリでの私たちの宿泊先であるホテルを訪れた翌日、私と舞は今回の旅の最大の目的でもある正貫たちの住むマンションを訪ねた。午前中はツアーの一行に加わり、バスでパリ市内を観光し午後の自由時間をあてて、訪れたのである。正貫は仕事を途中で切り上げ、前夜につづき今度は一人で私たちを迎えにホテルまで来てくれた。聞けば、ОECD職員と日本大使館職員との食事会を終え、早々に私たちのために時間を割いてくれたのだという。
 志摩の鵜方で生まれた、あの赤ん坊がこんなにも立派に育ってくれた。私も舞も夢心地でタクシーに乗せられ、正貫と恭子さんの住むマンションへと向かった。
 マンションはフランスならでは、の落ち着いた都心のビル街を突き抜けた、その正面に立ちはだかるようにしてあった。パリの北西地点で16区といわれる場所で、ビクトルユーゴー広場から歩いて二、三分。シャンゼリゼー通りにも十分そこそこ、エッフェル塔へも歩いて十五、六分足らずで行くことができるという。五階にあるそのマンションは、案外と質素なものであった。
 居間の横にバスとトイレ、ちいさな台所があり、奥にふたりの寝室、といった、ただそれだけの家である。それでもベランダから見る戸外の風景は花壇や木々が目立ち、建物の敷地内全域が緑やカラフルな花々に包まれ、どこか心がほぐされ、垢抜けした、そんな味わいある住処(すみか)である。正貫と恭子さんは、ここを生活の場に日々をОECDやパリの大学に通い、暮らしているのである。
 居間に通された私たちは、さっそく恭子さんのパソコンに今度の旅で撮影した数々の写真が入ったデジカメの全コマを取り込んでもらった。ついでにトルコ紀行の旅も保存してもらったが、何千枚にも及ぶ写真の取り込みにはかなりの時間を要した。私たちは出発時に中部国際空港(セントレア)出発ロビーで購入した日本の内輪とリヨンで買ったちょっとお洒落なお菓子を土産に持参、談笑に花を咲かせたが、フランスでは時を経た家の方が家賃が高くなる、と正貫から聞かされ、驚いたのである。
 長男夫妻とは、その後、地下鉄に乗り都心に出たあと、市内を散策。ビルの地下にある日本料理の店で久しぶりに夕食を取った。舞はそれまで日本のラーメンを食べたい、あ~あ、食べたいなっ、と待ち望んでいただけに、ラーメンとは違うものの日本のうどんをすすり、それは満足そうだった。私は確か、カツ丼を食べたように覚えている。このあとは、再びツアー一行と合流し、正貫夫妻も誘って夜のセーヌ川クルーズを共に楽しんだ。
 夜間照明されたエッフェル塔、それまでアメリカにしかないとばかり思っていた、自由の女神像、心地よい風、夜に煌(きら)めく美術館など河岸の風景にも目が奪われ、それまでの旅の疲れが一気に癒されたのだった。パリ生活一年を超える長男ですら、セーヌ川でのこうしたゆったりとしたクルーズは初めてだ、と喜んでくれ「はるばる、ここまできて、しかも今こうして共にセーヌ川の夜を楽しみながら、喜んでくれてよかったなっ」と、心底から思った。
 クルーズが終わると午後九時から少しの間、エッフェル塔で光のクラッシュが演じられ、ホテルに向かうバスから見るそれは、彩りも鮮やかに私と舞に「これでよろしいですか」と光が瞬くごとに問いかけているようで、私たちは、黙ってセーヌに向かって何度も何度も頷いてみせるのだった。
 翌日、私たちは最後の見学先であるルーブル美術館とヴェルサイユ宮殿を訪れたが、ルーブル美術館では、とんでもない「事件」にめぐり合った。
 美術館内を見て歩くうち、モナリザの肖像画前に立った舞が、そこでまるで睨み合うかの如く微動だにしなくなってしまったのである。互いに金縛りあったようにも見えた。
 見つめ合うモナリザと舞。なぜか突拍子もなく、舞が百年戦争の末期に軍を率いてイギリス軍を撃破したフランスの愛国者ジャヌ・ダルクに見えてきたのである。右手を上げ戦ったシャンパーニュ州の農村が生んだ、あのドンレミの女に、だ。ふたりは、そのまま静止したまま、いつまでも見つめあっていた。

 私と舞は、去りがたい感情を抑え夕方の便でシャルル・ド・ゴール空港を飛び立ち日本に向かった。約十二時間に及ぶ空の旅も無事こなし、セントレアに着いたのは、八月三十一日の昼前だった。パリへ行って日本に帰るまでの間、私の脳裏には相変わらず、顎ヒゲ姿で白装束をまとい杖をついた、あのウサマ・ビンラディンの幻影がなんどもなんども頭をもたげたが、これといったことは何もなく、時が過ぎていったのである。

