掌編小説「雪葬」

 おいしいパン屋さんがある街に住みたいと思っていた。 それを伝えると、クールな店主は、少し動揺して、そのことにはなにも触れず、他の話をした。
        ×        ×
 初めてその店を訪れたのは、私が独身の頃だから、少なくとも10年以上は前になる。仕事に行く道すがら、パン屋があることに気付いた。 同じ市内とはいえ、当時の私の家は市の西部、その店は東部にあったから、パン屋ができていることに気付かなかったのだ。 パンが好きなので、近郊のパン屋の味はすべてチェックしていた。  
 私にとってパンの味は、食パンが基準になる。 耳がパリッとして、中の生地は上品なキメの細かさ、焼くとバターがすっとのってしみこむ。ああ、本物だ、と思った。 専門店に挽いてもらったコーヒーとよく合う。 運良く焼きたてに出合ったら、そのままちぎって食べた。 それまで数あるパン屋さんを巡っては、味を確かめることを密かな喜びとしていたが、その店は、私のお気に入りのベスト2のうちのひとつになった。

 それからしばらくして私は結婚し、偶然にもそのパン屋さんの近くの団地に住む事になったのである。  
 冒頭の会話は、その時に交わした会話である。
 ある日パン屋に行くと、保育園の案内パンフが置いてあった。小さな子どもを連れていた私は、その保育園について尋ねた。
 その会話の中で、さりげなく、本当にさりげなく、自分の子どもに障害があったこと、それも重度であることを話された。そして、離婚していることも、さらりと言われた。

 いつも店主は、ひとりでパンを焼いていた。
 仕込み、こねて、ねかせて、焼いて。その味は確かでいつも狂いがなかった。  
 店は、店主一人できりもりしている。
 たまにレジにパートさんがいたが、パンをつくる行程は、あくまで一人で作業しているようだった。 あまりに忙しそうなので、助手を雇えばいいのに・・・と思うその言葉をぐっと飲み込んだ。
 職人の頑なさは、弟子を拒んでいるようにも見えた。
 
 12月31日まで営業、正月は3日から。何故かと聞くと、31日に、いつも決まって訪れるお坊さんがいるので、その人の為に店を開けているのだという。また、パンをおいしく食べられるのは2日ほど。大晦日に買ってもらったパンがもつのはせいぜい1月2日まで。1月3日には、パン党のお客の為に店を開くのだと。

 更なる高みを求めて、ドイツのある高名なパン職人が来日した際は、東京まで行き、教えを乞うた。 総菜パン、おやつパンは殆ど置かず、味で勝負の横文字のパンたち。万人受けするメロンパンやホットドック、ドーナツや揚げパンを焼けば、店はもっと繁盛するはずだった。
 しかし店主はいつもひとりで、もっと崇高な山の頂上を目指していた。きっと、険しい山だったに違いない。
 
 店主はお客と話をしていても、けっして話し過ぎることはなかった。でもまったく話さないでもなかった。私は名乗った覚えはなかったのだが、きっと自分で何かの拍子に言ったのだろう、ちゃんと名前を知っていた。息子の名前も、娘の名前も、一度で覚えてくれて、訪れると気のいいお兄さんといった風で、いつも名前で呼んでくれた。 私の名前はもちろん、私の友だちの名前も知っていた。店にはたまにしか行かない人なのにも関わらず、話しているうちにふと話題に出てきて、その人のこともよく記憶していたので驚いた。

 しばらくして、店はドイツの新聞に紹介された。ドイツ釜で焼くこだわりのパンが評判になって、ドイツ紙の記者が取材に来たのだった。しかしそのような出来事があろうとも、店主は決して、おごり高ぶるようなことはなかった。自分はたいした人間じゃない、と頭を横に振るのだった。パンの味を褒めても、いつも心から謙遜した。
 褒められる事を拒む、まるで自分自身の過去への懺悔のようであった。

 店主さんへ
 いつも、ありがとうございます。   
 ぼくは、店主さんのことが大好きです。 いつも、ぼくのことをやさしくしてくれて、うれしいです。
 ぼくは、お店のパンがすごくおいしいと、毎日、おもっていました。   
 ぼくは、店主さんがなくなって、ほんとうに、悲しいです。
  もう、お店のパンをにどと、食べられないと思ったら、ざんねんです。   
 毎日本当にありがとうございました。(店主さんの絵と食パンの絵)
   
