「大正琴と共に」 牧すすむ

「ハーイ、皆さん、ストップ、ストップですよ」
 教室に鳴り響く合奏の音に私の声が割って入る。楽器は大正琴だ。
「皆さんは自分の琴の音の狂いに気が付きませんか? 調弦をもう一度やり直して下さい」
 私の声に生徒達はそれぞれ調弦機を手に弦を弾く。
 ギターやバイオリン等の弦楽器は使う前や時間の経過、温度や湿度の様子を見て時々調弦し直すことが必要であり、大正琴も弦楽器なので例外ではない。
 昔は音叉(おんさ)という、U字型の磁石に柄を付けたような形の物を何かに打ち当て、その振動で発する音に合わせたり、調子笛という小指サイズの笛を吹いて合わせていた。でも今は針の動きで合わせられるチューナーに変わり、初心者でも簡単に調弦が出来るようになった。更に携帯にその機能を持たせた物まであり手軽さは格別。便利さにただ感謝である。
「では合わせてみましょうね」
 調弦をし終えた琴を一斉に鳴らしお互いの音を聞き合う。今度はOKだ。さっきとは全く違う澄んだ音色が辺りを包み、本来の魅力を取り戻した大正琴達が美しいハーモニーを奏で始め私の心をどこまでも続く夢の世界へと誘って行く。

 大正琴の指導を始めて早や四十五年余り。数えきれない程の生徒達に出会った。その中で楽器は音色だという基本を教え続けてきた。おかげで他所(よそ)様からも「貴方の会の演奏は音が綺麗でステキですね」とお褒めの言葉を頂いている。それは私にとって最高の宝物である。
 元々、若い頃クラシックギターを弾いていた私は、その当時に培った弦の音色が今も耳の奥に染み付いている。楽器が変わってもこの耳が求めるものは同じでありこれこそが私の音楽の源なのだと改めて思ったりもする。
 人に教えるだけでなく、その信念を持って私自身も国の内外を問わず数々の舞台でソロ演奏や息子との二人弾きを続けてきた。広いホールの隅々にまで自分の指から流れ出す大正琴の音が響き渡り、その瞬間に呼吸が止まったかのように静まり返る客席との攻防が、私の心を熱く燃えさせてくれる。正に戦いだ。
 それはそれとして、幸せなことに教室でも音色についての質問は多く有り生徒達にも私の思いは確かに伝わっている。真似しようとひた向きに努力する姿勢は眩しい程に私を照らしてくれる。
「頑張ってね」と心の中でエールの声を掛ける毎日に笑顔は絶えることがない。

 ここで大正琴について少し説明をさせて頂くことにしよう。この楽器はその名の通り大正元年に名古屋の大須で産声を上げた。つまり今年で百十四歳になります。森田吾郎という人が海外で目にした様々な楽器や音楽は凡そ日本とは掛け離れたものだった。誰もが気軽に楽器を手にし、国中に歌や踊りが溢れていた。日本での芸事習い事と言えば上流階級の人達のするものと限られ、庶民には高嶺の花でしかなかった。
 帰国後すぐ彼は日本の文化の遅れを取り戻そうとアイデアを凝らし、小型の和琴である一弦琴にタイプライターのキーを組み合わせた楽器、つまり大正琴を完成させたのです。そしてそれを世に出すと、安価な上に誰でも簡単に弾くことが出来、軽くて持ち運びも楽とのことで一大ブームを巻き起こし、庶民の娯楽に不可欠な逸品となりました。
 その人気ぶりは国内だけに留まらずアジア各国にも盛んに輸出され、名前こそ違うけれどその名残を留める楽器に出会う度に思わず見入ってしまうのです。

 そんな大正琴故に、携わる者としてこの楽器の全てを愛しみ一人でも多くの人達に親しんでもらい、掛け替えの無い日本発祥の音楽文化を後世に繋ぎたいとの思いで日々生徒達と共に精進を重ねている私です。
 楽器の音は、歌は、全てが音色。この先も大好きな大正琴と共にどこまでも音色にこだわり続けていきたいと心から願う毎日です。(完)

「二元論~裏が表で表が裏で」 伊吹

 クルマが壊れた。とうとう。水漏れのチューブを直し、ワイパーのゴムを取り換え、バックライトを交換し、車検も自分で自動車検査場行って、書類を提出して、国土交通省のお役人の前で、排気ガスやブレーキやヘッドライトの検査などをクリアして通した。ユーザー車検ってやつだ。
 費用はクルマ屋さんの見積もりの10分の1ほどで済んだ。夫婦で歓喜して喜び「車検通っておめでとう」たまにはいいよね、と鰻を食べて祝った。
 そのわずか1カ月後、7万円の純正バッテリーが換えてわずか1年半でおじゃん。挙句の果てに、高速のトンネルの中でクルマが止まるという不測の事態に見舞われ、レッカー移動(人生で初めてレッカー車に乗った)、その会社が悪徳レッカーだったりと踏んだり蹴ったりの最悪のパターン。
 故障は、頭脳部分のコンピューターで、50万を超える見積もりが出て、愛車とさようなら、突然のお別れ。古いクルマを大事に、節約して乗ることに大きな価値を見出していたのだが、それが良かったか悪かったか。

