「赤丸先生の旅立ち」 眞鍋京子

 三井寺の桜の花も綻び始め、春が待たれる季節になってきた。昨年暮れの真珠湾攻撃から日本への攻撃は次々と回数を増やしてきた。
(赤紙)若者たちは、一枚の召集令状を手に添え、きょうも氏神さまで祈願の挨拶をして出発して行くのである。見送りの人は日の丸をしっかり振って送る。

 永山は長い間、教師を勤め、配属将校も勤めている。黄色の帽子、襟元の黄色く飾られた黄色の少尉のネームが美しく輝いている。教練の時間は、軍服姿の五尺より一回り上背のあった永山の姿は、サーベルを下げ、ほれぼれと恍惚の体であった。
 そして。この永山にも召集令状がきた。永山はこの学年は一年生に入った時から同じクラスでずっと来たので、みな顔馴染みも同じであった。この三月で卒業するという矢先のことであった。この社会情勢では何時お召しが来るとは覚悟をしたものが、あとわずかの日数が名残惜しかった。
 畳一枚以上もある日の丸に各自名前を書き、思い出のひと言を書いて寄せ書きにする。日の丸の頂上には大きく『祝 永山先生』と書かれている。
 そのころ、千人針と言って手拭いに縫い針で一針ずつ縫ってゆく。千針縫い上がると、それを戦争に行く人の胴回りに占めていくと、弾にあたらない、という言われがある。世の奥さんたちはせっせと一針一針出来上がるのを励むのである。
 永山は出発当日、寄せ書きをした大きな日の丸と千人針を胴に巻いて出征した。見送りの人たちは大津駅の長いホームに溢れるばかりで、日の丸の旗の波であった。

 永山の学生時代は戦争中で教育のあり方も厳しかった。四十年経って今でも卒業生が同窓会で寄ると、一番に話題になるものがある。「永山先生は厳しいところがよくあったが、解らない所はとことん教えて下さったいい先生であった」と評判がいい。
 宿題を忘れて来ると、一番軽いおしおきは教室の片隅で黒板の方を向いて立たされる事であった。教室は薄暗くなって寒々としてくる。これで宿題を忘れて立たされるので二度目である。もっときついおしおきでなければ。応えなければ、と考えるのである。それは頭に赤いチョークで丸を書くことである。いがぐり頭のつるつるした頭に赤いチョークは、しみ込んでくる。頭を洗っても染み込んだ色はいつまでも取れない。万引をしても一度は許してくれるが、重ねると赤丸は許されない。

 あの戦争に翻弄された日々から、何年もが過ぎた。
 ある日。町の受診に来ていた増田が
「ごめんください。昔、商業学校でお世話になった増田と申します。あのとき頭に赤丸を書かれた一人です。あのときのことは今でも忘れません。きょうも偶然受信で来ていたら、永山先生のご家族のお顔が見え、急に思い出がこみあげてお声をかけさせていただきました。懐かしいですね」
 それから待っている間細々と昔を振り返り「いちどクラス会を呼びかけましょう」と言って別れていった。

 永山は、その後敦賀の連隊へ入隊し、こまめに生徒たちに便りをして来ていた。書いてくる内容には、やはり頭の赤丸の事が主であった。生徒たちは戦争のさなかでありながら、思い出話を書いて寄こしてきた。永山は航空便でたまに送られてくる教え子の手紙を、涙を流して何度も読み返した。そこには恩師への憎しみは微塵も感じられなかった。

 永山は終戦になって無事帰国出来、生徒の笑顔に会うことが出来たのである。(完)