 店主様   店主さんがこの世におられないなんて、まだ信じられません。
 あの、42年ぶりの大雪が街に降り積もったあの日、私は発熱で床に伏しておりました。思えばここ1か月、体調が思わしくなくて、お店へ行けなかったのが本当に悔やまれます。 友人からの一報にも 「まさか」 なにかの間違いに決まってる・・・
 この目でお店のシャッターの貼り紙 これを見るまでは、信じられなかったし、信じたくもなかったのです。   
 月に数回、ほんの半斤のパンを買いに行く私に「少しずつ買いに来てくれて、焼きたての新鮮なパンを食べてもらうのが、一番嬉しいんです」と言ってくださいました。  
 店の奥で、こだわりのパンを焼く店主さんの姿を見るのも好きでしたし(忙しい中、私が来店していることは気付いてみえた)、たまに一言、二言会話するほんの2、3分が私にとっての癒しでした。
 家族の事、悩み、不安、いつも真面目に明るく応えてくださって、励まされてばかりでした。息子が試食のパンを何度も口に運ぶのを見ても、嫌なお顔ひとつなさらず、優しかった。
 お声が、いまもまざまざと耳に甦ります。   
 あのパンは、もう食べられないのですね。  
 お葬式に行きたかった、
 行けなくてごめんなさい。

 いろいろな会話を思い出しますが、私にとって人生最大の絶望と不安の中で迎えた第2子出産の前に、「足首を冷やしちゃダメですよ。足首を暖めてね」   
 あのお言葉が、涙が出る程嬉しかったんです。きっと店主さんは、お客さんをいっぱい励まして、おいしいパンと元気を与えてくれていたんでしょうね。   
 ご自身の事は殆ど話されませんでしたが、なんとなく想像するに悲しみを抱えて地獄も見て来られたようにお見受けしておりました。
 そんな方だから、お仕事に対する気持ち、姿勢が他とは比べ物になりませんでした。お客たちはみんなそこに惚れてついてきたんです。  

 店の前の貼り紙を見て、居合わせた見ず知らずのお客さんと泣きました。
 隣の呉服屋さんで、詳細も聞きました。  
 ぜんそくの持病があって、毎日咳き込んで吸引してからお仕事されていた事、あの日の猛烈な寒さで呼吸が苦しくなって倒れ、出勤してきたパートさんに発見されて救急車を呼んで、病院に向かう途中でもう息があったかないかだったって・・・。
  
 舞台の上で死にたいと願う役者のように、最後の最後まで立派にお仕事されました。   
 どこに住んで居られたかも分からなかったので、息子と書いた、このあてのないお手紙をお店のポストへ入れておきます。   
 あなたの命を賭けたパン、
 いつまでも忘れません。

 いままで 本当に ありがとう                  (完)     

特集『4000字小説』「黄泉の雫」

1 ふらり、ふたり
「先生、ノドが痛いんです」
「桔梗湯を飲んでみて下さい。漢方ですから授乳に影響はありませんよ」
「首と肩と背中が痛くて」
「それなら葛根湯がいいですよ。おっぱいもよく出るようになります」
「この暑さと体調の悪さで、外出が難しいんです。薬の配達はやってませんか」
「いいですよ、家内に持たせましょう。ところで・・・メンタルの方は大丈夫ですか」
「・・・。花を見て、涙が出るんです」