 それから約2カ月、クルマなしの生活に耐え、やっとこさ来てくれたクルマを森蔵(モリゾー)と名付けた。※名前の由来は割愛させていただく
 中古の森蔵よ。よくぞ来てくれたありがとうね、と気持ちを伝えたところ、森蔵は「走りは俺に任せろ。お前は正しい運転をするだけでいい」と言った。
 中学生の娘は、森蔵はなんか弟感あるんだよねーと、気にいったようす。でも車内が新車のような匂いがして乗り物酔いしそうだから、お母さんが大好きなたこ焼きを車内で食べてあの匂いを消してほしいという。よしきた、車内でたこ焼きを食べるぞ。
 ところが、来たばかりのクルマの中でたこ焼きを食べると匂いが付くから食べてほしくないと主人がいう。食べるか、食べざるべきか。どっちでもいい。どちらも正解、両方に価値がある。
 知覚過敏の主人と息子の歯ブラシは「やわらかめ」、スッキリきれいにしっかり磨きたい私の歯ブラシは「かため」、その中間の磨き心地がいい娘の歯ブラシは「ふつう」。そのどのこだわりにも価値がある。
 右と左、大きい小さい、好きと嫌い。
 私はこっちの方がいいと思うんだけどな、と内心思っても、クライアントのいうようにハイハイ作ります。
 結果的に、どっちが良かったかなんて、わからない。わからなくていい。変なこだわりは、さっさと捨てる。
 S極N極、どちらかに寄ると、偏った人になる。生きづらくなる。だからできれば中間にいたい。SにもNにも両方同等の価値があるから、寄りたきゃ依ればいい。それはそれでポリシーのある生き方でかっこいいといえる。それがこだわり。
 いい、悪い、善と悪。みんなで寄ってたかって叩くワイドショー、年数経ってみれば、悪人が善人だったり。信用していた人が信じられないくらいトホホな奴だったりする。
 一見良いと思えることも、前述のクルマの件みたく後でアレレということにもなりまして。

 ―もっと早くクルマを手放すタイミングはあった。車検の前に買取業者で見積もりとったら、40万で買い取ると言われたっけな。でも頭脳が壊れたらゼロ査定になった。後のまつりだね―

 あなたと結婚していいこともあったな。寝るときも淋しい夜は一日もなくなったし、かわいい息子と娘を授かった。でもそれと同等か、それ以上の苦しみも味わったな。
 不肖の父とは今も音信不通だけど、おかげで父はいないものとしてたくましく育ち、血のつながりのない父親のような方たちに、かわいがってもらえている。そして、冷たい両親のおかげで、期待をしない、甘えない、あきらめることを身をもって学んだな。
 白と黒は陰と陽の両面あって、その境界線はぼやけているんだね。それを理解すると、すべての人、モノ、出来事に価値があると気付く。
 ああ、今朝も起きたら、森蔵が家のガレージにいてくれる。今日も森蔵に乗れる。うれしいたのしい。自由に動く手足がある。顔を触ると、いつも通りつるつるしていて健康だ。本当にありがたいね。すべてにありがとう。(了)

「あぁ~能登半島」 伊神権太

 何にこだわっているのか? こう問われたら。私の場合、何だろう。こだわりと言えるかどうか。少し違うかもしれないが、だ。私がこれまでにしてきた趣味もこだわりのひとつかもしれない。社交ダンスにハモニカ、横笛の演奏、端唄、小唄そして都々逸の吟詠、朗詠など数限りない。ほかに小学生の頃に漫画の〝いがぐりくん〟に憧れ、中学の頃からずっと大学時代まで続けた柔道一直線にも、こだわったといえば、こだわり続けたか。おかげで大学在学中に講道館柔道三段を取得。オールミッション柔道大会では優秀選手賞にも輝いた。

 では、今現在の私のなかでの本物のこだわりとは、何だろうか。やはり、一歩進んだ「執着」となれば能登半島への熱き思いにほかならない。そして。なぜ? と問われれば、だ。2年前にその能登半島で大きな地震が起き、これに追い討ちをかけて能登豪雨水害までが発生。私たち家族が大好きだった能登半島の至る所で多くの人々が家族の命を奪われ、家屋が全壊や半壊。それどころか、津波がおき、和倉温泉や千枚田が壊滅状態になるまでに被災。朝市で知られた輪島が焼失、海女さんらの大切な漁場だった海の海底が4㍍も隆起、さらには液状化現象など……自然をはじめ家屋が、人々の心という心までが傷ついたからである。
 私は、かつて新聞記者として家族もろとも5人、それに飼い猫のてまり(てまりに関わる小説「てまり」は日本ペンクラブの電子文藝館=https://bungeikan.japanpen.or.jp=でも収録)。そしてうさぎの〝ドラえもん〟も加えれば7人家族で、かの地・能登半島に7年間、住んでいたのである。だから。「能登半島のことはもう忘れなさい」と言われたところで忘れるわけにはいかない。忘れられないのだ。事実、石川国体では、当時七尾高校生だった長男がボートの部に出場、新聞にまで掲載された話も今となっては家族の貴重な思い出である。

