「内緒の理由」 黒宮涼

 夫からそれを聞いたのは、二年と少し前のことだった。
「お母さん、癌なんだって」
 私は自分の耳を疑った。普段はほどんと泣くことのない夫が、瞳を潤ませていた。
 呆然としながらも、ただ事ではないことを私は察してしまった。
 夫の母親は、治らない病気にかかってしまったのだという事実が、私の胸を打ち付けた。
「大丈夫か」と問いかけるのは簡単だった。けれど、そんな一言で済ませられる問題ではないことを私は知っていた。私は夫のことをただひたすらに抱きしめることしかできなかったのだ。
 
 私の中でお義母さんは働き者で、綺麗好き。裁縫の得意な優しい人だった。
 初めての対面は、夫と交際していた頃。家に遊びに行ったときだった。コミュニケーションが苦手なうえに、緊張していた私は挨拶するだけで精一杯だった。けれどお義母さんは、写真やビデオを見せてくれたり話しかけてくれた。帰り際にはパンをもらったことを覚えている。
 癌が判明してからのお義母さんはずっと、入退院を繰り返していた。薬の副作用で全身に湿疹がでたりしたが、それでもそのころはまだ表情は明るかった。
 夫の家族は元気なうちに。と、お義母さんのしたいことを色々叶えてあげていたみたいだった。具体的に何を。とは書くことができないが、聞いている範囲では、色々なところに旅行していた。その旅行に私と夫が同行したのは一度だけだが、大事な思い出が作れたと思う。

 そんな状況の中、私は自分の両親にこのことをずっと内緒にしていた。
 打ち明けたのはつい最近のことだ。
 当の本人が今の姿をあまり見られたくないとの理由もあった。
 けれど、話を切り出せなかったのもある。
「親孝行は親に心配をかけないことだからね」
 いつか聞いたそんな言葉が、頭に残っている。
 黙っていることが心配をかけないことならば、できるだけそうしたほうがいいかもしれない。
 特に私の母は施設にいる祖母のことで、色々と大変そうだった。母に負担をかけたくはなかった。

 今年に入って、長らく入院していたお義母さんの自宅療養が決まり、そろそろかもしれないと深刻な顔をして告げられた日。私たち夫婦は、私の両親に病気のことを打ち明けることを決めた。
「やっぱり。おかしいとおもっていたのよ」
 怒ったような、呆れたような。そんなどちらともいえない顔をして母は言った。
 一方父は、ただ黙って私たちの話を聞き「そうか。大変だね」と静かに言った。
 見舞いに行きたそうな母には申し訳なかったが、家族の希望で我慢してもらった。
 私たち夫婦は以前より頻繁に家に行くようにした。ベッドで寝ているお義母さんを見るのはつらかったが、そんなことを思っても口に出せないし出してはいけなかった。誰が一番つらいか考えると、泣きたくなった。

 このエッセイを書いている途中、訃報が届いた。
 葬式も無事に終わり、落ち着いてきたので書いている。
 別のものを書き直すか悩んだが、せっかくなのでこのまま残そうと思う。
 読み直しながらまた泣きそうになっているが、進まないので今は耐える。
 私からお義母さんには「ありがとうございました」という言葉しか送ることができなかった。おつかれさまもごめんなさいも、そぐわない気がしている。ましてやよく頑張ったねなんて言えない。五年、六年という短い間だったけれど、本当に感謝しかない。(完)