「出会いを求めて」 真伏善人

 木の葉は散る前になぜ色づくのかといえば、アントシアンなるものが増して葉緑素が分解するからだと言われている。だが、ほとんどの人々は紅葉を見ながら、ああアントシアンがなどとは思いもしないだろうし、考えもしないだろう。それはいいとして、あの燃えるような紅葉は秋の深まりを精一杯に知らしめている。時期になると、それぞれに観光名所を選び、近くにあれば慣れた足取りで見物に、遠くを選ぶ人は、その道のりをも楽しみながら目的地の風景に思いをはせているだろう。自身はどちらかといえば後者になるだろうか。見知らぬ地への興味と、そこに現れる風景の中での色づきが、どのように広がって心に沁みるのだろうという、胸の中はある。だが、ひとりでそれだけを目的に出かけることはない。家族や知人たちに声をかけられれば、その楽しみをみんなと共有はできる。

  名所は雑誌やインターネットで数多く紹介されている。だが選ぶとなると迷いに迷うことになる。渓谷か公園か、神社か街道か、それとも思い切って山頂か。そしてそのあたりに、もうひとつ名所か土産物店などがあれば決定になるのかも。自らは同行者についていくだけなので、どのあたりに連れて行ってもらえるのか、ワクワク感が大きい。できれば行ったことのない地方がいい。遠くても近くても紅葉で満喫でき、欲を言えばその木々の下で弁当を広げて一杯を酌み交わせれば、紅葉に対して失礼だが、それはもう天国なのだ。うつろに眺める紅葉並木は恍惚の世界だろう。これは春の桜見物といくらか趣は異なるだろうが、幸せ感は同じような感じがする。
 幸せ感といえば以前、山間を流れる清い川を求めて釣り歩いていた。始めたころは二三人で行くこともあったが、やがてひとりで行動するようになっていた。雪解けから始まるそれは芽吹き前後からで若葉が開くころになると、それは何とも言えない優しい匂いを漂わせていた。それまでは同行者と、自分の竿先ばかりが気になっていたのか、まるで気になることはなかった。それからである。ひとりで自然の中にいるということは、包まれているということに気が付いた。
 そのふんわりとした若葉の匂いは、春の香りそのものだった。
 そしてしっかりとした緑色が枝にあふれるようになると夏が近くなる。渓流をどんどん釣りあがると川幅は狭くなる。やがて針葉樹は遠くなり、丈の低い広葉樹が明るさを運んでくれる。道のない道に雑草が、思いもよらぬ早さで辺りを覆っている。せせらぎと、流れる白いちぎれ雲のハーモニーに、釣りを忘れて座り込んだこともあった。季節が進むと名も知らぬ木々に実りがある。これもまた名も知らぬ鳥たちのくちばしにかかるのだろう。深まる季節に鳥たちは、羽音を強くして飛び回る。木々たちも時節の匂いを嗅ぎ取り、徐々に色めをつけていく。紅葉の始まりである。

 やがて釣りの期間は終わり、山歩きになる。触れると皮膚がかぶれるという漆や、モミジのようなカエデの見事な紅色にささやかれると、思わず声が出てしまう。独り占めの贅沢な世界だ。しかし、この贅沢も長くはない。冬支度を始める紅色は次第に色を失っていく。悲しさを覚える色だ。また来年だと自分に言い聞かせて山道を下りる。
 こう振り返ってみると、紅葉の楽しめるところは名所ばかりでなく、自然の豊富な地のくねった山道を辿れば、どこかにあるはずだ。情報に頼るのもよいが、自ら出会いを求めて足を延ばしてみるのも悪くはないだろう。こういう出会いには、喜びが倍ほどもあるはずだ。また紅葉は紅色とは限らず、黄葉もあるのだから広く考えて楽しむのも、この季節のだいご味であろう。 (完)