「置きみやげ」 牧すすむ
歌謡曲の詩には、昔から“酒 ”という字を取り入れたものが多い。多いというより定番と言った方が良いだろう。何しろ演歌は、「酒、女、涙、夜」の四文字を並べておけばそれなりにストーリーが出来る、とさえ言われている程である。もちろん、そんな中でも名作として歌い継がれてきた曲も数多い。
古くは藤山一郎の「酒は涙か溜め息か」。私などもギターを習い始めた頃によく弾いた覚えがある。又、美空ひばりの「悲しい酒」。これはもともとある男性歌手が歌っていたのだが、鳴かず飛ばずでもったいないと、作曲者の古賀政男氏が美空ひばりで再レコーディング。今に残る名曲となったのである。
しかし、当初彼女は、二番煎じだったこの曲を歌うことにかなりの抵抗を示したと聞いている。他には川中美幸の「ふたり酒」、渥美二郎の「夢追い酒」などなど。更に近年では、吉郁三の「酒よ」が独特の味でヒットし、レコード業界に大きく貢献したのは周知のところである。音楽を生業(なりわい)にしている私にとってこれらの曲に巡り会い、演奏の機会を得ていることは大きな喜びであり、心から感謝している。
ところで、呑む立場としての酒はどちらかと言えばビールがいい。かと言って、別に日本酒が嫌いというわけではないので、四季を問わずコップ一杯の冷や酒は有り難く頂いている。そんなこんなで我が家の冷蔵庫には、いつも必ず数本のビールが収まっている。ただ、以前は手頃なことから缶ビールが多かったけれど、何となく缶自体の味が気になりはじめ、最近は専らビンの方に心が移っている。よく冷えて水滴の残る茶色のビンから注がれるビールには、ただそれだけで何んとも言えない風情を感じてしまう。
とはいえ、こんな私も若い頃は全く酒が呑めない不調法な人間だった。それがいつの間にー。ということになるのだが、実は結婚がきっかけ。仕事一途の昔人間だった義父は、酒が唯一(ゆいいつ)の楽しみ。しかも俗に言う“酒豪 ”である。仕事を終えるとまず一杯。程よく燗のついた酒をうまそうに口に運ぶと、三合、五合が瞬くうちに空(から)になっていった。
婿としてその付き合いを余儀なくされた私は、必死の思いで盃を受け、二杯、三杯と無理矢理喉の奥へ流し込んだのであった。当然の成り行きながら、時間が経つにつれ息遣いが荒くなり、小さな心臓は破裂しそうに高鳴った。やがて義父の顔がぐるぐると回り出し、遂にはダウン。そのまま“昇天 ”の憂き目となるのが常であった。
そう言えば、私の実父も全くの下戸(げこ)だったらしい。なにしろ盃一杯で二日酔いならぬ三日酔いをしたという筋金入りである。因(ちな)みに母の兄も同様だったようだ。ところが母は真逆の“酒豪 ”。一升呑んでも顔色ひとつ変わらない。ただ、「これには理由(わけ)があるんだよ」と、いつだったか手酌で呑みながら話してくれた。
父の急死で家業の全てを受け継いだ母は悲しむ暇もなく働いた。仕事上の付き合いも多く、酒の席も外して通れない道であった。年若い未亡人というだけで男連中の格好の標的となり、下心の有無に関わらず強引に盃を空けさせられることもしばしば。僅かなスキも見せるわけにはいかなかった。
そんな中で、母は酒を殺すための強い精神力を身に付けたという。いくら呑んでも身だしなみと姿勢は決して崩さない。それが身を守る術(すべ)であった。「気がついたらいつの間にかこんなになっていたよ」と、笑っていた。
そんな母も九十歳をとうに過ぎ、さすがに現役は引退したけれど、相変わらず毎日のビールは欠かさない。そのおかげか腰も曲がらず、特に病むこともなく、今でも好きな踊りの稽古に精を出している。彼女にとっての酒は正に百薬の長であり、命の水なのである。
私も若い頃は死ぬような思いで口にしたこの毒水も、今では甘い良薬に変わり日々の喉越しを楽しんでいる。ただ、そんな私に妻は時々「あー、騙された」といやみを言う。「酒を呑まない人と思って結婚したのに」というのがその理由。でも、これが義父の残した置きみやげと思えば有り難ささえ感じる。
「酒なくて なんの己(おのれ)が 浮き世かな」
粋な古川柳も今夜は“肴(さかな) ”の一品(ひとしな)として味わいたいと、そう思う。
前述の通り、実父は全くの下戸(げこ)だったのだが、彼の四人の息子はそれなりに付き合い程度はたしなむ。「盆、正月、お祭り」などに顔を合わせると結構な量になることもー。こんな息子達を父はきっと頼もしげな表情で見てくれていることだろう。冷たいビールに喉を鳴らしながら、そんなことをふと思ったりしている今日この頃の私である