 3

 フランスから日本に帰国し二週間と少しがたち、私は遅がけの定年あいさつを兼ね、過去七年、家族とともに過ごした能登半島の七尾市を訪れることにした。
 能登半島といえば、私の作品「懺悔(ざんげ)」(文庫本同人誌「熱砂(ねっさ)」)と、短編小説集「懺悔の滴(しずく)」(人間社)のなかで、あのウサマ・ビンラディンが自らを責め、ジ・ハード(聖戦)と叫んで日本海に身投げしたとされる舞台、ヤセの断崖がある、その地である。ヤセの断崖は、七尾から車で一時間ほどかかる日本海に面した町にあり、かつては松本清張の小説「ゼロの焦点」の舞台でも知られた。

 二〇〇六年九月十六日。
 この日の朝刊は各紙とも、地下鉄、松本両サリン事件で殺人罪に問われていたオウム真理教元代表麻原彰晃被告(51)=本名・松本智津夫=に対する死刑が確定したニュースを一面トップで大々的に報道していた。「麻原被告の死刑確定 オウム事件で最高裁」「10年裁判 打ち切り」「特別抗告棄却 訴訟能力を認定」(T紙)などといった見出しが躍っている。
 が、それはそれとして、私にとっては能登に久しぶりに出向くことの方が、よりリアル感があり、その日の日記には、こう書き記されている。
 -なんだか、家に帰ってきたような気がした(サンダーバード車内にて。能登半島羽咋市で)
 日記は、サンダーバードが七尾に近づくに従い、こう続く。
 ─すべてが昔のままだ。
 家のたたずまい。落ち着いた田園。電線。緑の木々。工場。
 田畑のなかの青い橋、ダイダイ橋。紫橋。(こんなもの、あったかしら。これはなかった)
 ほかに温室。立ち上る野中(のなか)の煙…
 すべてが私を温かく迎えてくれている。
 カタンコトン カタンコトン
 列車は七尾駅に近づきつつある。
 静かに高まる感情。
 この昂揚は、いったい何なのか。
    (午後2時過ぎ。七尾線にて)

 私はその夜、かつての七尾JC仲間とM寿司、居酒屋Т、スナックNの順ではしごをし、夜のふけゆくまで飲み歌い、あるき回った。
 おかげで七尾市内の宿に戻ったのが午前二時過ぎだった。宿に落ち着くと、私はそのまま死んだように眠り、翌朝目覚めると、一気に前日からのことをいつもの調子でノートに書きなぐっていた。
 内容は次のようなものだった。
 ─けさ、能登の七尾は雨であけた。
 それも、ひらひらとひとひらずつ雨が舞う、さくらの花びらのようでもあった。雨樋を伝う音が、なぜかしら白い蝋燭(ろうそく)を感じさせる、そんな白鳥に似た雨である。
 私はつくづく思う。
 この止まったような、静かな町は一体、どこから生まれ、どこへ行くのだろうか、と。
 ほんとうに、うぶで清らかな町に思えてくる。ビンラディンがここに逗留したのなら、彼の刺々しい心はきっと解消されるはずだ。

 止まった町も実は私がこの町を訪ねないでいる間に随分と変わっていた。特に駅前から御祓川(みそぎがわ)に沿って府中波止場に通じるメーンストリートがすごく整然とした町並みに変身していた。これならば、私が在任中、七尾JCの仲間たちが「港町から、海を感じる心を国内外に発信しよう」と情熱を燃やして公募した「海の詩(うた)」の碑を、街角の要所要所に建立しても決して、おかしくはない。むしろ、この町のステータス・シンボルになるに違いない。
 そして。もしも、かつて夢見たように、この港町のあちこちに海の詩(うた)の碑の立つ町が実現すれば、それこそ、この町を訪れる多くの人々の心を癒すだろう。能登はやさしや土までも、を地でゆくことになるかもしれない。
 そんなことを思いながら私はつい、第一回海(うみ)の詩(うた)大賞に輝いた作品「海は なぜ広いの」を口ずさんでいた。それは次のような詩(うた)だった。

 「海は なぜ広いの」
 ♪海は なぜ広いの
 それは すべてのいのちのはじまりだから
 海は なぜ青いの
 それは 地球をかこむカーテンだから
 海は なぜすきとおっているの
 それは 心だから

 海から いのちははじまった
 みんなの海 広い海
 そんな海が
 ぼくらへ よびかけている

 静かに耳をすましてごらん
 貝がらのおしゃべり
 波のささやき
 太陽のよびかけ
 みんな ぼくらへのおくり物

 海は ほくらの心
 海は 何も言わない
 静かに ぼくらを見ている
 ずっとずっと 待っている

 心の中で
(作詞・本藤理恵・当時東京都立小平第1中学校一年生)

