あぁ~能登半島 伊神権太

 何にこだわっているのか? こう問われたら。私の場合、何だろう。こだわりと言えるかどうか。少し違うかもしれないが、だ。私がこれまでにしてきた趣味もこだわりのひとつかもしれない。社交ダンスにハモニカ演奏、端唄、小唄そして都々逸などの吟詠、朗詠など数限りない。ほかに小学生の頃に漫画の〝いがぐりくん〟に憧れ、中学の頃からずっと大学時代まで続けた柔道一代にも、こだわったといえば、こだわり続けたか。おかげで大学在学中に講道館柔道三段を取得。オールミッション柔道大会では優秀選手賞にも輝いた。

 では、今現在の私のなかでの本物のこだわりとは、何だろうか。やはり、一歩進んだ「執着」となれば能登半島への熱き思いにほかならない。そして。なぜ? と問われれば、だ。2年前にその能登半島で大きな地震が起き、これに追い討ちをかけて能登豪雨水害までが発生。私たち家族が大好きだった能登半島の至る所で多くの人々が家族の命を奪われ、家屋が全壊や半壊。それどころか、津波がおき、和倉温泉や千枚田が壊滅状態になるまでに被災。朝市で知られた輪島が焼失、海女さんらの大切な漁場だった海の海底が4㍍も隆起、さらには液状化現象など……自然をはじめ家屋が、人々の心という心までが傷ついたからである。
 私は、かつて新聞記者として家族もろとも5人、それに飼い猫のてまり(てまりに関わる小説「てまり」は日本ペンクラブの電子文藝館=https://bungeikan.japanpen.or.jp=でも収録)。そしてうさぎの〝ドラえもん〟も加えれば7人家族で、かの地・能登半島に7年間、住んでいたのである。だから。「能登半島のことはもう忘れなさい」と言われたところで忘れるわけにはいかない。忘れられないのだ。事実、石川国体では、当時七尾高校生だった長男がボートの部に出場、新聞にまで掲載された話も今となっては家族の貴重な思い出である。

 そして。このこだわりを増幅させるものといえば、だ。それまでの勤務地・空港担当記者として全国各地の事件、災害現場を飛んで回った空飛ぶ記者(小牧通信局)から能登半島・七尾支局長に転任するに当たり「能登七尾・和倉温泉の三尺玉花火が台船提供者の非協力で危機に陥っている。なんとか三尺玉花火を再生してほしい」との社命を受け、決死の覚悟をして乗り込んだ。そんな思いが今も脳裏に強い映像となって焼き付いて離れないからである。

 転任に当たって妻たつ江(伊神舞子)が私の代筆として新任地・七尾で書いた挨拶状は以下のような内容だった。
――秋立つ夏の日。私たちは半島の土を踏みしめました。小牧在任中は、多くの皆さまに助けられ感謝感激です。/汽車の窓に広がる鉄のようなさめた深緑。車に向かい手をふる能登の子ら。透き透る日本海……能登の初印象は、清れつさと優しさ。そして美しさ。今は家族五人の胸が大きく高鳴ってもいます。/私にとっての七尾行。社に入り、それは七度目の新天地です。小牧では〝空飛ぶ記者〟として七年いました。ことしの和倉温泉中日花火大会はくしくも七回目、すべて七づくしのスタートとなりました。/これからは能登の人たちはじめ、この土地の自然、風土、文化をこよなく愛し、がんばります。まずは着任のごあいさつまで。
 早いもので、あれから40年近い。今は亡き妻は七尾在任時には北陸本社の田村代表から社始まって以来初の「内助の功」賞まで受け、涙にくれもした。私は、その後、大垣、大津、一宮、名古屋本社特報・サンデー版デスク長……と各地を転々と流れ流れて。定年後はドラゴンズ公式ファンクラブの1スタッフとして、同僚らと中日スポーツ紙面にファンのコーナー・ファンクラブ通信の欄を手がけ幸い、このコーナーは存続。今に至るのである。

 こだわりといって良いのか。能登半島地震が起きて一年後。私は友人の牧すすむさん=琴伝流大正琴弦洲会会主で大師範。作曲家で詩人。「熱砂」同人=と能登半島地震復興応援歌【能登の明かり(岡ゆう子さん歌、安本和秋さん編曲)】をつくった。というわけで今は少しでも多くの人々にこの歌を歌って頂けたらと日々願っている。これも、こだわりのひとつ、だといえよう。