『花便り』と『花の塔』 平子 純

 私の実家は土岐市の高地にあるので、名古屋より花が咲くのは二週間は遅い。かつては岩村城の砦だったようで、城壁が残っている。
 大叔母とは女学校が同じだったようで、卒業式の編み上げと袴のハイカラさんで有名な下田歌子が馬に乗って岩村城下からよくやって来たと聞いている。乃木希典が学習院長の頃、女官長だった歌子と学習院で皇族の教育をめぐりよく争ったと聞いている。
 岩村はもともと儒学の強い所、晩年は固物となった乃木さんも若い頃、特に名古屋で師団長をやっていた頃は、随分料亭『河文』で遊んだらしい。人間乃木と歌子、きっと激しい争いだったろう。
 話は飛んだが、山にある私の家の春は猩猩袴の群生から始まる。ここかしこに金星のような赤い球体の姿を見せる。なぜ猩猩袴というのかは分からない。能を踊る時の袴の模様がそうなのかもしれない。 その後、同時といって良い位いろんな花が咲き乱れる。瑞々しい水仙は歌詞のように七つ束ねて恋人に捧げるのが良い。枝こぶしは頼りない花弁を風になびかせる。雪柳は満開になると枝がほとんど見えない、まるで雪に覆われたようだ。山つつじは土手を真っ赫におおう。桃色のもある。片栗の花は袋状に成長するとあっという間に十字の花を咲かせる。薄紫が風になびいたのも二・三日で閉じてしまう。山桜が咲き始めるとすぐに新緑が始まり蛙が鳴き夏が近づく。
 私の村から十キロ程東へ行った所に曽木温泉がある。今は、スーパー銭湯に改築されているが以前は、中馬街道の宿場だったと聞いている。バス停前に五輪の塔があり、花の塔の銘がある。一一九一年、京へ向ったのか鎌倉へ向ったのか一人の侍が当宿している。頼朝が鎌倉幕府をつくる一年前のことだ。
 宿場には女郎も居た。丁度、春の花々が満開の時だった。侍は一夜の慰めと女郎を買った。以前、何処かで会ったような気がする女であった。年は二十歳頃か美しいが細身で弱々しい印象を受けた。           
「ずっとここには来たことがないが、そちとは何処かで会ったことがあるか」侍は、女に聞いた。「いえ、私はこの宿場で生まれ育ちましたからお侍様にお会いしたことなどありません」女がか細い声で答えた。
 侍は、ずっと以前この中馬街道を通り京へ行ったことこのことを思い出した。二十年程前のことだ。 若侍として頼朝のある命を受けてのことだった。一生懸命かつての記憶を思い覚まそうとした。ようやくたどり着いたのは、目の前の女が昔契った女とうり二つということだった。「お前の母御は、どうしておいでじゃ」侍が聞いた。「母者は、私がもの心ついた頃には亡くなっておいでです」女が答えた。侍の頭の中でぐるぐる回るものがあった。かつての思いが鮮明に浮き上がって来たのだ。桜の下に美しい娘がいた。回りは誰も居ない。
 侍は、娘の手を取ると山の方へ無理やり引き摺っていた。
「御無体です」  「何も言うな」
 侍は抵抗する娘の純血を奪った。
 山桜の花弁が時折、雨のように落ちて来た。
 あの時の娘の臭い、今部屋にいる娘の香、同じだった。二人は血縁に違いない。
 それは言わず、侍はこの夜女を抱いた。
 深夜、侍が気付くと娘は座ったまま侍の顔を覗き込んで居た。先程とは違い、真白く蒼い顔で幽霊のようだった。瞳は金色に光っている。障子を通し桜の花弁の影が何枚も見えた。侍は、恐ろしくなって来た。
「ホ、ホ、ホ」娘の異様な笑い声が鳴り響いた。
「貴方は私の父親、母は産後の日立ちが悪く死んだわ」そういうと女は風の如く消えた。侍は、村人に尋ね娘が死産だったこと、そして母子の供養として五輪の塔を立てた。