【マボロシ日記】時計よごめん

 その時計は、大学進学で上京する私に、高校の同級生のTちゃんがお祝いにくれたものだった。
 Tちゃんは高校入試に失敗し、私と同じ高校に入学した。ショックを乗り越え、人生の吹き溜まり状態だったクラスに馴染み、3年間学年で上位の成績を取り続けた彼女は、就職が主だったクラスで数人だった「進学」という道を選んだいわば同士だった。
 見た目が元気でさばけており、それでいて気持ちが優しく可愛らしい彼女のことを私は気に入っていた。
 後に担任の先生が言ったのは、もっと難関大学でも受かったと思うが、高校受験失敗時のような気持ちは二度と味わいたくないという彼女の思いが強く、偏差値の低い安全な大学に進学を決めたということだった。
 先生の話を聞いて、高校受験失敗は、どんなに彼女にショックを与えたかを思った。その繊細さゆえに、受験本番であがってしまい、実力が発揮できなかったのではないかと思いやった。
 進学クラスの生徒を差し置いて、第一志望の大学に合格した私をすごいと言い、彼女は「お祝いをしてあげる」と、昔あったプレゼントハウスだったか、さまざまなプレゼントをたくさん扱っている店へ一緒に行き、私が気に入った時計を買ってくれたのだった。
 両手で抱えるほど大きな丸い形の置き時計で、黒くて、上部に持ち運びができる取っ手と、金色のベルが付いていた。形がちょっとレトロな所と、けたたましく鳴る大きな目覚ましの音が、朝寝坊の私にぴったりだと思った。
 体が大きい分、文字盤が大きいところも、強度近視の私にぴったりで、ぼんやりした朝も、夜の暗闇でも見やすかった。
 電池は大きい割に意外と長持ちで、めったに交換しなくても良かった。遅れるというより、止まるので、取り換え時も分かりやすい。授業に遅れそうな朝も、友人と夜通し語り合った夜も、ホームシックに泣いていた日も、地震の時も、どんな時でもいつもそこにあり、一緒に引っ越しをし、卒業後実家にも連れ帰った。
 会社員時代も、毎朝その子の顔を見て出勤し、仕事独立時も、結婚時も新居へ連れて行き、出産時もそばにいた。
 そんなにも一緒に長い歳月を過ごした時計なのに、その最後を正確に思い出せないのである。
 街にはたくさんの時計が溢れている。いつしかその時計に飽きて、そろそろ替えてみたい、そんな気持ちが無意識によぎるようになった。
 でも時計は時を刻むのを止めない。私は、もういいよ、と思い始めた。そしていつからか、電池を換えても針が動かなくなり、その子は傍らからいなくなった。
 見上げると、白い壁に、おしゃれな掛け時計が掛かっている。家を新築した時に気に入って購入したものだけど、時計の白色は家の白い壁と同化し、文字盤が小さく、とても見にくい。一日に何度もその時計を見るたびに、床置きにしたあの大きな黒い時計が懐かしく思い出される。
 一緒に暗黒の高校3年間を乗り越えたTちゃんの顔が浮かぶ。高校卒業後会っていないが、年賀状は毎年届く。写真の娘さんの部活のユニフォームに、Tちゃんが入試で涙を呑んだ高校の名前がプリントされているのを見て、良かったねとしみじみ思う。あれからどれだけの時間が流れただろう。あの時計はもういない。