 ただ、海から注ぐ御祓川の川面は、相変わらず暗かった。この川に透明感を求めるのは無理なのかもしれない。この顔色は元々が、こうした<いろ>で、もしかしたら、その実は案外、汚れてはいないのかも知れない。

 4

 七尾から帰った私は、先に舞とフランスを訪れた日々のことを思い出していた。
 ニースからアルル、アヴィニヨン、リヨンを経てブールジュへとバスでパリに向かって北上する際にも、バス車中で戸外の光景を次のようにつづった。道中、ウサマ・ビンラディンの顔が何度も何度も私の視界を横切った。

 私のノートにはパリでの舞とのバスの旅が克明に書かれている。
 ──リヨンに向かう。
 空には雲が浮かんでいる。空を見るかぎり、そらに関するかぎりは日本もフランスも何ら変わりはない。窓を射って入る陽射しが、いまこのノートを白く照射している。
 白い紙片には僕の、あの禿げかえりそうな、ちりぢり頭が部分的にカールを描き、映し出されている。バスは速度を落とした。
 渋滞なのだろうか。止まるほどのノロノロ運転が変わり、いまや止まる寸前でもある。車内には冷房の、あの間断のない音が聞こえてくる。蒸気音のやうな、噴出ガスのやうな、そんな生きてる「音」とも言える。
 バスは止まった。
 再び動き出し、こんどはノロノロと動いている。対向車線を走ってくる車たちは、誠にスムーズである。私は舞と同じやうに瞼を閉じてうつらうつらとする。
 舞は先ほどから両腕を結んで寝入っている。
 その向こうには、車窓を通してススキ野が広がり、民家が森のなかに点在し立ち並んでいる。反対の左側車窓には、稲刈りを終えたばかりの麦畑、盛りを通り過ぎた向日葵畑、さとうきび畑などが連らなっている。
 バスは緩い速度ながら再び走り始めていた。それでも、バケーション帰りの車の洪水のなかに紛れ込んだらしいバスは、のろのろと走っている。

 いつのまに眠ってしまったのだろう。
 私は再び目を覚ますと、ニースを出発し、アルル、アヴィニョン、ポンデュ・ガール(水道橋)と走ってきた今回の旅で撮り続けてきた大量のデジカメ画面の整理を始めた。
 そして整理を終えるや、またしてもこうしてノートにペンを走らせているのである。
 舞はすっかり眠りこけていたが、ついさきほどパッチリと目を開け、私が先にトルコに行った際、イスタンブールで誰よりも先にお土産で買い求めたブルーのスカーフを、膝下から腰の部分に纏った。しばらくは、そのまま両目を開けて車窓に広がる光景を見ていたようだが、気がつくとまたまた腕を組み、寝入ってしまっている。
 車窓に映る豊潤な農地。
 画面のなかの主人公のように緑の背景をバックに眠りつづける舞。
 なかなか、見られない光景だ。

 「990AМP69」
 私たちの乗ったバスの傍らを走り続ける小型車のなかの一台の車体番号である。
 行く車。対向して走る車。どちらも四車線だ。日本のセンターラインの代わりにガードレールがそれぞれに設けられている。
 小型車が後ろに四台もの自転車を乗せたカーゴのようなものを引いて走り去っていった。また今度は同じように三台の自転車を荷台につけた車が走り去った。何も言わず、ただ目的地へと早く着かねばならない。走る車たちは、みな同じ顔をしている。

 対向車線沿いに雑木林があったかと思うと、こんどは青々とした農地が広がった。
 一瞬、バスが急ブレーキに近い形のブレーキを踏み込んだ。あわやっ、と思ったがバスは何事もなかったかのような顔で、こんどは静かに走り始めた。車窓に広がる豊かな農地は、先日プレス招待で訪れたトルコのそれに、よく似ている。
 左手かなたには、それほど高くはない山並みが連らなっている。
 沿線の針葉樹の高い木々たち。土手。赤、いやいやダイダイ色の三角屋根にいくつもの煙突をつけた民家の家並み。対向車線からこちらに向かってくる。白くて四角い車。一方通行禁止標識が対向車線出口を防いでいる。
 ぶどう畑。さまざまな木々。何かは知らないが多くの苗が生えそろった農地。赤い色の処には何が植えられているのか。後続のバスが私たちの乗るバスを追い越していった。
 青い空には白い雲が浮かんでいる。
 ふと、いまの私には、これ以上に情景を描写する筆力がないのでは、と思ってしまう。対向車線を二台のオートバイが走って来、そしてすれ違った。松の香。土手の緑。赤い車。カーキ色の車。「CCICND」と書かれた看板塔。円形の柱が目立つ白い工場群。YAМAHAの舟を引いて走る小型車。車のバックナンバーは「6227YA69」だった。
 車窓に目を遣りながら、私に植物を表現する能力があったならば、と悔やまれる。
 舞の父親は、戦後まもなくNHKラジオの朝の番組「早起き鶏(どり)」で農事放送までしていた人である。彼は、まだ舞が物心つくかつかない間に過労に病も重なって亡くなり、愛知県の農民葬まで開いてもらった農業の熟達者と聞いている。もし、彼が生きて車窓から同じ風景を見ていたなら、これら農作物や植物の名前を悉く、言い当てるに違いない。

