「前の世界はもはやない」伊神権太

 新型コロナウイルス。コロナ禍。マスク。フェイスシール。アクリル板。三密(密閉・密集・密接)。ソーシャル・ディスタンス。パンデミック。感染爆発。医療の逼迫。崩壊。新しい生活様式。テレワーク。オンライン会議。オンライン授業。テイクアウト。ステイホーム。ロックアウト。緊急事態宣言。自宅療養。中等症患者と中等症リスク。面会謝絶。ワクチン接種。副作用。検温。消毒。換気。手洗い。手袋。
 果ては、GoToトラベルに持続時給付金、そして。ともすれば、大切なお金がポンポンと軽く扱われてしまいがちな世の中の出現。ほかに、まん延防止。うがい。自粛警察まで。思いついただけでも、これだけの言葉が氾濫。なんだか今の世は一言ひとこと言葉そのものが軽くなってしまったような。そんな気がする。

 これらの言葉は三年前には日常、あまり使われておらず、このところのコロナ禍とともに急浮上。それが一体全体、何を意味するのか。まさか令和の日常語としてここまで定着してしまうとは、思いもしなかった。ナンダカとてもモノモノしく怖くなるような数々で事実、こうした言葉は現実社会では本来あまり使われてはいなかった。それが、だ。まるで堰を切った洪水、いや濁流の如くドッと、この人間社会にあふれ出てきた。
 実際、こうした言葉の氾濫には耳を塞ぎたくさえなる。それでも現実の社会ではいつもの生活を進めていくためにも必要かつ不可欠な言葉として、その存在感は日に日に高まる。一体全体、人間社会はこの先、どこへ。どのようにして連れていかれてしまうのか。それは誰にも分からない。変わったのは別に日常語ばかりでない。新幹線も、飛行機も、豪華客船も。みな乗客が激減。生涯の思い出、宝ともなる修学旅行も中止が相次ぎ、東京はじめ各地方都市でのバスによる観光地巡り、むろん飛行機による海外旅行、新婚旅行もガクンと減った。
 そして。そんないびつな人間社会で最後の砦ともいえようか。なぜか、スポーツマンシップだけは健在で、世界中から選手が集まり、東京五輪が無観客で開かれてきたのである。かといえ、これとて聖火ランナーに始まり、各種試合とも無観客が大半という前代未聞のスポーツの祭典となり、それこそ東日本大震災からの復興のあかし復興五輪なぞとは、とても言えない結果となった。ほかに、昨春のセンバツに続く夏の甲子園の戦後初の中止やプロ野球や大相撲の再三の延期、無観客試合などもある。当然のように舞台演劇や音楽発表会といった催しまで誰しもダメージを受けたのである。
 というわけで、百年前に猛威をふるったスペイン風邪をしのぐ新型コロナウイルスという疫病がまん延し始めて、一年半以上がたつ。この間、私たちが住むこの星、地球では実に二億人以上の人びとが感染し、四百二十六万人以上が大切な命を落としたのである(八月七日現在)。考えようによってはだ。かつて広島と長崎に投下された原爆にも似た不幸の連鎖が新しく進行中なのである。誰が、こんな世の中にしてしまったのか。

 でも、私はここで待てよ、と言いたい。ナチスの収容所で書いたアンネの日記から学んだ次の一節を忘れてはならない。
――わたしはとても実現しそうもない自分の理想を、全部捨て去らないのをわれながら不思議に思います。(中略)しかしそれでもなお、天を仰ぐとき、すべてはまた正常に帰り、この残虐も終わり、平和と静けさが世界を訪れるだろうと思います。それまで、わたしは理想をもちつづけなければなりません。やがて、これを実現できる時が来るでしょう(アンネより)。
 私はいま、静かに思う。アンネの日記に書かれたこの言葉を思い、コロナ禍という同時代を生きる私たちに大切なものは何か、と。それは今こそ希望と勇気を胸に、互いに手を携え合って前に向かって「これでもか」と生きていくことではないか、と。残念ではあるが【前の世界はもはやない】のである。(完)