「主にみかえる花はない」 伊神 権太

<花はいろいろ 五色(ごしき)に咲けど 主(ぬし)にみかえる花はない…>
 色。いろ、と聴いてまず浮かぶのが端唄・潮来出島(いたこでじま)に出てくる日本文化ならでは、の台詞の一節である。この節回しは私がもっとも気に入ってもいる。出来たら、私をこんなふうに陰で思い慕ってくれる女性にあやかりたい、と微かな願望を抱きながら、よく社に向かったり帰宅途中なぞ、独りで寂しく道を歩いているときに、♪いたーこぉ~ でじーまあ~の まこーもーのぉ~の なかに アヤメぇ~ さくぅーとーわぁ~あ しおーらーしーい…と、潮来出島を口ずさんでいる。
 というわけで、色にもいろいろある。
 ならば、私がかつて歩いてきた土地には、どんな「色」が染みついていたのだろうか。
 地方記者として駆け出した北アルプスの玄関口・松本。安曇平から上高地方向に望み見る、空に突き立つ北アルプスの白銀の山々は、間違いなく「白」のイメージだった。次いで着任した真珠と海女さんのふるさと・伊勢志摩。ここは何といっても、あの熊野灘や英虞湾に広がる海の色、すなわち「紺碧」だろう。
 そして、当時大手建設業者との間で汚辱にまみれていた岐阜県高官の不正を追い求め、一方で根尾の里に立つ樹齢千五百年の淡墨桜の元に何度も足を運んだ岐阜。ここでは県庁汚職とか、お巡りさんの不正事件とか、長良川決壊豪雨とか、あれやこれやとあった。だから「何色でしたか」と聞かれたら、「ドス黒い血の色だ」と答えるだろう。とはいえ、そうした一方で小雨に打たれながらも、しっとりと、しかもけなげに光り輝く淡墨桜の花びらが放つ「妖しげなピンク」も大切な色として忘れられない。ほのかなピンクは、淡墨桜の再生に情熱を注がれた、あの小説家宇野千代さんがいつも胸に抱いておられた『心の色』にも通じる。桜といえば、小牧時代に家族で何度も登って見た小牧山の桜ふぶきや、名所の五条川堤が思い出される。だから小牧の色は、松本と同じで「白」そのものだ。
 次に色をその土地の風土に置き換えてみれば、七尾に代表される能登半島は土地に伝わる代名詞ともいえる<能登はやさしや 土までも>そのままで「優しさ」か。揖斐川や水門川など清らかな水の流れが自慢で松尾芭蕉ゆかりの水都・大垣といえば、やはり「清溢」の言葉が私の心の中では似合っている。最後に友との出会いと別れがなぜかしら身に染み、そのつど湖上でかぜに吹かれながら仲間うちで琵琶湖周航の唄をうたった滋賀の都・大津。ここは湖(うみ)を舞台にやはり「わかれ」の場にふさわしかった。人生いろいろの如く土地もいろいろ、色にもいろんな「いろ」があった。
 それでは冒頭の潮来出島にある歌詞<花はいろいろ…>を、<人はいろいろ…>に変えてみたらどうか。花と同じでヒトにもいろいろな人間がいる。より分かりやすく言うなら、富める人と貧しい人、恐持てとそうでない人、外交肌と実務肌、男ぎらいと女好き、酒豪に下戸、プロ野球の選手、小説家、音楽家、医師、獣医、弁護士、税理士、刑事、裁判官、学校の先生、大学教授、外勤記者、内勤記者、花屋さんと「いろいろ」をあげたら、それこそ切りがない。同じように花にも、鳥にも、ペットにも、森羅万象この世のすべてにも「いろいろ」があり、それぞれが固有の“いろ”という香を放ちつづけているのだ。花々こそ「いろ」といっても、そのままずばりの色彩感豊かな「色」を発散しているが、他の大方は目には見えないが、こころに響く「いろ」だといえようか。
 ところで最近、わが家にリボンちゃんという猫が迷い込んできた。白と黒のぶちがまじったかわいいネコちゃんである。しばらく名前がないままだったが、彼女なりの「いろ」をつけてあげなければ、との舞の思い入れから、こう名づけられた。実は、ほんものそっくりの子猫のぬいぐるみだが、これがまた表情豊か。なんともかわいらしく、一見して本物かとだまされる。舞の営むリサイクルショップの玄関先でただ丸まって寝ているだけだが、リボンちゃんならでは、の色があるのもまた偽らざる真実である。最近、わが家のかわいい生き猫、こすも・こことシロがリボンちゃんを意識しはじめ、それこそ自我の戦いが始まろうともしている。こじつけか知れないが、これだっていろいろだ。
 この世の中、とどのつまりは「いろいろ」の集合体。ただイロが濃ければ濃いほど人の心は熱くなり、そこから恋の季節がやってくる。
 <マンジュシャゲ 人恋ふごとに 朱深く>
               (伊神舞子)