掌編小説「死刑囚」
名古屋駅前の八重桜が散り始め、躑躅が満開となり、その赤やピンクに目を奪われていた時、友人からの携帯電話でポール牧の突然の死を知らされた。
喜劇の世界ではタレント達の先輩格、威厳があり私は彼を師匠と呼んでいた。ポール師匠との交友は、私が知人から頼まれ身の程知らずに武蔵川部屋の面倒を見ていた平成七年から五年間という短い期間だったが、楽しい思い出が残っている。師匠と武蔵川親方とは若い頃からの知り合いで師匠が駆け出しで食えない芸人の頃には現役の相撲取りだった親方が面倒を見、親方が横綱三重の海を引退し新しく部屋をつくった頃には師匠が手助けしていたという何十年来の親友で、何でも相談出来る関係だった。だから今回の師匠の自殺は、親方に相談がなかったのかと悔やまれてしょうがない。
思い出を若干語ろう。名古屋場所が始まる東京から部屋が移って来てからの一月間、他地区で仕事がない限り師匠は名古屋に滞在していた。私が経営するホテルにもよく泊まっていただいた。一人の時もあり、マネージャーを兼ねる奥さんと二人の時もあった。保育園の保母さんをしていたという奥さんは優しい人で好感が持てた。御夫婦はゴルフが共通の趣味で私もよく御伴した。
師匠が一人で名古屋にいる時、場所前は朝稽古が済むと親方の好きな麻雀が始まり、たいていは師匠が負け役だった。負けん気の強い親方は何時間でも自分が勝つまでやらないと納得しなかった。私も被害者の一人だったかもしれない。お金がなくなり、東京にいる奥さんに送金依頼の電話を師匠がしているのを何度か聞いた。
場所前に行われる前夜祭のテレビの出演料や部屋のゴルフ大会、後援パーティ、打ち上げパーティの司会代等すべて親方の懐に入り、部屋の維持費に消えたのだろう。
相撲界は通常の世界とは明らかに違い、金銭感覚が狂ってしまう。部屋をつくるのに十億円以上かかったと聞いたし、親方株は相場が三億円と聞いた。新たにホテルを造るくらいに金がかかるのだ。何処からかお金が入って来るのが相撲界かもしれない。金庫番であるマネージャーの良し悪しが大きくその部屋の経営を左右する。芸能界も同じなのだろうか、奥さんがしっかりしているから師匠は負けても平気な顔でいられるのだろうと推測した。
親方の奥さんは師匠の奥さんとタイプが違い、少し鼻が高く私の好みの女性とは言い難かった。武蔵川を面倒みて三年目の名古屋場所直前、親方の次男が事故死し親方夫婦が気落ちして大変な時期、二人の面倒を師匠夫婦が実に優しく面倒見ていたのが今も印象に残っている。私も部屋の面倒を見るのは三年と決めていたのに、親方夫婦にはとても言えず、その後二年続くこととなった。
師匠とは錦のクラブや私のホテルのバーで何回か飲んだことがある。師匠の十八番は勝新の座頭市の真似歌だった。普段は陽気で、茶目っ気たっぷりにホステスを笑わせたりで、ブラウン管の姿と変わりなかった。ゴルフ場でも例の指パッチンをやったり、ドライバーでティショットを打つ時にわざとクラブを放り投げ、転げ込んだりしてキャディサービスを怠らなかった。ただ日頃は温厚に見える師匠が上下関係に対する姿勢は厳しく、相撲取りばかりでなく、私のホテルの従業員にも時に辛辣な言葉が飛んだ。芸能界で長年もまれたからだろう。
思うに相撲界程、上下関係がはっきりしている世界はない。給金は十両以上の関取にならないと二月で七万円の小遣いしかもらえない。関取になると、幕下以下の若い衆が何人か与えられ、掃除、洗濯、身の回りすべてやってもらえる。風呂では、自分の身体を自分で洗うことはない、若い衆がやる。下着、回し、すべて甲斐甲斐しく若い衆が着せてくれる。男所帯の集団なのだから、若い衆が女性の役割をすべて担うのだ。良くも悪しくも封建社会の風習そのままに。
相撲界とか伝統芸能の世界は未だに多くそんな形が残っているが、それでしか成り立たないのかもしれない。
