「平和な風景」 黒宮涼

 夫の母の初盆に彼の仕事の都合もありお盆明けに行くことになった。スケジュールは夫に任せていたが、あまり会えない義兄と同じ日に合わせて里帰りすることになった。
 夫が住んでいたのは名古屋だったが、幼少のころは夫の父の実家。岐阜の山奥に住んでいたらしい。これまでも法事や里帰りなどで私も何度かお邪魔したことはあったので、田舎の風景を思い出していた。
 実家には今、お義父さんとお祖母さんが二人で住んでいる。当日も普通に居るものと思っていたのでいつもの通りお祖母さんに美味しいものを食べさせてあげたいと、夫が持ち前の料理の腕を振るう予定であったのだが。なんとタイミングの悪いことか。前日にお祖母さんが緊急入院することになった。病気で定期健診を受けていたのだが、体調が悪くなったらしい。私と夫は、お祖母さんの入院している病院へお見舞いに行ってから、実家に行くことになった。
 病室でお祖母さんは笑顔で出迎えてくれた。思っていたよりは元気そうで安心した。

 病院からさらに田舎のほうへ行くと実家があった。広い敷地に田畑。大きな家。何度訪れても口をぽかんと空けてしまう。家は親戚の人たちが集まって建てたらしい。築三十年ほど経つ。
 お祖母さん不在の中、夫は手の込んだ料理を作った。美味しいご飯を食べたあと、順番にお風呂に入ることとなった。私の番になったので脱衣所に行くと、扉に鍵がついていないことを思い出した。浴室の扉にはあったが、以前閉めたときに鍵が回りにくいことを覚えていた。今回はいつもと違って家の中には私以外の女性はいない。人の家で不安なので浴室の鍵をかけることにした。
(これでもし開かなくなったら大変なことになるから、お願いだから出るときは開いて)と願いながら体を洗い湯船につかった。
 しかし、私の願いはむなしく打ち砕かれた。何故ならば鍵が回らなくなり、扉が開かなくなったのだ。
 そのときの私は、顔が青ざめていたと思う。最悪の事態だった。
 私は自力で鍵を開けようと頑張った。傍にあった乾いたタオルを使ったり、掃除用のブラシの柄を使ってみたり。けれど鍵はびくともしない。私は恥ずかしさを押し殺して助けを求めることにした。
「助けてー」
 早く気づいてほしいと願いながら、両手で拳をつくり扉を叩く。
 私はせっかく温まった自分の体が冷えていることに気づいた。しかしそんなことを気にしている場合でもないと思った。なりふり構わず何度も叫び、音をたてた。気付かれたのはそれから数分後のことだった。
「どうしたの」
 扉の向こうから声がして、夫が来てくれたのだとわかった。確かめるように夫側に鍵はあるかと問うと、ないという。
 窓から出ることができればよかったのだが、窓は外側に柵がついており出ることができなかった。なので柵の隙間からレンチなどの工具を受け取り、頑張って自分で開けた。ほっと胸をなでおろしたかったが、開けたときに鍵が壊れてしまったことに申し訳なさを感じた。その日の夜はよく眠れなかった。
 そんな悲惨な目にあった翌日のことだ。
「平和だね」
 家の縁側で窓の外を見ていた夫の口から、そんな言葉がもれた。
「え?」
 私は昨夜の騒動を思い出して落ち込んでいたので、首をかしげる。
「だってそうじゃない」
 夫が窓の外の景色を見てという。田畑と近所の趣のある家。そして少し遠くに川と山が見えた。鳥の鳴き声と風の音も聴こえた。
「そうだね」
 景色を見ながら私は頷いた。昨夜の出来事がなんだか小さなことに思えた。
 そのとき私は確かに平和を感じていたのだ。 (完)