「あのころ」 真伏善人

 今年の冬は例年になく寒かった。昨年末から年明けにかけて雪が降り、いつぞやは十センチほど積もり,交通が乱れて大騒ぎになった。住んでいるこの地方は太平洋側といわれ、日本海側とよく比較されるが、雪に対してはひ弱なものだとつくづく思う。十五歳まで裏日本と言われていた地方に住んでいた身として、当時の辛さは大変なものだった。
 冬は長く、雪のことでは数々のことが思い出される。まずは住居である。戦災で失い、越してきた家とは、物置小屋に手を加えただけの隙間だらけで、屋根は杉皮ぶきのひと間だけ。そこは家業の仕事場であり、生活の場でもあった。筵を敷いただけのひと間に、七、八人が寝起きしていて、息苦しさは相当なものであった。

 冬がやってくると、それは寒かった。幸いなことに当時は幼かったので、寝るときはおばあちゃんに抱かれていたのが幸いであった。だが吹雪になると、隙間から容赦なく雪煙りが吹きこんできた。それはどうすることもできなく、ただ布団を頭から被り夜明けを待つしかなかった。眠ったのか眠れなかったのか分からない朝を迎えると、部屋中真っ白になっていた。こんな事がひと冬に何度あっただろうか。
 歳月が経ち、学校が冬休みになると近所からは誰ともなく家から出てきて雪玉を握り、ピッチャーよろしくと、的の木に投げつけたり、思いっきり遠くに弧を描かせたりしていた。それでも一緒に雪だるまを作ることなどはまるでなかった。そんな中で冬に一度あるかないかのかまくら作りがあった。こればかりは人数が必要なので、集まれた時に限っていたようだ。小学校高学年と中学生が二手に分かれて雪を積み上げ、中をくり抜き戦車に見立てる。時間をかけて作り上げると戦争ごっこになる。雪玉を鉄砲玉に見立ててぶつけ合うことから始まり、敵側の戦車を破壊するのが目的の遊びだった。興奮度が高まると当然危険度も増す。いつかは誰かが雪玉にツララを忍ばせて投げつけ、相手の顔に怪我を負わせることもあった。

 その後、我が家はようやく雪も雨も入り込まない家を建てて引っ越す。その二、三年後の冬休みに、とんでもない大失態をやってしまった。あれは年明けの出来事である。前年の春、同居の長兄に息子が誕生していて、よく子守りをしたり、させられたりしていた。前の日から雪が降り続き、夜が明けるととんでもない量の積雪になっていた。当時で二尺といわれ、ひと晩に六十センチ程も積もったのである。この越後平野の地帯で、山間部のような積もり方はしなかったはずである。
 驚くと同時に、これはまず外へ出てみなければと、朝食後に赤ん坊を背負って玄関の戸を開けた。すぐ前の道路にはこれまでの雪の上に見たことのないような降り積もりがあった。呆然とすると同時に足が無意識のうちに前へ出た。その瞬間であった。下駄を履いていた足が真後ろに滑り取られ、前かがみにつんのめったのである。その勢いが背中の赤ん坊を前方に吹っ飛ばしてしまった。血の気が引いた。一瞬置いてからの鳴き声が尋常でなかった。慌てて、道路まで飛び出した赤ん坊を素早く抱きかかえて家に入った。どれだけ叱られても、仕方がなかった。
 それにしても運がよかったのは、まだしっかりと踏み固められた道路ではなく、傷一つ負わずにすんだのだった。これがもし雪の降る前のことであったり、車でも通っていたりしたらと思うとぞっとする。この季節になると必ず思い出し、今後も忘れることはないだろう。

 その後、就職先が名古屋に決まり家を出ることになる。裏日本から表日本へだ。
 ここでは雪など滅多に降ることはないが、遠くの山々が白くなるのを眺めていると、裏日本へと思いが飛ぶのである。 (完)