 大輪のアサガオが咲いた。ここ二週間程花が咲いておらず、もう終わりかな、と思っていた。ところが、夏休みが終わりアサガオの鉢を小学校に持ってくるように、というお知らせのプリントを息子にもらい、この夏私を癒してくれていたアサガオといよいよお別れ、という前日の朝に、見事な花を咲かせた。まるで、最後のお別れを言うかのように、大きな花をつけてくれたのである。
 今日でこのアサガオが我が家からいなくなると思うと、無性に淋しくなる。花をここまで愛おしいと思ったのは初めての経験である。リビングの窓のすぐ外に鉢を置いて、ソファに座り、赤ん坊におっぱいを与え続けながら、来る日も来る日も花と細長くねじれたつぼみを見ていた。まだすわらない小さくてやわらかい頭蓋骨を支えながら、命の雫である母乳をひたすらに吸わせ、その花びらを、葉を、つるを、焦点の定まらない目でずっと見ていた。
 私の魂は甦ったばかりで、懐の赤ん坊もまた、向こうの世界からこちらの世界へとやってきたばかりである。そんなあやうい二人が、真夜中の闇の中で、または夜と朝との間に、南国のようにむせぶ灼熱の昼間に、私達はあっちへ、こっちへ漂ったりしながら、かろうじて生きながらえていた。
 あぁ今年の夏は記録的な暑さに加え、セミの鳴き声が耳に共鳴してどうにかなりそうだ。うねうねと太くて大人の中指程もある虫が、葉をむしゃむしゃと食べている、助けてやらなくては。
 夜中の授乳時はソフトクリームのように細長い渦を巻いたつぼみがもうすぐ開くのだと、希望を見ていた。早朝まだ誰も起きていない静かな薄明かりの中で、見事に開花したいちりんを眺めていた。この花も、夕方にはしおれてしまう一日限りの運命だと思うと、その終焉のなれの果てまで見届けるのが、この花へ手向けるせめてもの感謝の気持ちだと思った。
 猛暑の中、けなげに熱風に耐えながら咲き続けるその姿に頑張れと心の中で声援を送り、台風が来そうだとニュースが伝えれば、鉢が倒れてやしないかと、寝ていても心配であった。少しの外出にも困難を伴う幼子と私は、アサガオと共に、この記録的な酷暑の夏を古ぼけた家に閉じ込もり生きていた。そこは鍵のない牢であった。

2 拝啓 あなたへ 
 妊婦の抱える不安というのは経験した者でないと分からないかも知れません。赤ちゃんに手足があるか、心臓は動いているか、脳は形成されているか、あまりにも小さすぎて、これ程医学が発達した現在でも、いざ産まれるまでは、お医者様でもある程度のことまでしか分からないのです。産まれてからわかることだってたくさんあります。
 それに、自分ではどうにもならない出産。人間をこの世に産み出すという行為そのものが、神懸かり的なものです。巨大な波がやってきて、己の体が己でコントロールできなくなっていく。激痛の現実と朦朧とした意識との狭間で、もうやめたいと思っても、産まなければ終わらせることはできないのです。その瞬間は運を、人生を、命を、すべてを賭けないと成し遂げられないのです。
 明日入院する事に決まりました、と告げると、息子のピアノの先生が、お母さんに弾いてあげたい曲があるんです、といってピアノを弾いて下さいました。
 そのノクターンの調べは、いままで聴いたことのないものでした。
 ショパンのノクターン、誰もがどこかで耳にした事がある、有名な曲です。私にとって、ただのバックミュージックでしかなかったこの曲が、これほどの感動を自分の心に呼び起こすとは驚きでした。
 思えば、お腹に我が子を宿し、明日にでも新しい命がこの世に誕生する喜びの瞬間が訪れようとしているというのに、暗い、真っ暗闇のトンネルの中にいました。
 ここには書ききれませんが、産む環境が整わないというのでしょうか。入院中の上の子の預け先が決まらない、預かりを頼んだ身内に断られ、たった一週間の事なのになんて冷酷なんだろうと父親を恨み、体調を気遣う電話の一本もなく、頼みの母親ですら駆けつけてもくれないという最後の裏切りに遭い、この世に生きていても親などいないと同然、気持ちを許せばいつも傷つくだけと身を掻きむしり、もうこの世にいない夫の両親の方がよっぽど潔い、良い思い出ばかり残るから、こんなことならやっぱり子どもなど作るんじゃなかったと。自分の妊娠を後悔する、これ以上の悲しい事がありますか。
 何故、あなたはこんな家に産まれてこようとしているの? もっとマシな家が世間には沢山あって、それなのに子どもを授からずにいる。
 なんとなく、今回は死ぬような気がしていました。お産の堪え難い苦痛を二度も乗り越えられない、自分には。
 そして、いえもうこれ以上書きません。
 ノクターンは、悲しみの向こう側に私を連れて行ってくれました。究極の悲しみと究極の喜びの到達する所へ。
 両者は同じなのです。もう、私は超えたのです。ノクターンを聴きながら、涙が、溢れ出て仕方ありませんでした。暗い世界から、私の魂は黄金色の麦畑のように輝く広い場所に誘われました。私の葬送曲にも聴こえましたし、きっと天国に流れているであろう曲のようにも感じられました。私がもし死んだら、この曲を流してほしい。きっと天国に行けるような気がします。
 病院に向かう車の中でも、ノクターンをずっと聴いていました。
 こんな日にも仕事を休めない夫は、涙を堪えて不安そうに病院に入っていく私を一体どんな気持ちで見送ったのでしょうか。

