「女子高生の焼身自殺」 伊神権太

 〈まわる〉と聞き、思い出すのが昭和四十年代の駆け出し時代、新聞社のサツ回り記者として出発した松本支局員のころに先輩から言われた次のような、お達しである。
 「がみちゃん、君はネ。なんてったって、今日から泣く子も黙る花のサツ回りだ。でも、よちよち歩きのトロッコなのだから。警察はむろんのこと保健所、職安、消防署、地検、地裁、労基署、営林署の各官庁には毎日必ず顔を見せること。どこでどんな事件が起きているか知れたものでない。そして、警察は当直明けと夜中に一日一回は必ず訪れることだ。何より、顔を覚えてもらう。取材先にかわいがられなければ始まらない。よいね、サツ回りは新聞記者の基本だから」
 愚直な私は、この教えにそって翌日から、さっそくこれを実行に移した。

 女鳥羽川に面した6畳1間の下宿を早朝、頭には白いヘルメットをかぶり、オートバイで危なっかしい運転で飛び出すと、何はともあれ長野県警松本署へ。署内の司法記者クラブで各紙をチェック、今度はマスコミ対応の署次長の傍らに陣取り、前夜からの当直長が次長に報告する内容に聴き入った。いつも他社の誰よりも早かった。
 それが終わるとデカ部屋などを一巡、平穏な一日の始まりを確認すると、こんどは地裁、地検、保健所、職安、消防署…と歩き回った。雨の日も、風の日も、雪の日も。必ずこれら全官庁をカメラバッグを肩に訪れたものだ。

 ある日、民家で火災が起き自室にいた女子高校生(3年生)が亡くなった。こたつで居眠りしていたらしく煙りに巻かれ焼死したらしいとの第一報が広報担当から記者クラブに持たらされた。私は「火災」と聞くや、オートバイで飛び出し現場を訪れたが、なんだか室内がジュッといった感じで焼け焦げており普通の火災にしては何かが、おかしい。
 「へんだ」と思った私に馴染みの消防署員が「ガミちゃん、中日さん。内緒の話だけれど、庭の隅に灯油缶が落ちてたみたいだよ。」と教えてくれ、この一言にピンときた私は女子高校生が通っていた高校や友だち宅を訪れ取材を進めていった。結果は、この女子高生が最近、地元短大への面談入学試験を受け他の友だちがパスしたのに自分だけが不合格になり、落胆。親しい友だちに「もう会えなくなる」と話していた衝撃的な事実を突き止めた。
 というわけで、翌日の本紙朝刊社会面(軟派)紙面は「傷心の女高生が焼身自殺」と大々的に報道され各社そろって後追い記事を掲載。あのときの複雑な気持ちは今も忘れられない。新聞記者の世界には、〈現場百回〉とか〈殺し3年火事8年〉といったことばがあるが、まさにその典型的な例えが、記者生活で初のスクープとなった、この少女の焼身自殺取材であった。
 あのとき他者のサツ回り記者たちは警察広報からの第一報に記者クラブ内で麻雀にうつつを抜かし「あゝ、まだ若いのに。こたつで居眠りしてて死ぬだなんて。若いのに。なんだか、かわいそうな気がするネ。でも、事件性はないのだから」と互いに他社の動きを牽制しながら麻雀に興じていたことをしっかり覚えている。
 それが。翌日の中日紙面に真っ青になり、記者クラブ全体が葬儀屋の如く沈んでしまい、各社ともしょんぼりしながら「中日さんの記事のとおり」との警察発表をしぶしぶ書いていた。〈まわる〉との言葉を聴くたびに、あの日の記憶がよみがえるのである。

 あれから、もうどれだけの月日が流れたことか。私は今、2011年の3・11東日本大震災福島原発事故の被災地を毎年、執拗に訪れている。現場を訪れれば事件災害と人間の本質が見えてくるからだ。特に大震災発生まもなく現地入りし、白い灯台だけが立ち尽くすようにしていたあのいわき市塩屋の岬に立つ塩屋崎灯台直下は毎年、訪れている。現場百回の精神で訪れることにより、見えないものがみえてくる。そう信じて、である。

 まわる。まわる。まわる。ことほどさように〈まわる〉ことは何につけ大切なのだ。(完)