「勝者たち」 牧 すすむ

 〝ワーッ! すご~い〟〝アーッ〟。妻の大きな声が耳に飛び込んでくる。テレビの中から響く大歓声と一緒になって大変な賑やかさだ。

 このところ連日、日本中を沸かせているフィギュアスケートの実況中継。机に向かってペンを走らせている私は、そのたびに開け放たれたままの隣りの部屋のテレビに目をやってしまう。
 ソチ五輪代表者決定のための大会はやはり素晴らしく、「さすが!!」と思わせる演技の数々が白いリンクの上に繰り広げられている。
 四年に一度のオリンピック。たった三枚の「出場切符」を巡る熾烈な戦いは、時に苛酷とも思うほどの激しさを見せる。それだけに観衆は息をのみ、我を忘れての拍手と声援を惜しまないのだ。
「全員をオリンピックに出させてあげたいですね」と語っていた解説者の言葉が耳に残って離れない。
 競技は違っても、単独でもグループでも、やはり最後に試されるのは個人の力と技。然も会場を埋め尽くした大観衆の目前で競技をすることは並外れた精神力を必要とするだろうし、更にそれを支えているものは恐らく血の滲むような練習の日々があればこそ―。これは誰にでも容易に理解が出来るはずだ。

 話は変わるけれど、実は私も同じような経験をいつもしている。ただ、オリンピック選手達のそれとは比べようもない程にスケールの小さいことなのだが、大正琴の演奏家として務める舞台は正に競技場以外の何物でもない。
 満席のホールに響く自分の弾く大正琴の弦の音色の一つ一つが真剣勝負であり続ける。咳払いの一つも無く静まり返ったホールは、どんな些細なミスさえも許されない強い緊張感に包まれている。
 更にもっと大きな試練は出番前の待ち時間だ。今正に処刑場に引きずり出されようとする囚人達の恐怖心にも似ている。ただ、多くの大物芸能人ですら同じような発言をしていることが救いになっているのも事実だ。
 然し、その分終えた後の達成感と喜びは何にも代え難い大きなものがある。

 私がオリンピックを初めて意識したのは中学生の時。毎日学校の中央廊下の掲示板に張り出される新聞に、「三段跳びで日本のコガケ選手が16m48の大記録」という記事を見たあの日だった(思い違いでなければ)。そして、その後の東京オリンピックには様々な思い出が残った。
 13インチの小さな白黒テレビに家族中がかじり付き、開会式の行進の様子、東洋の魔女達の大活躍。そして裸足のマラソンチャンピオンとして一躍名を馳せたアベベ・ビキラの力走等等。手に汗して見入ったものだった。
 二〇二〇年の東京オリンピックにはどんなスーパースター、ヒーローが誕生するのだろう。今から楽しみでならない。
 話を更に前述に戻せば、私のような者にも日々の戦いがあるのと同じく、この広い世界に住む人達の全てが生きるために何らかの戦いを強いられている。例えば身近で言えば乱立するコンビニやラーメン店。そして町内の理髪店や寿司屋さん達も―。
 見渡せば、周りは日夜厳しい競争を勝ち抜こうと必死で戦っている姿がある。
 ある意味「これもオリンピックなのかな」と思ってしまうのは私だけなのだろうか。

 何はともあれ、今、自分がここに存在すること自体が勝者以外の何者でもない事実。そんな気持ちにさえなるのも、やはりオリンピックという大きな名前のせいなのかもしれない。  (了)