3 ノクターン(夜想曲)
 そこは、県内で一番大きな総合病院でした。
 ふんわりしたピンク色の産婦人科病棟は、新しい命が産まれる場所です。でも一方で、命が消えゆく場所でもあるのです。
 陣痛は来ていないけれど、陣痛室と呼ばれる部屋に通されました。カーテンだけで仕切られた部屋にベッドが三つ。一人、先客がいます。お腹を見るとまだ小さく見えました。出産予定日前ですが、大事をとって入院されている方だそうです。
 ベッドに横たわり、体温と血圧を測り、お腹にベルトをします。赤ちゃんに異変がないか、心音を調べるものです。頭の上には大きな機械。緊急の場合にここで手術をすることができるのだそうです。
 同意書を書いて、陣痛促進剤を一粒渡されました。予定日を過ぎてまだ三日ですが、赤ちゃんが大きいのと、医療体制が手薄になる連休に入る前に出産したほうがいい、という医師のすすめで、計画的な入院となったわけです。
 その担当医師といえば歳は三十くらい、痩せ形の長身で二重まぶたのイケメン、育ちの良さは話していてすぐに分かりました。優しくて、話しやすくて、聞くところによると腕も確か、本当に申し分のない方なのですが、産婦人科の女性しかいない患者からは大層嫌われていました。
 特に、年配の女性から、あの先生だけは嫌! と。それは彼が若くてイケメンであるからに他なりません。女性はいくつになっても女性なのです。後からその事を私の実母に話すと「若くてイケメンなんて絶対に嫌だわ。そんな先生に見られるくらいなら、子宮がんになって死んだ方がいい」とまで言い放ったのでした。
 世の中には、イケメンが得をしない職業もあるのですね。産婦人科に限っては、枯れたおじいちゃん先生が好まれます。
 女は信じられないくらい大きく膨らんだお腹を抱えて(我が身ながら目を疑います)、仕事を諦め、お洒落も諦め、アルコールも断ち、塩分も断ち、ホルモンの変化の影響で黒ずんだ皮膚と増えた顔の肝班、浮腫んだ足首にため息をついて、イケメンにすべてをさらけ出すという恥辱をすべて飲み込んで、我が子を産み落とすのです。
 母と慕ったあなたから、絶交のお手紙を受け取ったのは、妊娠五カ月の時。もう、忘れます。言い訳も思い出も。
 不安なとき、迷ったとき、分からないとき、悩んだとき、いつも人生の師と仰ぐあなたにすがってきました。
 でも結局、大事な時は一人きりだと。それに気づかせてくれたのはあなたの最後の優しさなのかも知れません。そう遠くない未来に陣痛はやってきます。女は出産によって、生まれ変わることが出来るといいます。まっさらな赤ん坊のように魂がリセットされる、本当にそうかも知れません。いよいよ、その瞬間が近づいています。
    (了)

300字小説「夕刻の神隠し」

 鞄を残し彼が消えた。私たちはおしゃべりに夢中になっていた。会話が途切れ、部屋にはヒヤリとした空気が流れた。
 家中を探したが見つからない。どこに行ったのか。そういえば、帰宅が遅くなるということを家に電話するのを、かたくなに拒んだ。
 ―駅に向かったのだ。人知れず逢う約束をしているのでは。私たちがおしゃべりに夢中になっている間に、その女に逢いに行ったのだ。彼女は大雨のなか、彼の到着をけなげに待っている。素足のサンダルからのぞく赤いペディキュアも濡れている。
  そんなことを考えているとドアが開いた。
「この辺りは花霞って言うんだろ。霞の裏を見てきたのさ」
 会が終わり、私は彼との秘密の場所であるジャズバーに向かった。

エッセイ 「ババーンっていうピアノ」

 音の少ない場所に住んでいる。
 ここは30年程前に山を造成して造られた住宅地で、いまは住民の高齢化が進んだ。子供たちは成人して家を出ていき、もはや都会で暮らしていて、いつ帰ってくるか知れない。運良く息子や娘が結婚等で戻ってきても、若い者は昼間仕事に出て行く。嫁の方も義父母とずっと顔を突き合わせているのに耐えきれず、幼子をいそいそと保育園に預けて、パートに出ている。
 数少ない元気な子供たちも昼間は学校へ行っている。よって、平日の昼間にこの場所に残されているのは、老人か、ひきこもりの若者か、その他心身の調子の悪い人だ。
 風が吹いて、草木が揺れる音。
 時折聞こえる小鳥たちの鳴き声。
 たまのスコール。
 それ以外、なにもない。
 車も通らない。テレビの音ももれてこない。
 景色に目をやると、遠く広大な山なみと、水位の変わらない澱んだ池が見える。