 土手にはカーキ色の花々が咲いている。点在する赤い屋根。少し薄い橙色の屋根。防犯灯みたいなものが立っている。豊富な緑のベールに民家群が沈んでさえ見える。
 「130」の標識塔。これは何を意味するのか。田を走る道。畦道。土手では心地よい射光に緑という緑が影をつくり、何かを語りかけてくる。
 折れ線グラフのような白い雲。豊潤な水をたたえた河。橋を通り過ぎた。車内では、みな黙っている。大半が旅に疲れ切って眠っていることだろう。赤い車。緑の車。灰色の奴があとから追い越し過ぎ去った。

 (2006年8月28日午前8時、リヨンのホテルを出発)
 バスはリヨンを出て、ブールジュへと向かっている。いまは日本時間の28日午後4時29分である。現地時間は9時29分になる。

 舞は一番後ろの右側の席で私の方に体を向け、肩からブルーのスカーフを上半身にかけ眠っている。出発時に私は日本で待つ三男和甫に「お母さんの携帯が家にあるはずだから、そこへメールを送信するから見ておくといい」とバス車内から電話をした。そうして昨夜、食べたムール貝とリヨンの街並みと、舞の車内での寝姿の三本のメールを簡単な説明をつけて送った。ついでに名古屋の職場にも、しばらくのご無沙汰をわびつつ、当方元気でやってます、ドラゴンズのマジックは減りましたか、といったメールを送信しておいた。
 バスは延々と走り、車内では誰一人として話さないでいる。舞も相変わらず寝入っている。連日の移動がかなりのハードスケジュールだけに、休める時には、こうして少しでも休んだ方がいいのだ、と自身に言い聞かせる。
 今回の私たちの目的は、なんといっても、パリの街で正貫、恭子さん夫妻に会い、いっときを団欒することにある。それまでは少なくとも、互いにからだを温存しておかなければ、と思う。舞の疲れた表情を見ながら私も同様に少しばかり疲れているやうで、やはり
 二人とも齢を食ったのかなあーと、つくづく思う。
 昨夜は無事、パリまでたどり着くことが出来るか、と心配した正貫がリヨンのホテルまでわざわざ、電話をかけてきてくれた。

 車窓には、雨が降ってきたようだ。
 フランスで見る初めてのレインである。
 バス車内から望む山肌に霞(かすみ)のような霧が白くこんもりとかかっている。
 対向車線からやってくる車の大半が前照灯をつけ走っている。これまでの陽射しとは打って変わった雨模様の高速道、そして車窓の風景がどこか曇って薄暗く感じられる。
 そうした気のようなものが、車内にまで染み込んできている。どこか、独特な寂しさというようなものが浮かんでいるのだ。
 「幸せとは目に見えないもの」
 昨日、旅の道すがらガイドの西尾さんは、こう語った。
 いま、こうしてパリに近づいてゆく。私と舞は、目に見えない幸せのただなかにいるのだろうか。バスは、どこまでも走りつづけ、車内では話し声ひとつしない。
 私も少し眠くなった。

 靄(もや)にかすみながらも天気は回復してきた。
 向日葵(ひまわり)、玉蜀黍(とうもろこし)畑とつづく。
 ただ向日葵は既にシーズンを終えて枯れた花ばかりだ。赤い土。青い平原。黄色い向日葵畑はすごい。遠くで、白い牛たちがゆったりと草原に座っている。頭が丸くこんもりした、頭でっかちの、まるで女王さまの冠でもしたような木があちこちに立つ。青一色、いや緑一色の草原だ。
 雨が止んだ。既にブルーニュ地方には入っているのだろう。この地方は夕暮れが似合うのではないか、とふと思う。雨に煙った景色が映画の名場面を思わせる。その草原で私と舞がふたりだけで立っている。そんなシーンが浮かんだ。
 パリはまだまだ遠い。しかし、パリが少しずつ少しずつ私たちの手元に近づいてきている。再び目を車外に向ける。農地の豊潤なさまがひと目で分かる。そして何よりも幾重にも起伏が連なる重ね餅みたいな、そんな広大な光景がよい。
 向日葵の残滓(ざんし)たちが広大な平原に群れを成して一面に広がると、そこはやはり黄の世界だ。花弁の部分は黒くなってはいるが、枝全体は黄色と化身しており、まだこれほどの迫力だったとは。希有(けう)なものを見るチャンスに恵まれた。こうした味わい深い色合いは、いまの季節しか見れないものだ。ふと、黄一面の原にビンラディンのあの長い首がヌッと抜け出て消えた。

