「我慢の仕方」 黒宮涼
小学生の頃、私は習い事をやっていた。ピアノ、習字、英語、塾。今思うととても恵まれた環境にいたと感じる。ただそのどれもが、自分で進んでやると決めた覚えがない。高学年になるにつれて、習い事は増えていったように思う。もちろんそのすべてが好きだったわけではなく、特に嫌いなものは塾だった。一緒に塾へ通っていた姉たちはどう思っていたのか、その時はわからなかった。私は何度か行きたくないと母に訴えたが、聞き入れてはもらえなかった。
塾の時間は、平日の夜。二十時から、終わりは二十三時を過ぎることもあった。
母は当時。仕事を終えて帰宅すると、急いでご飯を作り二十時までに夕食を済ませて車で十分ほどの距離を走り塾へと私たち姉妹を送っていた。そして迎えは二十二時半頃に来て、そこから三十分は教室で待つという、一番大変だったのは母ではないかと思うほどのスケジュールだった。
友人たちに聞くと、二十三時頃までやっていることに対して、驚かれることがあった。私は、どうしてこんなことをしなければいけないのかと思う日々だった。
内容は学校でやる普通の教科であったが、まだ小学六年生の私は、中学一年生の問題をやっていた。私は特に数学が苦手だった。他の教科はそこそこできたが、応用問題が出てくると目を伏せたくなった。
夜ということもあり、私はいつもうとうとしながら、問題用紙とにらめっこしていたことを覚えている。勉強と戦っていたというよりも、眠気と戦っていたというほうが正しい。私は必死だった。どうにか重たくなる瞼を持ち上げようと、様々な方法を試した。起きる努力をしていたのである。
例えば、手のひらをシャープペンで軽く刺してみたり、わざと消しゴムを落として、違う動作をすることで、目が覚めないかと考えて実行していたりした。あまり効果がなかったのは、言うまでもない。
寝たら怒られる。という強迫観念に囚われていた。廊下に出るとひんやりとした空気が眠気を取ってくれるので、トイレに行く時だけが安心できる時間だった。何度、このままトイレにこもりたいと思ったか。
夏休みになると、昼間に塾に行くことがあった。もちろん母は仕事なので、姉たちと私は自転車で通うことにした。日中で冷房もかかっているので、眠くなることはなかったが、私は寒さに体を震わせていた。上着を着ていたけれど、それでも寒い。はっきりとは覚えていないが、設定温度を見るとびっくりするほど低かった。個室ではないので、いったい誰がこんな温度にしたんだと思ったが、答えは考えるまでもなかった。先生だ。生徒たちが問題を解いている最中に、先生がエアコンのリモコンを触っていることに気がついた。
私は、「これ以上下げるのは、やめて」と叫びたい気持ちになりながらも、我慢するしかなった。寒いと意見する勇気がなかったのだ。
冷房問題は、夏休みに限らずとも暑い期間中はずっと私を苦しめていた。もしかしたら、他の人もそうだったのかもしれない。私は見てしまったのだ。一人の生徒が、先生が部屋を出て行ったのを見計らってリモコンを触っていたことを。やはり寒かったのだろう。私は心の中で「ありがとうございます」とお礼を言った。
振り返ってみても良いことなど一つもなかったけれど、学校の成績はそんなに悪くなかったので、その点だけは感謝しなければいけない。大人になってから、当時の事をみんなで話したことがあった。姉たちもあまりあの塾に行きたいと思っていなかったこと。母もあの塾へ通わせたことを少し後悔していること。無理に通わせず、もっと家族の時間を大事にするべきだったことなど。そんな話をきいて、私はもっと早くに言ってほしかったと思う反面、自分の事ばかりで、母や姉たちの苦労に気づいていなかったのだなと思い、反省した。
あの塾の事は、私たち家族にとって共通の苦い思い出になっている。(完)