「柔道一直線と羅針盤」伊神権太

 努力と勇気。自分で言うのもおこがましいのだが。でも、つくづく思うのは、このふたつ。「なにくそ」と思う気持ちもあいまって、現在の私がある。そして。その時々の努力と勇気が、その先の人生航路の羅針盤となって、私をここまで引っ張ってきてくれた。そんな気もする。人はそうして自らを鍛え、励ましながら懸命に生きていく。そうした生きものなのである。私の場合は少し恥ずかしいのだが。自分流の、その時々の努力と勇気が、いつもセットとなって体内に潜んでいた。そして。勇気を出す時は、自分ならではの努力の積み重ねがあったように思う。
 小学生のころ。私は当時、大相撲の横綱栃錦と漫画の柔道少年『イガグリくん』に、あこがれていた。栃錦の上手出し投げや二枚げりなど鮮やかな技に感化される一方、柔道一直線のイガグリくんがクルリと宙を一回転してスックと立ち直る、あの少年の華麗さとたくましさにも魅力を感じていたのである。だから尾張地方の私学の中学に入学すると同時に柔道部に入り、以降は誰にも増してけいこに励み、三年生には小柄ながら講道館柔道初段を取得。その中学では始まっていらい初の中学在学中の黒帯所持者、有段者となった。当然のように私は、けいこを一日たりとも休むことなく、来る日も来る日も乱取りや打ち込みなどに励んだ。柔道は当然のように高校入学後も続けたが、まもなく突然の不幸に襲われた。

 胸膨らませて高校に入学してまもない五月十三日。私はたまたま母校を訪れ、練習に参加していた先輩との乱取り中、相手が突然、体重を乗せてかけてきた捨て身小内に転倒、ポキーンという大音響がしたかと思うと脂汗が噴き出て痛くて立ち上がれなくなった。右足の複雑骨折で私はそのまま寝たきりになってしまい、半年近く自宅療養で過ごすこととなった。それでも私は翌春になり、やっと動けるようになるや両親の猛反対を押し切って通学開始と同時に再び稽古にチャレンジ。高校二年には二段を取得。当時、大学受験を控え、母校は進学校だったこともあり、三年ともなれば級友のだれもがクラブ活動は止めて受験勉強にギアチェンジしたなか、私だけが意地もあって相も変わらず稽古に励んだのである。
 あのころ、柔道で有名な東京のM大学から特待生として迎え入れたいとの話まであったが私は「文武を両立させます」と担任教師に宣言。そのとおり大学に進学。当然のように柔道部に入部し連日の稽古に励み、大学二年には三段を取得。当時は日本の柔道界に体重別が採用され始めたころでユニバーシアードの体重別(軽量級)の候補選手として東京・講道館での最終選考会に挑むなどした。結果は僅差で敗れはしたものの、その後もオールミッション学生柔道大会で他校選手を背負いや大内刈りなど多彩な技で投げ飛ばし、優秀選手賞に輝くなどした。
 事実、私の青春は勉学と同時進行で柔道の稽古に明け暮れる日々だったが、おかげで段位も取得でき、そのごは当時、最難関とされた新聞社の入社試験も運よくパス。私は私なりの目標を定め、努力を積み重ねてきたからこそ、現在の自分があった、と確信している。

 私にとっての【努力と勇気】は大学時代の母校の教育モットー【人間の尊厳のために】、そして新聞社の社是【真実、公正、進歩的】と並び、大切なものである。事実、現役の記者時代には岐阜県庁汚職事件はじめ、名古屋のキャッスルホテルを舞台とした愛知医大を巡る三億円強奪、稚内沖オホーツクの海への大韓航空機撃墜、長崎大水害、長良川木曽川リンチ殺人など。数限りない事件や事故の取材に対面してきたが、なかでもトンボ眼鏡の女が逮捕された長野富山連続女性誘拐殺人の取材では事件の全容を追ううち、共犯とされた男性が無実であることを突き止め捜査関係者とわたりあった冤罪の指摘など。努力と勇気があればこそ、の話は数限りない。
 というわけで、コロナ禍やウクライナ侵攻などに揺れる世の中にあって、これからも【努力と勇気】が少しは人生の足しになれば、と願っている。