「まわる」 平子純

 昨夜からの激しい雨で庭の椿の花はほとんど落ち、道に出来た沢山の水溜りに大きな雨粒が落ちる度に水の輪が出来ぐるぐると回っている。まるで自分の今の心のようだ、と健三は思った。同じ所を思いは巡るばかりで先に進めないのだ。人生には何回か、堂々巡りすることがある。彼にとっても何回目かの状態だった。まわるまわるそんな内向きのベクトルに抗しきれず人はその渦巻から脱しきれないのだ。
 海の渦に巻き込まれた船も人もどんどん水の力に沈んで行き海面に再び上がろうとするが無駄な抵抗で水中深く沈んでいく他はない。道を歩いていくと椿の花の骸から流れ出した白い花弁が水溜りでやはり円を描きながら回っている。健三が『巷に雨が降る如く我が心にも雨が降る』という詩の一節を口遊んでいると汚れ傷ついた黒猫が濡れそぼり震えながら歩いている。一瞬、健三は椿の花弁と黒猫によって奈津の躰を思い出した。真っ白な椿のような奈津の肌、汚れた心と過去、お互いの傷を嘗め合うように求めあったベッドを思った。

 健三が奈津と出会ったのは錦にあるスナックだった。取り立てて特徴のある店ではないが黒猫の飾りが店の真ん中にあり、横に白いバラの花が飾られていた。通常なら赤いバラが華やかで良いと思うのだが、ママが白が好きで店は清楚なインテリアだった。

 健三の営む工場はリーマンショック以降の不況で仕事も減り資金繰りもうまくいってはいなかった。従業員も減らしたが売り上げはますます下がり経営が行き詰まっていた。三十歳を超えた奈津は何人かの男の経験があり男関係で窮していた。二人共に、行き詰まっていたのだ。そんな時に偶然商売仲間と訪れたこのスナックで健三は奈津と出会うべくして出会った。

 男と女は呼び合うもので自然と関係が出来た。健三は奈津の虚無を感じ取り、奈津は逆に彼の心の隙間を感じ取っていた。男と女はそんな時躰を合わせることでお互いの持つ魔を埋めようとする。健三は奈津の白い肉体に沈み時に全ての憂さを忘れることが出来、奈津は健三の体が自分に入って来ることで、心の闇を埋めることが出来た。お互いの傷を嘗め合うような交合だった。そうして二人は新しい堂々巡りをするようになった。情事の深淵に落ち込んで行ったのだ。彼は奈津を抱きながら白バラが少し変色した様を想い奈津は抱かれながら健三に痩せて怯える猫を思った。行為が終わり疲れた表情を浮かべながら奈津はこう言った。

 「私達、これからどうなるのかしら」
 健三は「どうにかなるさ、世の中はいつも回っていくだろう、何があってもさ」
 移り香を通わせ奈津は「貧しくて食べれなくても人は盗んででも生きてくもんね」
 「そうさ人は死人を食ってでも生きていくさ」
 健三は、昔戦争に行った祖父を思い出し言った。彼の祖父はガダルカナル島で飢餓生活を送ったことがあったのだ。彼はそういうと再び奈津の躰に乗り両手で首を絞めようとし、一瞬戸惑い力を抜いた。
 奈津は「どうしたの、殺されてもいいわ、その代わり一緒に死んでくれる」
 薄目を開け健三を見上げるように言った。その表情がとても陰美で健三を異空間へ誘った。

 奈津も現状に疲れていた。健三は手形を落とさなければならぬ月末を逃避したかった。金が回りそうもなく、未来が開けるとは到底思えそうもなかったが、妻子や従業員や諸々のしがらみが彼を生の方向に止まらせた。そう思うと、逃げるように彼は奈津の部屋のベッドから離れた。外は変わらず大粒の雨が降っている。雨よすべてを洗い流してくれ、彼は小走りに家へと向かった。黒猫が身震いし、雨粒が零れ落ちている。
 雨粒は水溜りに大きな輪を描いていた。(完)