 母子で選ぶヘアゴムに 忘れがたき少女の時間

【マボロシ日記】こころのこころ

 息子がテスト期間に入った。現役高校生の勉強なんてとても教えられないけれども、古典と現代文だけは「参考までに」アドバイスをすることにしている。
 現代国語の範囲は、夏目漱石の「こころ」が入っているというので、「あら懐かしい、お母さんもやったわ」と軽い気持ちで教科書を借りて読んでみたのだが、最初の2~3行の意味がもう分からない。何十年も前に読んだ記憶があるのに、内容は脳みそからほとんど失われていたのだ。
 教科書は、後半部分をちょっと載せているだけ。冒頭は〈前半のあらすじ〉が何者かによって解説され、いよいよテスト範囲の本文が挟まっていて、〈この後どうなったか〉が最後にざっくり掲載されているといった次第で、要するに全体を端折っているので、さらに物語の理解を難しくしている。
 こころ、どんな話だっけ、確か単行本があったはず…と書棚を探すと出てきた。最初からじっくり読み進めると、そのうちのめり込んで、12時間くらいで読み終わった。
 大人が全てを読んで理解するのがやっとなのに、高校生が途中をちょっと読んで理解できるのか。昔、いとこが「それにしても、こころだけは何度読んでも分かんなかった」と言っていた。
 そうだ、私も高校時代「こころ」をやったけれど、今思えば理解しているようで、本当の所は理解できていなかった。
 ある評論家が「こころはどこの高校教科書にも載っているが、本当は高校生にはちょっとふさわしくないんです。漱石を教科書に載せるなら、もっと他に適した小説があるのに」と言っていたことを思い出す。
 こころ。あれは教科書に短く載せちゃだめなやつじゃないか。最初から最後まで読み込んでこそ本質が分かり、それでこそ価値が出るんだろうけれど、全体に死への出口(入口)に向かって生きている人の心情が暗く垂れ込んでいて、男女の云々とか、厭世観とか、死生観とか、高尚な人格を求めるとか、多くの高校生にはこれから起こることであっても、実感としてはまずないだろうから理解しろといってもなかなか難しいのではないかと思う。
 という私も、分かった風で分かってないのかも知れないな、なんて思う情けない読後感で、はたして高校のテストに何が出るかと深く悩み、アドバイスすらできなくなってしまった。 最終的には受け取り方も人それぞれで結構で、作者の心情とか、余計なお世話ですよね、漱石大先生。

 冬耐えの 苦味が美味し 菜の花パスタ

【マボロシ日記】銀行という異界

 同級生には、銀行員になった人も多いが、私は銀行にあまりご縁がない。根っからの文系人間であり、そもそも数字自体を見たくないヒトだ。
 簿記1級を持っているが、その受験勉強は苦痛で苦痛で仕方なくて、合格する前からその技能を使わなくて良い仕事に就こうと決めた。全ての物事にいえることだが、計算、打算、決まりごとが性根に合わないのだ。
 お金ないくせに、ついついどんぶり勘定で、ここぞという場面ではつべこべ言わずに使いたい、金は天下の回り物だと思う。
 とはいえ、結婚後はいささか不本意だが、ケチケチしながら慎ましい日々を送っている。1円でも安いスーパーに、ガソリン代をかけて行くような愚かなことはしないが、日々節約を心掛けている。
 先日、銀行の印鑑を変更する必要が出てきたので、手続きに行った。通帳は全て主人の名義である。休眠状態のものも含めて4つあり、そのすべてを変更することになった。番号札を取る。順番を待つ。ここまではどこの銀行も同じ。しかしその対応とスピードの違いに驚いた。

 最初に、家の近くのG銀行の支店に行って相談すると、所定の紙を持ち帰り主人に自筆で書かせ、口座のある車で30分も掛かる支店まで、自分で持って行くようにという。車で往復1時間掛かる支店に持参しそれで万が一不備があるからと帰され、何度も行く羽目になったら、たまったものではない。そもそも支店間で行き来があるだろう。書類はその支店から口座のある支店へ送ってくれとお願いし、了承を得た。
 帰り道、慌てて走って駆け寄って来る女性行員。渡す紙を間違えたと平謝り。新しい用紙をもらい、主人が自筆で記入。すると翌日電話があり、新年から用紙の形式が変わったのに、うっかり古い形式の紙を渡してしまったから新しい紙に書いてほしいと申し訳なさそうにいう。素直に従い、用紙を取りに行き、主人に2度目となる住所と名前と生年月日を書いてもらい、また持参した。印鑑変更を、3度目の正直でやっとこさ成し遂げることができた。

 T銀行は、定期預金の集金のために担当者が家に来てくれるので、その時に話をした。奥さんが銀行のお金を引き出すために印鑑変更するケースがあるので、主人の自筆がほしいという。引き出すもなにも、残高がマイナスなのでそんな心配は皆無であるが、もちろん口にしない。
 主人の顔を見られれば、その日に手続きが終わると聞いて、ちょうど年末年始休暇で自宅にいる日を指定し、本人が行員の目の前で書類を書いて手続きは終了。

 次に行ったのは私の住む県の2大バンクの一つО銀行だ。窓口で私の手書きだけで手続き完了、所要時間15分くらいだった。

 最後はО銀行のライバルJ銀行で、以前はお高くとまっているイメージで、窓口に見た目で選んだかのような若くて美しい女性ばかり揃え、クールビスとかいって、銀行の人とは思えない私服で接客させており、良いイメージがなかった。
 ところが、久しぶりに支店に入ると、なんだかわからないが、全体が活気づいている雰囲気がある。客を緊張させるような銀行独特のムードはなく、居心地が良い。対応してくれた窓口の女性は、再雇用かと思うような年齢とおぼしきベテランの風格で、感じが良くて、私の手書き用紙でオッケー、なんと手続きが10分ほどで完了した。