 ここに越してくるまでは、音の洪水の中にいた。
 朝は目覚まし代わりのバロック音楽で起床。
 慌ただしく身支度を整える時には、アメリカンハードロック。
 通勤電車の中でウォークマン片手にカラオケの流行歌を覚え、オフィスではつねにFMから軽快なポップスが流れていた。
 昼休みにはCDショップでお気に入りアーティストのニューアルバムをチェック。
 帰宅時にレンタルCDを借り、風呂でもラジオを鳴らし、寝る直前までバラードかヒーリングミュージックを聴いている、といった具合。
 ドライブに連れていってくれる人が、自分よりも音のアンテナが鋭い人だと、嬉しくなる。
 初めて聴く曲、知らないアーティスト。曲目、名前、そのバックグラウンド。
 会話がはずむ。
 音の好みが同じか、重なっていると、仲良くなれる。
 窓に流れる景色とバックミュージックが一体となって、永遠に忘れられない記憶となって、刻まれる。
 逆に音楽に無頓着で、安っぽい流行歌ばかりかけていると、がっかりだ。
 嫌な曲を延々聴いているのにも我慢が必要だ。
 だんだんとこっちの機嫌が悪くなって、帰りたくなる。
 大抵の場合、それっきり。
 好きな人に自分のお気に入りの曲をいっぱい入れたMDをプレゼントしたことがある。
 これが私だと、アピールして、喜んでいた。

 音の洪水に溺れていた。
 でも無音だと、落ち着かない、音ジャンキー。
 うまれたての赤ん坊に、延々とテレビやステレオの音を聴かせ続けるのは良くないという。
 では人生最初に与える音楽は、なにがふさわしいか。
 赤ちゃんにはクラシックから与え、童謡、だんだんと親の意向が入ってきて英語のうた、黒人のようなリズム感を養うためにブルーズなど、徐々に俗世の音に慣れさせていく。二時間以上聴かせ続けてはいけないともきく。
 親になった自分は、おかげでほぼ無音の世界へと住処をかえた。
 最初は戸惑い、音楽中毒から抜け出すために、リハビリセンターに入院したような窮屈さがあったが、時計のコチコチ動く音をきき、青空に浮かぶ真っ白な洗濯物がパタパタいうのを眺めいてると、太陽の位置、雲の流れが自然と目に入り、深い静寂のなかで精神が統一され、まるで無の世界が垣間見えるかのようだ。