 バスは高速を下り、ブールジュに入った。
 しばらくして町中を走ると、とても美しい一世紀ほど前に回帰した気持ちに捉われた。さまざまな色の花々が見事に咲いている。歩道を歩く人も数えるほどだ。ガソリンスタンド。点在する民家群。花壇。町の橋にはピンクの花束がなにげなしに架けられていた。
 静かな町。
 静かで遠い昔の国が、そこにはあった。
 こんな町で透明な静かな音を流す日本の笛を吹いてみたい。音さえなく、時には波かぜだけがふく能登半島の七尾みたいだ。
 駅も、線路も、歩いている人々も、なにもかもが、だ。
 午後零時半、私たちはレストランに着き、ここで昼食をたべると、フランス最大の教会とされるブールジュ大聖堂へと向かった。
 教会に着くと、大聖堂は雨に煙るなか、その威厳を現していた。庭の色とりどりの花々がなんと素敵なことか。
 教会の名は、サンテ・テエヌ・カテドラルと言った。

 教会をゆっくりと見学したあとバスに乗り込むと、車内から「今から一時間四十分ほどでシャンポール城に着きます」と西尾さんの声が聞こえてきた。

 バスは静かに再び走り始めた。
 町中の道路で傘をさした女たちが何やら立ち話をしている。広い歩道。歩道に面して立つ民家の家並み。停車中の車。傘をさした人。ささないで歩く人。バス停で待つ少女。信号。
 先ほど見たブールジュの教会の石畳も含め、この町を歩く人々の足元から音楽のメロディーが流れ出てくる。
 ふと、<みかんの花咲く丘>の作詞者で今は亡き加藤省吾さんを思い出した。バスの車内では女性の歌声で「ある愛の詩(うた)」が流れている。駆け出し記者のころに流行った歌である。あのころ、私はまだ、この世で舞の存在を知らなかった。
 こんどは聞き覚えのあるシャンソンが流れ始めた。
 外はこさめだ。
 バスの一番後ろの席から見てフロント部分でワイパーが動いているのが、よく分かる。
 
 これまでにも度々、自らの著作のなかで論じてきた私の言葉に「葉脈のひと筋のなかに、大宇宙が潜んでいる」がある。フランスも日本も、その葉脈のひと筋のなかにあって生かされているやもしれない。いやいや、私たちは、それより、もっともっと小さな世界の片隅にいるのかもしれないのだ。あのビンラディンだって同じだ。みんな、みんな、生きとし生くる者すべてが、みな同じである。
 外を見る。
 一軒一軒が夢の如き民家だ。広い庭。家の周りを彩る季節の花々。一軒一軒に造詣の妙が施されている。これらの家の一軒を購入し、いっそ、私たちの家にしてしまいたい。
 お墓に差しかかったが、これまた見事なものだ。入り口には大きな花の一束が飾られている。
 美しい。
 水を滔々と蓄えた運河のような川がある。傘をさして歩く黒人女性。フランスの人たちは、みな美術家である。枯れ葉が歩道や庭先に落ち、それさえもが家のお洒落となっている。
 八月二十九日午前七時半。バスはトゥールのホテルを出発し、ここから三百九キロ離れたモンサンミッシェルの修道院に向かう。外は雨が降っている。途中のトイレ休憩。舞はちいさなフランスパンひとつを買った。

 長男正貫と恭子さんが待つパリが次第に近づいている。それは地理的というより私たちのこころの中の廻路が、一つのゴールを音もなく目指している。そういった物体の伴わない、単に精神的なものかも知れない。
 この旅の途中、リヨンに滞在する現地添乗員のヤスコさんが何かの場所の説明で『幸せとは、見えないところにあるものです』と言ってのけ、この名言をこんどは、西尾さんがバスの中で思い出したようにたびたび口にした。幸せとは、こうしたこころの中の心象風景そのものに宿しているのかもしれない。
 あのとき、ヤスコさんは自らの心象風景を語ってくれた。奇遇にも、ヤスコさんは能登半島の羽咋(はくい)出身でフランスの大学で知り合ったフランス人の男性と結婚し、ずっとリヨンで暮らしている、とのことだった。
 私たちも能登で七年暮らし、千里浜にはわが子を連れてよく行ったものです、と話すと彼女の目には一瞬涙が浮かんだ。遠い古里のことを思ったからに違いない、でも彼女はリヨンで幸せに暮らしている、ヤスコさんはそのことを言いたかったのだろう。「幸せとは、見えないところにあるものです」と私たちはもう一度、こころで口ずさんでみた。