速成栽培では守れないのだ。内弟子を何年という下住みが必要で、それを免れる大学相撲出身者の特権意識が日本の力士を甘く弱くしてしまったのではないだろうか。
私と親交を深める中で師匠は、私が演劇に興味を持っていることを知り師匠が一人芝居で演じたビデオテープを贈ってくれた事がある。思い入れが強い作品だった。普段の喜劇役者の顔ではなく、地味過ぎる程の演技で死刑判決を受けてから歌人となった島秋人を見せ、師匠の何時もとは違う内面を窺がわせた。師匠は島の人生に自分の半生を重ね合わせたかったのだろうか。師匠も親方も幼少期は非常に貧しかったと聞いた。私の家は、私が小学校に上がる頃までは豊かとは言えなかったが、両親の努力と日本の成長期が追い風となり次第に豊かとなって、いつも飢えているということはなかった。だから、頂いて直ぐそのビデオを見た印象は、師匠の心が一直線には伝わって来なかった。
貧困、病弱、精神虚弱、あらゆる業を背負い、たった二千円を盗むために人殺しをした島秋人は、ブルジョア育ちの私には許容の範囲外だったかもしれない。
時代が移り、富める者と貧しい者に二極化しつつある日本の中で、たった数千円、数万円で人殺しをする島のような犯罪者は戦後すぐと同じように珍しいものではなくなってしまった。私自身もバブル崩壊と不況で痛い目にあい、金に苦しみ、日夜資金繰りに奔走する自分と自答しなければならない時を過ごし、苦労人の師匠がより分かるようになっているのかもしれない。
映像の中で、島は未知ゆえに空腹ゆえに盗みを続け最後には人殺しまでしてしまったと訴えるが、死刑の判決を受ける。獄中でキリスト教に帰依し、祈ることを覚える。師匠は禅僧となった。静岡県で行われた得度式には私も参加した。千人は越える一大セレモニーで、喜劇俳優ならではの派手な演出に驚かされた。マスコミも大きく取り上げ、師匠にとって心の整理と宣伝と二つの意味があったのだろうと、私は解釈した。それ以降、師匠は何百回も講演会を開き、禅を説き、自分を語り、笑わせたのだろう。強かさと、救いを求める純粋さと矛盾に見える二つの性のバランスをとっていたのが、師匠だと思う。そのバランスが崩れた時に逢う魔が時がやってくる。
師匠は一生涯、業に塗れ自己と戦っていたかもしれない。だから島の気持ちが分かり演じたかったのだろう。獄中では、いつ宣告されるか分からぬ死刑執行に怯えながら島は夜に布団に包まり、朝には職員のコツコツという足音が通り過ぎるのに胸を撫で下ろし、布団を上げ、顔を洗い、歯を磨く。死の恐怖との戦いの中で、宗教と小学校時代に人生で一度だけ作文を誉められたことがあり、その先生に手紙を書き短歌を作ることを教えられ、それが救いとなってゆく。島は歌壇でも段段と認められて行くようになる。師匠は短歌の替りにコントを書いたり、喜劇を演じることで自分を救っていたかもしれない。
天の前で人は誰もが平等に死刑囚である。何時やって来るかもしれぬお呼びの日、大前提の前で人は暮らしている。師匠は十二分に認識しながら、時に誤謬を犯したのではないか。禅僧であるよりも前に人であり、役者だったのだろう。あれだけ大切な奥さんに逃げられる原因は、師匠の業にあっただろうが、要のない扇子となった師匠は自分を追い込んでいったのだろう。
起きて半畳、寝て一畳にしか過ぎぬ命と知りながら喜怒哀楽に自分を見失うのが人間だろうか。ビデオを見返しながら、笑いを忘れ、生真面目過ぎる演技で人々に人間とは何かを投げかけようとした師匠の姿に食い入る。思えばしかし、島にキリスト教や短歌がなく、ただ死を待つ死刑囚だったら何と救われがたかったろう。又、師匠に笑いと禅がなかったら、もっと違う形で人生を送ったろう。だが今は師匠の才能を惜しむ。もっと人を笑わせ、禅で人を救って欲しかった。十分、まだ出来たのに。
掌編小説が、ポール牧の追悼文になったことをお詫びする。最後に島秋人の辞世の句で結びとする。
《この澄める心在るを識らず来て 刑死の明日に迫る夜温し》
合掌
平成十七年五月十日