「忘れられない、忘れる病」 黒宮涼

 祖母が亡くなったのは、梅雨の時期だった。その日は午後から雨が降った。病院の廊下で、誰もいない時を見計らって私はこっそり泣いていた。病院の中庭の大きな木の葉は、しとしとと降る雨にあたって揺れていた。色々な覚悟をしてここに来たけれど、結局私は何かできたのだろうか。そんなことを、思っていた。
 祖母のことを思い出そうとすると、一番古い記憶は煙草を吸っている姿だ。部屋はもくもくとした煙が広がっていて、透明な瓶の中に吸い殻が何個も入っている。私はその部屋に近づくことが好きではなかった。そして祖母の事も、正直に言えば苦手だった。祖母が煙草をやめるまでは、本当に隣にいるのも嫌だったのだ。
 私は中学生の頃に、不登校になった。父も母も仕事で忙しく、一緒にいる時間が長いのは祖母と祖父だった。二階にある自室に閉じこもっていたのでまともにご飯を食べることが少なく、二階まで祖母がご飯を持ってきてくれることがあった。たまに私が一階へ降りて台所へ行くと、祖父と祖母と三人でご飯を食べた。
「おばあちゃんは、涼ちゃんが大好きだから」と母はことあるごとに言った。だから祖母は、すごく私のことを心配しているのだと。しかし私は祖母のことを好きかと問われたら、素直にそうだと言うことはできないと思う。好きなところもあったし嫌いなところもあったからだ。

 祖母の認知症の症状が現れ始めたのは、祖父が亡くなってから数か月後だったと思う。祖母が徘徊を始めたのだ。最初は普通に散歩をしているのだと思っていた。けれどある時から近所の人が、祖母が迷子になっているのを発見して家まで連れてきてくれるようになった。
 その症状に初めて深刻さを感じたのは、私が大学を中退したばかりの頃だった。一番上の姉は妊娠中で実家に帰ってきていた。姉が祖母に「何か食べたいものはあるか」と問われ、姉は「果物を食べたい」と答えた。「買ってきたるわ」と祖母が言った。
 その時は大丈夫だろうと思って、自転車に乗って買い物へ行く祖母のことを止めなかった。しかし何時間経っても一向に帰ってこない祖母を、私と姉は次第に心配をするようになった。
 そんなときに突然、電話が鳴った。
「おばあちゃん、道に迷って警察の人が保護したんだって。これから警察の人と一緒に帰ってくるらしい」と電話に出た姉が言った。
 私は驚いて目を丸くした。言葉がでなかった。どうやら祖母はスーパーに行くはずが途中で道を逸れて、スーパーからとんでもなく離れたところで通りがかりの人が見つけて、警察に連れて行ってくれたのだそうだ。
 私はその日、祖母を一人で買い物に行かせてはいけないと学んだ。もう昔のようにしっかり者の元気な祖母はいないのだと理解した。それにはショックを受けたが、私がしっかりしなきゃなと思うようになった。
 それから、私が結婚して家を出て行くまでの四年間。家族や親せきの手を借りながらも、祖母の世話はほとんど私がしていたように思う。結果的に、祖母への恩返しができたのでよかったのではないかと今は思っている。

 様々なことがあり大変な思いをしたけれど、不思議と哀しいという気持ちがない。亡くなる数週間前に私の夢に祖母が出てきて、泣きながら「ありがとう」と祖母に伝えられたからだろうか。危篤と聞いても亡くなった事実を目の当たりにしても、哀しいとだけは思わなかった。
 姉が言ってくれた言葉がある。
「おばあちゃんはきっと、幸せな気持ちで逝くことができたよ」
 その言葉を聞いて私はほっとした。私の頑張りが全部無駄ではなかったのだとそう思えた。
「そうだったらいいなぁ」と私は思って、少しだけ泣いた。 (完)