「左手の小指」  黒宮涼

 中学生の頃、左手の小指を脱臼したことがある。
 私はそのときテレビに夢中で、父は仕事から帰宅したばかりだった。テレビばかり見ていた娘に構って欲しかったのか、父は「ただいまー」と言って私の肩を掴もうとしたのだ。ただそれだけの行動だったのだが、当時の私はテレビを見ているところを邪魔されたくなかったのでその手を振り払った。その瞬間、左手の小指が曲げたままぴくりとも動かなくなってしまった。しばらく唖然として、それから恐怖が襲ってきた。指がまっすぐに伸ばせない。これはなんだろう。私の小指は一体、どうなってしまったのだろう。不安と恐怖で泣きはじめた私に、父と近くにいた母は異変を感じたのか「どうしたの」と尋ねてくるが、私は声が上手く出なかった。
「指が……」
 やっと出たのはその一言だけ。
「痛いの?」
 私は必死に右手で左手を指差して首を横に振る。
 痛みはあまり感じなかった。痛いのかと問われて初めて関節からじんじんとした痛みがくることに気付いたくらいだ。
「動かせないの?」
 その質問に私は頷いた。
 夜八時を回っていたと思う。父がご飯を食べたのかどうかは覚えていない。とにかく緊急事態だった。接骨院を探そうにもこの時間ではやっているところなどないだろう。両親はとりあえず場所を思い当たる接骨院に向かって車を走らせてくれたが、やはり明かりは点いていなかった。さてどうしたものかと両親は困り果てていたと思う。私も、これからどうなるんだろう。一生このままなのかな。と思いながら止まらない涙を腕で拭った。しばらくして車の外に出ていた母が戻ってきた。
「開けてくれるみたい」
 母の言葉に私は希望を感じて、顔を上げた。
 これは後から聞いた話なのだけれど、丁度その時通りがかった女性が接骨院の先生の娘さんで、時間外にもかかわらず診てくれることになったらしい。(運がよかったんだなぁ。娘さんありがとう)
 少しだけほっとした気持ちになりながら、何をするんだろうという新しい不安を抱えた私。車を降りて院内に入ると医者の先生が慌てた様子で診察室に入ってきた。
「どうしました」
 私は言葉が出ずに、ただ左手を見せた。先生は私の手をじっくりと見たり、軽く触れたりしてからこう言った。
「脱臼ですね。大丈夫ですよ。すぐ終わりますからね」
 怖かったら目をつぶっていていいと言われたので私は目を閉じる。以前、海外ドラマを見ていた時に脱臼が癖になっていて自分で骨をはめると言っていたのを思い出した。その時は嫌だな。怖いなと思っていたのに、まさか自分がその脱臼になるとは思っていなかった。骨がはまる感じがして、「もういいですよ」と言われて目を開ける。左手の小指が元の位置に戻って、まっすぐになっていた。まだ少しだけ違和感があったが、動かすことも出来た。
「癖になるといけないから、固定しますね」
 先生がそう言って薬指と小指をくっつけて、包帯でぐるぐると巻いていく。しばらくは左手をあまり使えないけれど、あのドラマのようになったら嫌なので仕方ないかと思った。
 あれ以来、出来るだけカルシウムを取るように母にきつく言われているけれど、どうしても牛乳が飲めないので他のもので摂取するようにはしている。もう二度と脱臼はごめんだ。骨折は未体験だけれどしたくない。ただあの脱臼がなければまた違う人生になっていたかもしれないと時々思うのだっだ。  (完)