 子どもが、音楽教室に通うことになった。
 親に似て音楽が好きなようで、暇さえあればピアノを弾く真似をしながら歌い、踊っている。
 一度、幼児音楽体験教室に行ってからというもの、ピアノやさん(音楽教室)に行く、といってきかない。
 とはいっても、最初は親と一緒に、音楽に合わせて歌ったりするだけ。鍵盤で弾くことを教わるのはずいぶん後のことであり、楽器は当分必要ないと思っていた。後々、中古のエレクトーンか、安い電子ピアノで足りるだろうと、たかをくくっていたのだ。
 なにかのついでに楽器屋さんに立ち寄ったら、電子ピアノと、ピアノが多数並んでいて、それらをキャッキャ言いながらジャジャーンと鳴らし、「僕、コレにする」という。
 よりによって、触れるのも躊躇するような、その店で一番立派なピアノを気に入ったようである。ソデを引っ張って、あわてて店を後にした。
 次に、デパートの中に入っている楽器屋に寄ったときのこと。そこは電子ピアノが数台あるのみであった。
 そのすべてを鳴らして「絶対にコレがいい」と選んだのは、ピンキリある電子ピアノの中でも、本物のアコースティックピアノと変わらない音が出るという、最高のものであった。
  「あれはどう?」(ちなみに最安値)
と聞くと、
「だって、あれはババーンっていわないから。ババーンていうのがいいの」
 子どもが欲しがっている電子ピアノのお金を出せば、本物のアコースティックピアノの中古が買える。電子ピアノは場所をとらないし、リーズナブルなのがいいところ。内心、電子ピアノの購入を考えていた。ただし本物のピアノではない。ピアノの音が出るが、それは録音されたピアノの音を、高度な技術でスピーカーから電気的に出しているのである。
 ピアノと聞いてみなさんが想像するアコースティックピアノは、弦と胸板が響いて、その人それぞれの音となる。まぎれもなく、本物のピアノだ。
 「でも僕本当はおっきいピアノがいいんだよね。コレか、コレ」
 チラシにあるアコースティックピアノ(アップライト)とグランドピアノを指差している。
 「こんなの買えないわ。高いから」
 「じゃあサンタさんに、ピアノが欲しいですって、お手紙を書く」
 「ピアノは大き過ぎてサンタさんの袋に入らないから、無理だと思うよ」と、やんわりと期待をくじいておいたのだが・・・。
 帰宅して、再度確認すると、エレクトーンや電子ピアノは嫌だというのだ。
 人に相談すると、皆一様にアコースティックピアノ賛歌。「絶対に、ピアノの方が音感が良くなる」「電子だと和音の聞き分けが弱くなる」「音の違いが分かるなら、なおさらピアノを与えるべき」という意見で一致した。
 このピアノ包囲網には参った。
 こちとら別に、子どもを音楽家にしたいわけではない。 四歳のしかも男の子、音楽教室だっていつまで続くか・・・。
 しかし、本当はピアノがいいということは分かっている。弦楽器の中で、ピアノが一番好きだった。本当は、ピアノが欲しい。子どもも欲しがっている。
 ピアノを8年間習っていた。
 それでは私はなぜ、ピアノを持っていないのか。
 気づいたときには、家にエレクトーンがあった。ではなぜピアノではなく、エレクトーンが与えられたのか。
 考えれば考えるほど、長い間、かさぶたの下にあったうずきのようなものを自覚するのである。
 内気だった私は、ピアノが欲しいと、母に言ったか、言わなかったか。
 幼なじみで近所のえりちゃんの家にはピアノがあった。
 一緒にピアノを習っていたのに、えりちゃんの方が数段上手だった。
 記憶をひもとくと、まぎれもなくピアノが欲しかった。
 母は、それを知っていただろう。
 それでは子どもの音感にピアノがいいということを、知らなかったのだろうか。
 真相を確かめるべく、母を問いただした。
 すると、「エレクトーン? うちにはエレクトーンなんてなかったわよ」
 と、驚くべき答えが返ってきたのである。
 「それでは、私は8年間、家でなにを弾いていたの」
 「ピアノでしょう。でもあんたはほとんど練習しなかったわ」
 それは私にとって、衝撃であった。
 ほとんど練習しなかったのは、本当である。しかし、私はまぎれもなくエレクトーンで、イヤイヤ8年間練習していた。
 ピアノが与えられたのは妹の方で、私がピアノを辞めた後、親戚からもらったのである。
 母は、私のエレクトーンとともに歩んだ8年間を、見事に記憶から、消し去っていた。その無関心ぶりといおうか、それでは練習する気もなくなるわと思いながら、一方で仮にピアノが与えられていたとしても、その後の人生が変わったことはなかっただろうなと思うのだ。

 クルマという狭い空間の中では、必然的にひとつの音楽を共有する。
 夫と私と子ども、それぞれ好きな音は違う。
 しかし「この音楽は一人では聴く気になれないけれど、夫と一緒に聴きたい」というもの。「子どもが喜ぶからこの曲を一緒に聴きたい」など。ひとりでなく、みんなが気持ちよくなれる曲というものが、存在する事を知った。自分の中で、新たなジャンルを誕生させたともいえる。
 色とりどりの音の洪水に巻き込まれながら、トランスしていた自分。その後足を踏み入れた静寂の世界。どちらも心地良く、ずっとそこにいても良かった。でも、いつまでも無音の世界の住人ではいられない。草木が成長していくように、一歩ずつ、歩みを進めていく。歳月を経て、歳をとり、心も体も、人は変わっていく。それを受け入れられるようになった、いまのわたしだ。
  
 
 紆余曲折あって、中古のピアノが家に来ることになった。
 昭和55年式だという。ちょうど、私が欲しかった頃のピアノだろうか。
 弾いてみると、あの頃のイメージ通りの音がする。数十年の時を経て、私の手元にやってきた、決して若くはないピアノ。それでも子どもは喜んでいる。 
 静かすぎるご近所に、「ピアノを入れますので、ご迷惑をお掛けします」 と、ご挨拶に行かなくては。