 私と舞は、正貫と恭子さんの待つパリに向かって進んでいる。これといって話すこともなく、互いに無口で車窓を見ている。胸がいっぱいに膨らみつつあった。

 5

 パリへ行き、能登の七尾からも帰り、一ヶ月がたつ。
 この間、中日ドラゴンズは十月十日、東京ドームでの対巨人最終戦で巨人を劇的に破り、晴れて七回目のセ・リーグ優勝を果たしたのである(私も12回表に福留のタイムリー、ウッズの満塁ホームランなどで大逆転した試合は、ナゴヤドームでのパブリックビューイングで取材を兼ねて見ていた)。

 それから十日後、私は所要で名古屋を訪れた作家仲間の吉岡忍さんと社近くのレストランで久しぶりに懇親した。
 この席で、私が恋焦がれている誤解を覚悟で敢えてこのように言わせてもらうが、あのウサマ・ビンラディンのことに話が及んだ。
 吉岡さんは、つい最近、五年前にアメリカで起きた9・11米中枢同時テロの発生現場を訪れたばかり、とのことで、その彼の口からある深刻な危惧が打ち明けられた。それは私が予想していた通りのもので、次のようなものだった。
 ─アメリカではいま中間選挙を前にブッシュ大統領のイラク政策に対する誤りを批判する動きが国民とマスコミの間で日に日に大きなうねりとなり、噴き出そうとしている。ビンラディンは、御著「懺悔(ざんげ)の滴(しずく)」でも指摘されているように、自身の悪業に対する悔恨の情はいまだ消えない、と信じたいが、本のなかに出てくるような、能登のヤセの断崖から身投げするほど、そんなにひよわな人間ではないはずだ。
 彼なりのけじめをつけるまでは必ずや、どこかで生きている。けじめとは、ブッシュがイラクから米兵を撤退させるとか、現在公判が進んでいるフセイン元イラク大統領の罪がイラク戦争に関しては無罪となるなどそういうことだ(フセインは、その後「死刑」判決を受け、執行された)。しかもそのことを多くの人間が期待しているのではないか。
 個人的見解だがビンラディンは、おそらくパキスタンで生きている、と思う。
 それどころか、実は米中枢同時テロがブッシュと米国内に見られる右派のネオコングループ、そしてあろうことか、ビンラディンを中心とするテロリストにより実行に移された、という謀略説が米国内では、今まことしやかに取り沙汰されている。
 ブッシュとネオコングループは明らかに情報を隠蔽し、かつまた捻じ曲げてきた。現にこうしたなか、国民の間では、「インヴェスティゲート(調査せよ) 9・11」と書かれたTシャツを着ている人々が、ウナギのぼりに増えつつある。アルカイダとブッシュが密かに組んで石油を支配しようとしたのではないか。
 この一年間というもの、世論は俄かに変わってきている。
 その証拠に、ブッシュに対するアメリカ国民の支持率は33パーセントにまで急落してきた。国民の間では、イラク政策の失敗の責任をすべてブッシュに転嫁しようという動きさえある。…

 私は吉岡氏の言をただ黙って聞いていたが、これは、もしかして十分に説得力ある話ではないかとも思った。ところで、そのウサマ・ビラディンはいま一体、どこにいるのか。
 私には過去の歴史的経緯からパキスタンのムシャラフ大統領が知って知らぬふりをしている。ムシャラフは表面上はアルカイダに否定的態度を取りつつ、実はどこかで密(ひそ)かにビンラディンを匿(かくま)っている。そして時期が来たら、世の中に効果的にその顔を出させる。そんな気がしてならないのだ。もしかしたら、彼はいま誰もが想像すらしない、北朝鮮で過ごしている。それも金正日と一緒に暮らしているのでは。考えすぎだろうか。私には十分にありうる話に思えてしかたない。
 それにしても私の体内の血がウサマ・ビンラディンの方ばかりを向いているのは一体、どうしたことなのか。ビンラディンには一度たりとも会ったことはない。むろん、一人の人間として彼の存在を突き止め、もし事実なら洗い浚(ざら)い本人の口から、なぜ同時テロなぞという忌まわしくも馬鹿げた大罪を冒してしまったのか、を聴いてみたい。
 何度も繰り返すがなによりも、ビンラディンがいま、どこに居るか、を知りたい。このことは世界中の人とて同じに違いない。