 あらたまって支店全体を見渡してみると、男性が一人もおらず、女性の姿しか見えない。その数20人くらい。忙しく業務を回し、誰一人サボッている者はいない。
「○○証券にこれ送ってもらえますか」「○○の手続きでやっておきます」「了解です」
 全員がバリバリと音がするんじゃないかと思う程目まぐるしく、生き生きと動いていた。若さだけではない、落ち着きのある女性たちが、協力しながら働いているのである。
 どこの銀行でも、女性は窓口と後ろにちらほらいる程度で、支店長らしき男性が奥に鎮座か、ペコペコしながら電話中で、その手前に女性に仕事を言いつけている風の課長や主任クラスの男性行員がいるのが普通である。この支店に男性はいないのだろうか。だとしたら大変珍しい支店である。男性行員たちは、営業に出ているのかも知れないが、これだけ女性が多数だと帰りづらいかも、とまで想像する。
 ある者は、子どもを学校に行かせながら、ここで働いているのかも知れない。ある者は義父母の介護を助けてもらいながら、ある者は、キャリアを断念して結婚し、子育てが落ち着いてから再雇用されているのだろうか。もしかすると非正規雇用かもしれない。そこにいる女性たちのそれぞれの人生を思う。
 女が家のもろもろを気遣いながら、細やかな特性を生かして仕事をこなしている。困難さとそれを乗り越える頑張りに感動さえ覚えながら銀行を後にした。

 初雪も 笑いで溶かす コロナ(無)かな

掌編小説「雪葬」

 おいしいパン屋さんがある街に住みたいと思っていた。 それを伝えると、クールな店主は、少し動揺して、そのことにはなにも触れず、他の話をした。
        ×        ×
 初めてその店を訪れたのは、私が独身の頃だから、少なくとも10年以上は前になる。仕事に行く道すがら、パン屋があることに気付いた。 同じ市内とはいえ、当時の私の家は市の西部、その店は東部にあったから、パン屋ができていることに気付かなかったのだ。 パンが好きなので、近郊のパン屋の味はすべてチェックしていた。  
 私にとってパンの味は、食パンが基準になる。 耳がパリッとして、中の生地は上品なキメの細かさ、焼くとバターがすっとのってしみこむ。ああ、本物だ、と思った。 専門店に挽いてもらったコーヒーとよく合う。 運良く焼きたてに出合ったら、そのままちぎって食べた。 それまで数あるパン屋さんを巡っては、味を確かめることを密かな喜びとしていたが、その店は、私のお気に入りのベスト2のうちのひとつになった。

 それからしばらくして私は結婚し、偶然にもそのパン屋さんの近くの団地に住む事になったのである。  
 冒頭の会話は、その時に交わした会話である。
 ある日パン屋に行くと、保育園の案内パンフが置いてあった。小さな子どもを連れていた私は、その保育園について尋ねた。
 その会話の中で、さりげなく、本当にさりげなく、自分の子どもに障害があったこと、それも重度であることを話された。そして、離婚していることも、さらりと言われた。

 いつも店主は、ひとりでパンを焼いていた。
 仕込み、こねて、ねかせて、焼いて。その味は確かでいつも狂いがなかった。  
 店は、店主一人できりもりしている。
 たまにレジにパートさんがいたが、パンをつくる行程は、あくまで一人で作業しているようだった。 あまりに忙しそうなので、助手を雇えばいいのに・・・と思うその言葉をぐっと飲み込んだ。
 職人の頑なさは、弟子を拒んでいるようにも見えた。
 
 12月31日まで営業、正月は3日から。何故かと聞くと、31日に、いつも決まって訪れるお坊さんがいるので、その人の為に店を開けているのだという。また、パンをおいしく食べられるのは2日ほど。大晦日に買ってもらったパンがもつのはせいぜい1月2日まで。1月3日には、パン党のお客の為に店を開くのだと。

 更なる高みを求めて、ドイツのある高名なパン職人が来日した際は、東京まで行き、教えを乞うた。 総菜パン、おやつパンは殆ど置かず、味で勝負の横文字のパンたち。万人受けするメロンパンやホットドック、ドーナツや揚げパンを焼けば、店はもっと繁盛するはずだった。
 しかし店主はいつもひとりで、もっと崇高な山の頂上を目指していた。きっと、険しい山だったに違いない。
 
