「字は口ほどに」  牧すすむ

 拝啓 読者様にはいつも「ウェブ同人誌熱砂」をご愛読の上、密かな(笑)ご声援を頂き誠にありがとうございます。心より感謝申し上げます。 云々~  敬具

 今回のテーマは手紙。私も仕事柄手紙を出すことも貰うことも多く、ほぼ毎日何かしらの郵便物が届いている。外出から帰ると机の上に置かれたそれらを開封し、一通り目を通す。そして自分なりに区分けした場所へ収めておく。これがいつもの手順である。ただ狭い場所でのこと、とりあえずと思いつい別の郵便物の上に重ねてしまった結果、後で大事な物を必死で探すハメになってしまうこともしばしばー。これが日常の私の生活なのである。

 手紙という物には何かしらの癖があって面白い。例えば宛名の文字。印刷物は別として可愛くこぢんまりとまとめた文字もあれば、力強く今にも封筒からはみ出しそうな勢いで書かれた物、更には達筆過ぎて判読が難しい物まで様々である。文字は人を表すと言うが正にその通りなのかもしれない。
 差し出し人の名前を見てウンウンと頷く時もー。まるで手相でも見ているかのようにひとりで納得してしまう。が、かく言う私もイマイチ堂々と肩を張った字が書けない。気にはしているのだが宛名書きの時などはよく「もっと大きく書けないの?」と妻の横槍が入る。
 持って生まれた性格は変えられないということか、などと最近は諦めの境地でもある。

 手紙と言えば私達の若い頃、つまり半世紀以上も前のことになるけれど文通なる物が大いに流行(はや)っていた。今のように便利なパソコンやケータイ等が無かった時代、人と人との繋がりの多くは郵便であり中でも青春真っ只中の若者達にとって、それが同性異性にかかわらず意思疎通の大きな手段であった。
 そんな若者達を後押しするかのように雑誌には必ず文通を扱うページが有り、希望すれば住所氏名等が掲載され誰かからの便りが届いた。又、自分もそのページから相手を選び出し手紙を書く。そして知らない者同士の文通が始まるのである。
 「文通友の会」なる物も誕生し、おおくの夢と友情を育んだ古き良き時代でもあった。
 今のように個人情報の騒ぎも無く、又、偽りだらけの出会い系サイト等の犯罪も無く、清らかな青春と愛が満ち満ちていた。「便利は不便」というけれど、手紙だからこそ、その文字の一つひとつからお互いの気持ちが分かり合える。そんな文化の灯がいつまでも消えることのないようにと願うばかりである。

 話は変わるけれど、最近感動を覚えた事がある。それは一通の手紙。
 私は大正琴の会を長年主宰していて、年に一度「中央大会」と題した大きなイベントを「旧名古屋市民会館」で開催している。令和元年は第35回の記念大会となった。そしてプログラムの一つとして七十五才以上の出演会員を舞台で表彰、今年は二十七名という数になった。
 ただ、その中の一人が94才ということで特別表彰となり満席の会場からも大きな拍手が贈られた。手紙の主はその人だった。年齢を感じさせないしっかりとした文字と文面でお礼の言葉が綴られていたのにも感心したのだが、文末の一行には更に驚かされた。
「今後も御指導の程、宜しく御願い致します」とあった。実に素晴らしい限りだ。人生の鏡とも言うべき人である。自分も彼女を目標に頑張らなければ、と改めて心に誓いながら便箋を閉じ、そっと封筒に戻した私であった。(完)