 しばらくして私はウサマ・ビンラディンに関するあらゆる項目をインターネットで検索し、彼に関して世の中で流布しているあらゆる事どもを頭にたたき込んだ。頭に熟知したところで、どうということもないのに。所詮はガセネタばかりなんだよっ、とビンラディン本人が地上のどこかでせせら笑っているのを、承知の上で、だ。
 ここで、インターネットに記載されたウサマ・ビンラディン氏に関する新聞で言えば見出し部分に当たる各項目別の表題を列挙してみよう。
 「豊富な資金源が力の源 ウサマ・ビンラディン氏」「在イラク英軍、アルカイダ幹部を射殺」「ビンラーディンどこに? 2年以上手がかりなし」「一夫多妻制の教祖逮捕 FBI10大指名手配犯」「タリバン関係者、ビンラディン容疑者は生存していると発言」「米、アフガニスタン、パキスタン3大統領、対テロ会談」「ビンラディン生存か、最近の録音テープは本人との分析」「ビンラディン生存の可能性で、米国さらなるテロの恐怖」「ウサマ・ビンラディン氏、アフガニスタンで米軍らの拘束作戦、数回すり抜ける」といった具合である。
 このうち、「豊富な資金源が:」の項目では共同通信の記事が次のように引用されていた。
 ─アフガニスタンでの対ソ連戦から反米へとウサマ・ビンラディン氏は一九九八年「米国人とその同盟者の殺害はイスラム教徒の義務とする」とするファトワ(宗教令)を出した。米国の支援を受けるイスラエルがイスラム聖地エルサレムを占領し、メッカ、メディナの二大聖地を抱えるサウジアラビアに米軍が駐留しているー。ビンラディン氏が米国を憎悪する理由はこれに尽きる。本来ファトワを出せるのは、教学を長年修めたイスラム教指導者だけ。元エンジニアの同氏に権限はない。
 しかし米国の富と権力の象徴を一瞬にして破壊した米中枢同時テロを「神の懲罰」と喜ぶビンラディン氏の信奉者らにとっては「予言の的中」(エジプト人学生)とすら映る。
 出身地のサウジアラビアからアフガニスタンへ。その後スーダンを経て再びアフガニスタンに戻ったビンラディン氏の放浪の姿を、預言者マホメットに重ねる声もある。米国が追い詰めれば追い詰めるほど、ビンラディン氏を「殉教者」の地位に押し上げる皮肉な結果になりかねない。テロ組織の指導者が宗教的カリスマ性を増大させることに、懸念も広がっている。米誌などによると、ビンラディン氏や側近は事件後、トラックの荷台で眠りながら移動する日々を送っているもようだ。…(カイロ共同)
 このほか「在イラク英軍」では、バクダッド発のロイター電を引用し「在イラク英軍はアルカイダの指導者ウサマ・ビンラディン容疑者の側近メンバーの一人で、2005年にアフガニスタンの収容所から脱走していたオマル・ファルク容疑者を殺害した」と報じ、「ビンラーディンどこに」の項でも新聞記事を引用し「(9月)10日付の米紙ワシントン・ポストは、米中枢同時テロの首謀者とされる国際テロ組織アルカイーダの指導者ウサマ・ビンラーディン容疑者について、米情報機関が米国史上で最大規模の追跡作戦を展開しているにもかかわらず、2年以上も確かな手がかりを得ていない、と報じた。米政府当局者らの話として伝えたもので、ビンラーディン容疑者はアフガニスタンとパキスタンの国境沿いの部族地域と呼ばれる政府の力が及ばない、部族が事実上、支配している地帯に隠れているとみられている」としている。

 十一月六日。新聞の1面トップに今度はこんな活字が躍った。
 「フセイン元大統領に死刑」「イラク高等法廷 シーア派虐殺初の判決」「上級裁で審理継続」(Т紙)
 さらに九日付の各紙一面トップは、アメリカの中間選挙で共和党が民主党に敗れたニュースで、各紙とも「米民主党が下院奪還」「中間選挙 上院も大接戦」「イラク政策・議員不祥事 国民不満強く」(M紙)などといった見出しを打っている。ブッシュ米大統領の指導力低下は、今回の中間選挙で著しく衰えたことは、火を見るよりも明らかとなったのだ。

 私はといえば、パリに行き、能登から帰り、阪神タイガースの猛追に遭いながらも何とか逃げおせた中日ドラゴンズのセ・リーグ優勝に続き、こんどは日本シリーズ(対日本ハム戦)の大敗を見てからしばらくして、かつて単身赴任生活をした琵琶湖のある湖(うみ)の都・大津を訪れた。
 あるテレビ局の専務取締役から解放され、新しく食の仕事に携わることになった友人を励ます会に出席するためだった。その場では、当時お世話になった多くの方々と再会できもした。大津といえば、相前後して土地の同人誌「くうかん」の主宰真鍋京子さんから、大津名物の落雁と一緒に湖都の文学一冊が送られてきた。十年ほど前の大津支局長在職以来いつも変わらぬご厚情には感謝のしようがない。