 店主はお客と話をしていても、けっして話し過ぎることはなかった。でもまったく話さないでもなかった。私は名乗った覚えはなかったのだが、きっと自分で何かの拍子に言ったのだろう、ちゃんと名前を知っていた。息子の名前も、娘の名前も、一度で覚えてくれて、訪れると気のいいお兄さんといった風で、いつも名前で呼んでくれた。 私の名前はもちろん、私の友だちの名前も知っていた。店にはたまにしか行かない人なのにも関わらず、話しているうちにふと話題に出てきて、その人のこともよく記憶していたので驚いた。

 しばらくして、店はドイツの新聞に紹介された。ドイツ釜で焼くこだわりのパンが評判になって、ドイツ紙の記者が取材に来たのだった。しかしそのような出来事があろうとも、店主は決して、おごり高ぶるようなことはなかった。自分はたいした人間じゃない、と頭を横に振るのだった。パンの味を褒めても、いつも心から謙遜した。
 褒められる事を拒む、まるで自分自身の過去への懺悔のようであった。

 店主さんへ
 いつも、ありがとうございます。   
 ぼくは、店主さんのことが大好きです。 いつも、ぼくのことをやさしくしてくれて、うれしいです。
 ぼくは、お店のパンがすごくおいしいと、毎日、おもっていました。   
 ぼくは、店主さんがなくなって、ほんとうに、悲しいです。
  もう、お店のパンをにどと、食べられないと思ったら、ざんねんです。   
 毎日本当にありがとうございました。(店主さんの絵と食パンの絵)
   
 店主様   店主さんがこの世におられないなんて、まだ信じられません。
 あの、42年ぶりの大雪が街に降り積もったあの日、私は発熱で床に伏しておりました。思えばここ1か月、体調が思わしくなくて、お店へ行けなかったのが本当に悔やまれます。 友人からの一報にも 「まさか」 なにかの間違いに決まってる・・・
 この目でお店のシャッターの貼り紙 これを見るまでは、信じられなかったし、信じたくもなかったのです。   
 月に数回、ほんの半斤のパンを買いに行く私に「少しずつ買いに来てくれて、焼きたての新鮮なパンを食べてもらうのが、一番嬉しいんです」と言ってくださいました。  
 店の奥で、こだわりのパンを焼く店主さんの姿を見るのも好きでしたし(忙しい中、私が来店していることは気付いてみえた)、たまに一言、二言会話するほんの2、3分が私にとっての癒しでした。
 家族の事、悩み、不安、いつも真面目に明るく応えてくださって、励まされてばかりでした。息子が試食のパンを何度も口に運ぶのを見ても、嫌なお顔ひとつなさらず、優しかった。
 お声が、いまもまざまざと耳に甦ります。   
 あのパンは、もう食べられないのですね。  
 お葬式に行きたかった、
 行けなくてごめんなさい。

 いろいろな会話を思い出しますが、私にとって人生最大の絶望と不安の中で迎えた第2子出産の前に、「足首を冷やしちゃダメですよ。足首を暖めてね」   
 あのお言葉が、涙が出る程嬉しかったんです。きっと店主さんは、お客さんをいっぱい励まして、おいしいパンと元気を与えてくれていたんでしょうね。   
 ご自身の事は殆ど話されませんでしたが、なんとなく想像するに悲しみを抱えて地獄も見て来られたようにお見受けしておりました。
 そんな方だから、お仕事に対する気持ち、姿勢が他とは比べ物になりませんでした。お客たちはみんなそこに惚れてついてきたんです。  

 店の前の貼り紙を見て、居合わせた見ず知らずのお客さんと泣きました。
 隣の呉服屋さんで、詳細も聞きました。  
 ぜんそくの持病があって、毎日咳き込んで吸引してからお仕事されていた事、あの日の猛烈な寒さで呼吸が苦しくなって倒れ、出勤してきたパートさんに発見されて救急車を呼んで、病院に向かう途中でもう息があったかないかだったって・・・。
  
 舞台の上で死にたいと願う役者のように、最後の最後まで立派にお仕事されました。   
 どこに住んで居られたかも分からなかったので、息子と書いた、このあてのないお手紙をお店のポストへ入れておきます。   
 あなたの命を賭けたパン、
 いつまでも忘れません。

 いままで 本当に ありがとう                  (完)     

