「最後の夢」 真伏善人

  これまでどれだけの夢を追い、かなっただろうか。振り返ってみると空想的な願望がほとんどだったように思える。その中でかなった現実はどのようなものがあっただろう。
 まずは少年期であろう。これは本当に嬉しいことだった。
 世界大戦で家を失い、疎開先で住んだ家が、隙間だらけの小屋であった。そこで家族が必死で仕事に励み、家を新築したことである。それまで本当に惨めな思いをしていたので、嬉しさは格別であった。
 その次は義務教育を終え、社会に出てからのことである。
 ようやく手にしたギターで静かな曲を弾いていると、なぜか淋しい気持ちがこみ上げ、考えることなく旅に出た。故郷につながる中央線に乗り、長野県の松本で降り、乗り換える。見知らぬ土地に足を踏み入れ、気の向くままに街を外れて、郊外をただたださ迷っていた。いつか陽が西に傾いているのに気づき夢が覚めた。さあ、これはどこかに泊まらねばと踵を返し、道を戻る。運よく宿に泊まれたのは幸運だったからであろう。
 その後、曲がりなりにも家庭を築き、年月が経ったある日、ふと雑誌の風景写真が目に入った。こんな景色が本当にあるのかと、食い入るように見入った。大正池とある。雑に立ち残っている枯れた木々が、濃紺の水面から突き上がっている。ここはどこだろう。目をこらすと長野県の上高地とある。いてもたってもいられなかった。どうやって行けばと懸命に調べた。松本から電鉄に乗り換え、島々で降りバスに乗かえる。煙を吐いている山が見え、まもなく終点だった。午後の日差しが傾いている。まずは泊まるところをと、車窓から見えていた平屋建てへと戻り歩く。ここでも簡単に泊まれ、早い夕食をいただく。翌日は早起きだった。朝食もそこそこに宿を出る。短い坂を下りると湖畔には誰もいなかった。朝霧が立ち込める湖面には、あの枯れ木の群れが、恐るべき静かさで立っていた。身じろぎもせず見つめていると、次第に何かが身体を締め付けてくる。とても耐えられなかった。振り切るように背を向けた。敗者は朝一番の、がら空きのバスに逃げ込んだ。
 夢は夢、現実の怖さにたじろいだロマンチストだった。
 その後も懲りずに夢を追い続けてしまう。
 晴れた日に遠い山並みを眺めていると、無性に登りたくなった。そしてあの美しい山と一体になりたいと思った。近くの山から始めて、とうとうアルプスに挑戦した。憧れの槍ヶ岳にだ。わくわくと、ドキドキを胸にしながら何とか辛い勾配を登り切って、槍の穂先にたどりつく。この時ばかりの感激はいまでも胸に残っている。
 このような夢や冒険への憧れは、この後も続けてきたが、さすがに身心共に衰えを感じてくると、夢もただの夢になってしまっている。
 ここまで来て、かなえたい最後の夢がひとつだけある。
 それは先立った友人のもとへ旅立つことだ。
 その彼は後輩で、小柄でも逞しい体つきであった。言葉数は少なかったが、すぐに仲良くなっていた。その彼に、山間を流れる川での釣りに誘われ、目の覚める楽しさ、厳しさを経験させてもらったのである。道なき山奥に入ると、交互に竿を出しながら源流の美しさを楽しむ。時にはテントで夜を過ごすこともあったし、山裾にある彼の実家に寝泊まりもした。山奥の神秘さには、これからの生き方をも変えるという強さを感じたのである。
 やはり自然の中で、彼と共に過ごしたいのが夢なのだ。
 そんな彼が旅立ってから六年になろうとしている。一日たりとも忘れることのない、あの朴訥さは変わっていないだろう。 (完)