「へんつくりこもごも」
真伏善人

 もちろん蒸し暑くて不快なこともあるだろうけど、おいらのとなりに住むトリさんの機嫌が悪い。今日も目と鼻の先にある仕事場から戻ったのは日付が変わってからで、ひどい荒れようだ。聞いてみると、派遣先はおととい辛いめに遭ったばかりの所で、恐れをなしていたら案の定というより、さらに悲惨なことが待っていたという。
 この前はうす暗い地下室の塗装で、部屋は赤黒いキノコ状のものがびっしり。入るなりむわっとしたけど、なんとかこらえて作業を終えたとたん、その赤黒い頭から黄色い粘液がたらりと滲みだしてきたという。
もう気味が悪くて仕事どころじゃないと、桑原桑原で逃げ失せたのに、一日置いてまた行けというんだ。
冗談じゃねえぜと担当にいったら、派遣労働者の分際で文句をいうなと、ペンギンの足みたいな手でビンタをくらわしやがった。おれはその一発でなさけなくしゅんとしてしまって、泣く泣くあそこへ行ったのさ。
 今日はどんな場所だったと思う?まるであれだよ、あれ、ほら蟹工船ってやつさ。あんたは知んないかもしれないけど、あそこにでてくる糞壺だぜ。おどろいたことに、おととい塗装をした地下室のまた地下だったんだ。のぞいただけで思わず尻ごみしたぜ。暗いんではっきりはしなかったけど、なんか黒ずんだ大小の肉片みたいなのがあちこちに散らばっているやら、くたくたになった野菜のちぎれたやつが、ひざ下くらいの泥水にぷかりぷかりよ。とにかくいままでに嗅いだことのないひでえ悪臭。臭いってえのを通り越してなんてぇのかなあ、ああ思いだしただけでヘドがでそうだ。
 「カニコウセンノクソツボ」ってのは知んないけど聞いてみると、とんでもない所なんだ、とおいらが同情すると、トリさんは鼻をひん曲げて続けた。
 そこへ下りるには相当な覚悟というか気持ちのふんばりがいるなあと、ぐずぐずしているとうしろから早くしろと背中をど突いたやつがいた。まったく不意をくらって、ほとんどカエルが池に飛び込むような格好で着地というか着水というか、その悪臭の真っただ中に飛び込んでしまったぜ。やむなく鼻をつまんで悪臭のもとを片隅に集め、排水口を手でさぐっていると、にわかに足元の泥水がボコボコと泡立ち始めたんだ。これはなんだとあたりを見回していると、突然の轟音と同時に泥水がすごい勢いで噴きあげ、身体ごと吹っ飛ばされたんだ。それっきりさ。気が付いたらどことも知れない夜道になげだされていたよ。身体はどうしたことか、悪臭のもとたちとからみあって地面に貼りついているらしく、指の一本も動かない。このままではみっともないと、もがいているうちにまた気を失ったというわけさ。もうこりごりだね、あそこは。
 そこまでいうと、ところであんたはとても浮き浮きしているように見えるけど、本当はわしの不幸を知っていて、心のうちではよろこんでいるのとちがうんかいと、棘のあるいいかたをする。そ、そんなことはあるもんかいと口をついてでたものの、おいらはこのところ雲上にでもいるような、じつに爽快でしあわせこの上なしという気分なのだ。 なんてったって派遣先のまわりあわせにつきるね。いまのトリさんにはとても正直なことはいえないよ。今日なんかも塗装作業なんだけど、派遣先の部屋の天井、壁、床と、どれをとっても清らかで、汚れなき麗しさってのかなあ、まあ訪れるだけでしあわせを感じたね。
 そこでいったいなんの作業をせよというのよ。だからさ、おいらは弾力のある壁によりかかってクッションを楽しんでみたり、床にうつぶせになって頬ずりをしたり、ゴロゴロと寝転がってピンクの天井にニコリと笑いかけたりしていたんだ。すると、どこからともなく香水の匂いと共に、メゾソプラノのハミングが流れてくるんだよね。時おりモンシロチョウやベニシジミが舞いおりては、いずこともなく飛び去って行くのに見とれていると、作業時間は知らないうちに過ぎていったね。ソフトコーティングを終えて部屋の内を押してみたりさすったりしていると、こんどは実に綺麗な谷渡りがするんだよ。
 どうです、こんなことトリさんにいえますか?
 そうそう、おいらは〈サンズイ〉っていうんだ。トリ(酉)さんとは、ものごころがつく前から、隔てのないとなり同士で、真の一心同体なんだよ。向かって右が〈酉〉さん、左がおいらなんだ。本当の姿は、人間さまに造られた、毒にも薬にもなる美色透明のあやしい液体で、永遠の派遣労働者というところさ。
 おっと、カウンターの後ろ棚に戻されたみたい。さあトリさん、一升瓶の中で早く寝よ寝よ。  
(おわり)