特集『4000字小説』「黄泉の雫」

1 ふらり、ふたり
「先生、ノドが痛いんです」
「桔梗湯を飲んでみて下さい。漢方ですから授乳に影響はありませんよ」
「首と肩と背中が痛くて」
「それなら葛根湯がいいですよ。おっぱいもよく出るようになります」
「この暑さと体調の悪さで、外出が難しいんです。薬の配達はやってませんか」
「いいですよ、家内に持たせましょう。ところで・・・メンタルの方は大丈夫ですか」
「・・・。花を見て、涙が出るんです」

 大輪のアサガオが咲いた。ここ二週間程花が咲いておらず、もう終わりかな、と思っていた。ところが、夏休みが終わりアサガオの鉢を小学校に持ってくるように、というお知らせのプリントを息子にもらい、この夏私を癒してくれていたアサガオといよいよお別れ、という前日の朝に、見事な花を咲かせた。まるで、最後のお別れを言うかのように、大きな花をつけてくれたのである。
 今日でこのアサガオが我が家からいなくなると思うと、無性に淋しくなる。花をここまで愛おしいと思ったのは初めての経験である。リビングの窓のすぐ外に鉢を置いて、ソファに座り、赤ん坊におっぱいを与え続けながら、来る日も来る日も花と細長くねじれたつぼみを見ていた。まだすわらない小さくてやわらかい頭蓋骨を支えながら、命の雫である母乳をひたすらに吸わせ、その花びらを、葉を、つるを、焦点の定まらない目でずっと見ていた。
 私の魂は甦ったばかりで、懐の赤ん坊もまた、向こうの世界からこちらの世界へとやってきたばかりである。そんなあやうい二人が、真夜中の闇の中で、または夜と朝との間に、南国のようにむせぶ灼熱の昼間に、私達はあっちへ、こっちへ漂ったりしながら、かろうじて生きながらえていた。
 あぁ今年の夏は記録的な暑さに加え、セミの鳴き声が耳に共鳴してどうにかなりそうだ。うねうねと太くて大人の中指程もある虫が、葉をむしゃむしゃと食べている、助けてやらなくては。
 夜中の授乳時はソフトクリームのように細長い渦を巻いたつぼみがもうすぐ開くのだと、希望を見ていた。早朝まだ誰も起きていない静かな薄明かりの中で、見事に開花したいちりんを眺めていた。この花も、夕方にはしおれてしまう一日限りの運命だと思うと、その終焉のなれの果てまで見届けるのが、この花へ手向けるせめてもの感謝の気持ちだと思った。
 猛暑の中、けなげに熱風に耐えながら咲き続けるその姿に頑張れと心の中で声援を送り、台風が来そうだとニュースが伝えれば、鉢が倒れてやしないかと、寝ていても心配であった。少しの外出にも困難を伴う幼子と私は、アサガオと共に、この記録的な酷暑の夏を古ぼけた家に閉じ込もり生きていた。そこは鍵のない牢であった。