 一週間後。十一月十一日。
 私は舞を伴い、奈良県大和高田市のさざんかホールを訪れた。
 八十五歳になり、なお、その詩作への情熱が衰えることのない、前衛詩人・日高てるさんから自作「葛城(かつらぎ)讃歌」のコンサートへのお招きを受けたからである。昭和10年に詩誌「歴程(れきてい)」を創刊した詩人草野心平門下の日高さんは日本現代詩人会から「先達詩人」として顕彰されたことでも知られる。
 私が能登の七尾支局長時代に、七尾湾に浮かぶ能登島で全国から名だたる詩人らが集まって繰り広げられた能登島パフォーマンスを、七尾在住作家の小林良子さん、詩人青木新門さんらと共に実現させた同志の一人でもある。
 あの日々から続く文学に対しての熱い友情は、その後も絶えることなく、日高てるさんのコンサートには同じく能登島パフォーマンスの実現に陰ながら力を尽くした大阪文学学校の校長で元日本現代詩人会会長長谷川龍生さん、インド人舞踊家シャクテイさんの母も駆け付けてくれたのだった。

 「葛城讃歌」
 序詩
 ♪倭は国のまほろば
 たたなづく 青垣
 山隠(こも)れる 倭し美(うるわ)し  (古事記)
 1番
 二上の峰の 浅葱の朝明け
 遡る二、三年まえ すでに裾野に
 人の住んでいたという 旧石器人
 彼らは 天を仰ぎ原野を駆けり
 獣を追ったことであろう 獣を
 鏃の工房跡が今も地下にのこる
 屯(どん)鶴(づる)棒(ぼう)のサヌカイト
 その冴えた音色 その古代の妙なる響きよ
 その冴えた音色 その古代の妙なる響きよ
  以下2、3、4と続く
 終詩
 天の上に天が
 陽の上に陽が昇る
 この地に生を受けた慶びと寿ぎを
 二十一世紀に向け
 Enterprisingに羽撃せよ
 羽撃せよ
 葛城 新紀元
 葛城 新紀元

 これらの音曲と調べは、あの見事なほどの歌声とともに、私と舞の胸から永遠に消えることはないだろう。地元の人々が天まで届きそうな、透き通った声で歌うなか、私の脳天には、一瞬、あのウサマ・ビンラディンのヒゲ面が浮かんで消えた。

 私が、ウサマ・ビンラディンへの願望を込め以前に書いた小説「懺悔(ざんげ)」のなかでビンラディンが京子と一時期を過ごした、とされる三重県志摩半島の渡(わた)鹿野(かの)島。そして信州大学医学部の授業料値上げ反対をきっかけに学園紛争が吹き荒れ、駆け出し記者の私が在任中、ずっとデモに翻弄されつづけた松本にも、いずれ俳句と短歌、一行詩を嗜(たしな)む舞を伴い、訪れるに違いない。

 ×     ×     ×

 二〇〇七年の秋。十月二十三日。
 あれから一年以上がたつ。
 私の心のなかに潜んで棲むウサマ・ビンラディンの消息は、その後も何一つとして分かってはいない。ただ最近新聞紙面の片隅で久しぶりに彼の名前を見たに過ぎない。
 いまとなっては、これが彼の存在を突き止める唯一の物証なのだろうか。
 記事はТ新聞のことし9月12日付国際面に掲載されており、次のようなものだった。
 ──国際テロ組織アルカイダの指導者ウサマ・ビンラディン容疑者とみられる音声メッセージが、米中枢同時テロから六年となる十一日、インターネットで公表された。メッセージは米中枢同時テロの実行犯の一人が登場するビデオ映像の中で、同容疑者の静止画と一緒に流された。同容疑者は七日に三年ぶりに自身の映像を公開したばかり。
 ビデオ映像四十七分間。冒頭でビンラディン容疑者とみられる人物がテロ実行犯を称賛し「イスラムの若者に告げる。彼らの列に加わることを」などと述べ、対米戦争に参加するよう求めている。
 録音時期は不明だが、メッセージは昨年六月に米軍の攻撃で死亡したイラク聖戦アルカイド組織のザルカウィ容疑者にも言及。七日のビデオ映像も最近のものとみられることから、今回のメッセージもそれほど古い録音ではないとみられる。

 記事はここまでだった。
 こんどは私のメモ帳を開いてみた。
 そのビンラディンメモには、こう記されていた。
 ──ニュースによれば、あなたはイスラム圏のアルカイダ派が次第に減りつつあることを憂いて声明を出した。そんなように聞いたが、未だ確認していないため真相は、まだ知らない、と。

 きょうは、「十三夜」で深夜の月が中天で光っている。
 舞が月を仰いでこう言った。
 「今宵の月は、美しゅうございます」と。これは私が敬愛する詩人日高てるさんの詩集の題「今晩は美しゅうございます」から舞が盗作した彼女ならでは、の言葉でもある。
 日高さんの言うとおりだ。
 ほんとうに今夜は美しい月である。私が追い求めるウサマ・ビンラディンはいったい、どこに行ってしまったのか。

 ビンラディンは、世界の風になって、いまごろ、その魂がどこかそこいらを、ふわふわと浮遊しているのかも知れない。
 案外とアフリカの片田舎か何かで人知れず、人道支援のみちを歩み始めていたりして::