「イチョウは手品師」 伊神権太

 〈もみじ【紅葉】〉を金田一京助さんらによる新明解国語辞典第五版で調べてみると①木の葉が晩秋に黄色や赤い色に変わること②赤くなった(カエデの)木の葉③カエデの異称。「赤ちゃんのもみじのような手」とある。また【紅葉狩り】は「山野に紅葉をたずねて、見て楽しむこと」とも。
 ちなみに日本の童謡の顔と言っていい、♪秋の夕日に照る山もみじ 濃いも薄いも数ある中に 松をいろどる楓や蔦は 山のふもとの裾模様…なる私たちが幼きころから歌いなれた歌〈もみじ〉は、1911(明治44)年に当時の尋常小学校唱歌として発表された。だから既に1世紀以上、人々に親しまれてきたことになる。
 というわけで、私たち日本人にとっての【紅葉】は、単に見て楽しむだけでなく、歌って愛(め)でるものでもある。さらに♪おくやまに紅葉踏分なく鹿の声きくときぞあきは悲しき(猿丸太夫)―など。百人一首にも詠まれているのである。

 さて。わが人生にとっての【紅葉】って。一体何だろう。
 思い起こすにつれ、その時々の社会と風景が懐かしく浮かび上がる。まずまぶたに浮かぶのが、昭和50年代のはじめ。社会部記者のころで、私は〈旅〉の取材で三重県名張市の赤目四十八滝をカメラマンを伴って訪れた。四十八滝の登山道口からくねくねと蛇行したゴロタ道を歩いていくとまもなく滝の池だまりのような場所に着き、背後の、どす黒い樹木と巨岩をカンバスに白い流れが夥しい糸となって音を立て、水底にどんどんと吸い込まれていくさまを目の当たりにした。
 空を仰ぐと、そこには薄墨色の漆黒が広がり、その下で、これから少しずつ赤く染まってゆくであろう、木々の梢や葉が周りを照らし、じっと静観し冬の到来を待つ姿はなんとも神秘的だった。風が無言の妖精となって消えていく。そんな錯覚すら覚えたのである。

 そして。次に思い出すのは単身赴任で琵琶湖畔の大津にいたころか。あの当時は湖畔の道を歩き、ひとり寂しく夕食をとったあと、気が向くと浜大津の馴染みの居酒屋に寄り、ふなずしを酒の肴に決まって歌ったのが今は亡きフランク永井さんの〈公園の手品師〉だった。この歌が大好きだった妻との離れ離れの生活が郷愁をかきたてたのか。この曲は、何度も聴いたり歌ったりした。
 晩秋ともなれば、湖畔の木々がそれこそ色鮮やかに紅葉しており、湖面に浮かぶカイツブリくんたちを目の前に夜風に吹かれ、パサパサと音を立てる落ち葉を踏みしだいて湖畔の道を歩き続けた、あの感触は今も忘れられない。
 だが何と言っても1番強烈だったのは、妻が10時間前後にも及んだ大手術に耐え、無事生還してきたあとにふたりで足を運び、銀杏の名所・稲沢市祖父江で見たあの、この世とは思えぬ【黄葉】である。まさに目の前が黄一色に染まった姿は、とても地上のものとは思われない迫力で私たちに迫った。黄金色の視界を前に私たちは「この世に、こんなに美しい世界があるだなんて」と、おったまげたのである。

――秋なぞ、イチョウの葉が、空からゆらゆら、ゆらゆらと陽炎の如く落ちてくる。そんな光景には、我ながら驚くほどに無言の音の風景と余韻を感じる。イチョウの葉を公園の手品師とは、よく言ったもので私はそんな手品師たちが一枚、また一枚と地上にヒラヒラと落下してくる姿に女たちの美しくも逞しく、怪しくて狂おしい表情を重ね合わせ、生きる快感を何度となく味わった。その姿を見るにつけても、全ての面で人間よりイチョウの木の方が上だなっ、と思った。
 いつだったか。ヒラヒラ舞うイチョウの葉に私にとっては長年の相棒でもある妻が「自然に無理をさせちゃあ、いけないよっ」とボソリとつぶやき、私を咎めるようにジッと見つめた。あの時、私はまさにこの言葉は至言だと思ったのだった。自然に無理させてはいけないことに、人間たちはやっと気付き始めた。私はその落ち葉さえも長生きさせようと本の栞として生かしている。(完)