「桜の花とともに 」  眞鍋京子

 琵琶湖から流れ出る疎水の両側の堤防には百年も年月を経た桜の木が百㍍ぐらい植えられ、三月の下旬から四月上旬に枝もたわわにすばらしい花をつけ、地元の花見客をはじめ観光客の目を楽しませている。ことしは冬の寒さがきつく、彼岸がすんでも桜の蕾は堅く四月の入学式になってやっと花の蕾が開き始めた。
 山口愛は古くから、この疎水の近くに住み、その年の気候によってことしは早く花が咲く、まだまだ蕾が堅いよ、と気象予報士のように周りに知らせて歩く。彼女は高等女学校や女子専門学校を出て中学校へ奉職し主に理科を担任していたが同僚教師に気象についても教わった。結婚し大津へ来てからは植木に興味を持ち疎水堤に植えられた桜の花の開花状況について念入りな観察を始め、桜の開花時には毎年克明に、花が咲き始めた桜の一枝一枝を眺めたものだった。最近は卒寿も間近いのに手押し車を支えに見て歩く。
「こんなに伸びている桜の花を見ていると私も負けてはおれん。百歳までどうしても生きたいなあ」
 ふとつぶやく愛にわが子や孫たちは「それは皆で証明してあげるよ。まだまだ桜の木以上にがんばっておくれよ。みんなで応援しているから」と励ましてくれる。でも、こんな温かい励ましにもかかわらず愛は米寿を過ぎたころから少しずつ弱り始めた。気力はしっかりしていて手押し車を押して花見にいこうとするが、歩みの状態を見ていると覚束なくて見ておられない。注意しても「ワシは百を越さなんだと死ねんのなあ」と言い張る。

 ある年の四月、桜の満開の時期に愛は「ことしも花見が出来て、こんなに結構なことはない。仏様のお導きや。ありがたいことや」と言って出ていった。しばらくすると町の人の「愛さんが土手から滑り落ちやはったらしいですよ」の知らせに家のものが急いで見に行くと、元気は確かにあり「手押し車のハンドルを曲げそこなって土手から転げ落ちただけや」の返事。
「おばあちゃん、それだけでよかったなあ。けれど救急車で病院へ行ってみてもらわなければ」。というわけで、無理やり病院へ。医師の診断で腰の骨にヒビが入りしばらくの療養を強いられた。これには周りも「おばあちゃん、ことしも桜の花が見られてからのケガでよかった。来年までには、きっと治るよ」とは励ましつつも「この年齢では」とこどもや孫たちの心配は募るばかりだった。
 主治医やホームヘルパーに相談した結果、介護用のマイクロバスでベッドに寝たまま空を見上げることに。屋根は全部ガラス窓で透き通っている。クビを横に曲げると、目の辺りに桜の枝が今にもガラス窓から車内に入ってきそうだ。天井からも高い枝の花が車内に入ってくる錯覚を覚えた。この〝花見〟は知らぬ間の工作で愛のこうした花見は二年続き、愛はしみじみ話すのだった。
「世の中が進み、医学のおかげでこんなに足が不自由になっても今までどおり、いや、それ以上に花見が楽しめるようになった。世の中に感謝しなければいけないねえ」と。
 そこには、頬をほころばせていつまでも桜の花を見つめる愛の姿があったが、愛はその後、急な心筋梗塞で亡くなり、三度目の花見はかなえられなかった。
 寝ているような母を前に「お母さん。疎水の堤防の桜はいつまでも栄えて咲いていくでしょう。安心してお浄土へ行ってください。」
 母の笑顔に安心して家族は愛をみおくったのだった。 (了)