「食べることとは」 牧すすむ

「これ、よかったら食べて下さい」と妻に手渡されたのはまだ熱々の焼き芋だった。親しくしている御近所の方がわざわざ持って来て下さったのだ。
「ありがとうございます」と礼を言い部屋に戻って紙包みを開けると、どこか懐かしい甘い香りが「ツン」と鼻を突いた。早速二つに割って焦げた皮を剥ぎフーフーと息を吹きかけながら頬張ると、香りをはるかに上回るとろけるような甘さが口の中いっぱいに広がり、思わず笑みがこぼれたのは言うまでもない。然しただ一つ、それが夕食前の時間だったことを除けば…。半分でも十分な大きさは、しっかりと二人の腹を占領したのである。

 それはそうと、最近のテレビには食べる番組がやたら多いことに気付く。真面目クッキングからクイズものやお笑いまでと幅は広いが時間帯を問わずなので少々うんざりする。チャンネルを変えても似たような場面が映し出され、中には食べ物をろくに口にもしないでおふざけのネタにするタレントさえいる始末。大食いの番組に至っては肩で息をしながらも無理矢理口へ押し込み半分以上も残してしまう人も。これに何の意味があるのか。そんな番組にも料理を提供する側は一切の手抜きもせず黙って作り続けている。空しいし実にバカげたことだ。
 一方世界に目を向ければそこには地球規模の飢餓が蔓延し、瘦せ細って命を失う子供達の姿が毎日のようにテレビに映し出されている現実―。戦争や自然災害等と理由は様々だが、少なくとも食べ物を遊びの道具になど決してするべきではない。そのことだけは人としての自覚が強く求められるし、又そういう番組を作る側もそれを面白がって観る側もどちらにも大きな責任が有り、反省して欲しいものだと心からそう願って止まないのである。
 お硬い話はこれ位にして次の話題へ移ろう。

 夕方仕事帰りの道すがら久しぶりに雀を見た。それもとある喫茶店の入り口前に数十羽が集まり盛んに何かをついばんでいた。誰かがエサを撒いたのだろうと思ったがそれにしても多い数だ。
 人が近くを通っても全く気にする様子もなく食べ続けている。立ち止まって暫く見ていたが微笑ましい光景だった。
 考えてみれば子供の頃、田んぼや農家の庭先にはおびただしい数の雀が群がっていて可愛いさえずりもちょっとした騒音とでも思える程の賑やかさだった。
 雀ばかりでなく田植え時期の水溜まりにはメダカや小鮒等が泳ぎ回り、エサの小虫を追いかけていた。然し時は流れ、そんな田園にも家が建ち道路が出来、風景は激変の一途を辿ってきた。昔を知る者としては淋しい限りである。
 便利と不幸は常に背中合わせの一体なのだが、人間は皆大いに知恵を働かせ、この恵みある自然を守っていかなければならない。雀が落穂をついばみ、メダカが小虫を追い、白サギがどじょうや蛙、ザリガニにクチバシを伸ばす、そんな光景をもう一度この目に見せて欲しい。そして、それが永遠であることを日々願うばかりである。(完)