 そして。このこだわりを増幅させるものといえば、だ。それまでの勤務地・空港担当記者として全国各地の事件、災害現場を飛んで回った空飛ぶ記者(小牧通信局)から能登半島・七尾支局長に転任するに当たり「能登七尾・和倉温泉の三尺玉花火が台船提供者の非協力で危機に陥っている。なんとか君の突破力で三尺玉花火を再生してほしい。これは社長(加藤巳一郎さん)命令だ」との社命を受け、決死の覚悟をして乗り込んだ。そんな思いが今も脳裏に強い映像となって焼き付いて離れないからである。

 転任に当たって妻たつ江(伊神舞子)が私の代筆として新任地・七尾で書いた挨拶状は以下のような内容だった。
――秋立つ夏の日。私たちは半島の土を踏みしめました。小牧在任中は、多くの皆さまに助けられ感謝感激です。/汽車の窓に広がる鉄のようなさめた深緑。車に向かい手をふる能登の子ら。透き透る日本海……能登の初印象は、清れつさと優しさ。そして美しさ。今は家族五人の胸が大きく高鳴ってもいます。/私にとっての七尾行。社に入り、それは七度目の新天地です。小牧では〝空飛ぶ記者〟として七年いました。ことしの和倉温泉中日花火大会はくしくも七回目、すべて七づくしのスタートとなりました。/これからは能登の人たちはじめ、この土地の自然、風土、文化をこよなく愛し、がんばります。まずは着任のごあいさつまで。

 早いもので、あれから40年近い。今は亡き妻は七尾在任時には北陸本社の田村代表から社始まって以来初の「内助の功」賞まで受け、涙にくれもした。私は、その後、大垣、大津、一宮、名古屋本社特報・サンデー版デスク長……と各地を転々と流れ流れて。定年後はドラゴンズ公式ファンクラブの1スタッフとして、同僚らと中日スポーツ紙面にファンのコーナー・ファンクラブ通信の欄を手がけ幸い、このコーナーは存続。今に至るのである。

 こだわりといって良いのか。能登半島地震が起きて一年後。私は友人の牧すすむさん=琴伝流大正琴弦洲会会主で大師範。作曲家で詩人。「熱砂」同人=と能登半島地震復興応援歌【能登の明かり(岡ゆう子さん歌、安本和秋さん編曲)】をつくった。というわけで、今は少しでも多くの人々にこの歌を歌って頂けたらと日々願っている。これも、こだわりのひとつ、だといえよう。(完)

「シール箱の中」 黒宮涼

 最近、私と同年代の人たちの間で、大人のシール帳というものが流行っているらしい。友人同士でシールを交換したり、自分で購入して集めたり。シール用の手帳を作るのだそうだ。
 よくわからないが、シールにはレートまであるらしい。シール一枚の価値がそれぞれ違うようなのだが、実際の購入金額も含まれているのだろうか。それともその人の思い入れなどで変わってくるのだろうか。
 とにかく、ユーチューバーが楽しそうにシール交換をする動画をみていて、私は小さなころにシールを集めていたことを思い出していた。

 学習机の引き出しの中に、お菓子の空き箱を入れていた。その中には漫画雑誌の付録や、お菓子についてきたキャラクターシールがたくさん入っている。
 台紙つきのシールは、大きさがまばらだった。しかし、私はかまわず箱の底からシールを重ねて入れていった。長方形の箱の左側に寄せていたため、右側は空間がある。
 上にのせればのせるほど、重さでバランスが崩れて左寄せに入れていたシールも、右の空間に落ちるようになった。
 今考えると、大きさの違う紙を上にのせ続けたら、いずれは重さで崩れてしまうのは当たり前のことなのだが、当時はシールが右の空間を埋めてしまうのが、とても嫌だった。
 理由はわからない。なんとなくだったのか、揃えて入れるのが綺麗だと思ったのか。
 シールが崩れるたびにシールを箱からすべて出して、また一枚ずつ元の順番で上に重ねてのせていった。
 その作業を終えると私は満足して、その後もシールが手に入ったら上にのせていく。また同じことになることを、わかっていながらやる。
 シールの交換はしていなかったと思う。箱の中のシールはどんどん増えていった。
 箱の蓋が閉まらなくなってきたころ、また右側に崩れた。左寄せに入れなければもっとシールが入ることに気づいた私は、それまでのこだわりを捨てた。
 左とか右とか関係なく入れ始めたら、いくらか気が楽になった。いつしかその箱を開けることはなくなったが、あのシール箱はまだ引き出しの中で眠っているのだろうか。それとも処分したのか。覚えていない。
 
 今はシールを好きという気持ちはないし、シール帳を作る気はない。もし作るのであれば、また変なこだわりを持ってしまいそうだ。
 シール交換をする友人はいないし、このまま流行りが終わるまで何もしないでおこうと思う。
 
 こだわりを持つのは良いが、悪いこともある。それをわかっているからこそ、やらない、こだわらないという選択肢があっても良いのではないだろうか。(完)