2 拝啓 あなたへ 
 妊婦の抱える不安というのは経験した者でないと分からないかも知れません。赤ちゃんに手足があるか、心臓は動いているか、脳は形成されているか、あまりにも小さすぎて、これ程医学が発達した現在でも、いざ産まれるまでは、お医者様でもある程度のことまでしか分からないのです。産まれてからわかることだってたくさんあります。
 それに、自分ではどうにもならない出産。人間をこの世に産み出すという行為そのものが、神懸かり的なものです。巨大な波がやってきて、己の体が己でコントロールできなくなっていく。激痛の現実と朦朧とした意識との狭間で、もうやめたいと思っても、産まなければ終わらせることはできないのです。その瞬間は運を、人生を、命を、すべてを賭けないと成し遂げられないのです。
 明日入院する事に決まりました、と告げると、息子のピアノの先生が、お母さんに弾いてあげたい曲があるんです、といってピアノを弾いて下さいました。
 そのノクターンの調べは、いままで聴いたことのないものでした。
 ショパンのノクターン、誰もがどこかで耳にした事がある、有名な曲です。私にとって、ただのバックミュージックでしかなかったこの曲が、これほどの感動を自分の心に呼び起こすとは驚きでした。
 思えば、お腹に我が子を宿し、明日にでも新しい命がこの世に誕生する喜びの瞬間が訪れようとしているというのに、暗い、真っ暗闇のトンネルの中にいました。
 ここには書ききれませんが、産む環境が整わないというのでしょうか。入院中の上の子の預け先が決まらない、預かりを頼んだ身内に断られ、たった一週間の事なのになんて冷酷なんだろうと父親を恨み、体調を気遣う電話の一本もなく、頼みの母親ですら駆けつけてもくれないという最後の裏切りに遭い、この世に生きていても親などいないと同然、気持ちを許せばいつも傷つくだけと身を掻きむしり、もうこの世にいない夫の両親の方がよっぽど潔い、良い思い出ばかり残るから、こんなことならやっぱり子どもなど作るんじゃなかったと。自分の妊娠を後悔する、これ以上の悲しい事がありますか。
 何故、あなたはこんな家に産まれてこようとしているの? もっとマシな家が世間には沢山あって、それなのに子どもを授からずにいる。
 なんとなく、今回は死ぬような気がしていました。お産の堪え難い苦痛を二度も乗り越えられない、自分には。
 そして、いえもうこれ以上書きません。
 ノクターンは、悲しみの向こう側に私を連れて行ってくれました。究極の悲しみと究極の喜びの到達する所へ。
 両者は同じなのです。もう、私は超えたのです。ノクターンを聴きながら、涙が、溢れ出て仕方ありませんでした。暗い世界から、私の魂は黄金色の麦畑のように輝く広い場所に誘われました。私の葬送曲にも聴こえましたし、きっと天国に流れているであろう曲のようにも感じられました。私がもし死んだら、この曲を流してほしい。きっと天国に行けるような気がします。
 病院に向かう車の中でも、ノクターンをずっと聴いていました。
 こんな日にも仕事を休めない夫は、涙を堪えて不安そうに病院に入っていく私を一体どんな気持ちで見送ったのでしょうか。

3 ノクターン(夜想曲)
 そこは、県内で一番大きな総合病院でした。
 ふんわりしたピンク色の産婦人科病棟は、新しい命が産まれる場所です。でも一方で、命が消えゆく場所でもあるのです。
 陣痛は来ていないけれど、陣痛室と呼ばれる部屋に通されました。カーテンだけで仕切られた部屋にベッドが三つ。一人、先客がいます。お腹を見るとまだ小さく見えました。出産予定日前ですが、大事をとって入院されている方だそうです。
 ベッドに横たわり、体温と血圧を測り、お腹にベルトをします。赤ちゃんに異変がないか、心音を調べるものです。頭の上には大きな機械。緊急の場合にここで手術をすることができるのだそうです。
 同意書を書いて、陣痛促進剤を一粒渡されました。予定日を過ぎてまだ三日ですが、赤ちゃんが大きいのと、医療体制が手薄になる連休に入る前に出産したほうがいい、という医師のすすめで、計画的な入院となったわけです。
 その担当医師といえば歳は三十くらい、痩せ形の長身で二重まぶたのイケメン、育ちの良さは話していてすぐに分かりました。優しくて、話しやすくて、聞くところによると腕も確か、本当に申し分のない方なのですが、産婦人科の女性しかいない患者からは大層嫌われていました。
 特に、年配の女性から、あの先生だけは嫌! と。それは彼が若くてイケメンであるからに他なりません。女性はいくつになっても女性なのです。後からその事を私の実母に話すと「若くてイケメンなんて絶対に嫌だわ。そんな先生に見られるくらいなら、子宮がんになって死んだ方がいい」とまで言い放ったのでした。
 世の中には、イケメンが得をしない職業もあるのですね。産婦人科に限っては、枯れたおじいちゃん先生が好まれます。
 女は信じられないくらい大きく膨らんだお腹を抱えて(我が身ながら目を疑います)、仕事を諦め、お洒落も諦め、アルコールも断ち、塩分も断ち、ホルモンの変化の影響で黒ずんだ皮膚と増えた顔の肝班、浮腫んだ足首にため息をついて、イケメンにすべてをさらけ出すという恥辱をすべて飲み込んで、我が子を産み落とすのです。
 母と慕ったあなたから、絶交のお手紙を受け取ったのは、妊娠五カ月の時。もう、忘れます。言い訳も思い出も。
 不安なとき、迷ったとき、分からないとき、悩んだとき、いつも人生の師と仰ぐあなたにすがってきました。
 でも結局、大事な時は一人きりだと。それに気づかせてくれたのはあなたの最後の優しさなのかも知れません。そう遠くない未来に陣痛はやってきます。女は出産によって、生まれ変わることが出来るといいます。まっさらな赤ん坊のように魂がリセットされる、本当にそうかも知れません。いよいよ、その瞬間が近づいています。
    (了)