「日本海」真伏善人

 海岸の砂浜に近づくと子供は海に向かって走り出す。と言われているらしい。
 ここに一枚の黄ばんだ白黒写真がある。背景は日本海で、老若男女がざっと五、六十人。子供と若い衆は裸で、ほとんどが下半身黒いふんどしだけ。爺様に抱かれた幼子もいる。もちろん、自分も寄り合った人びとの間から顔をわずかに覗かせている。これはおそらく小学校にあがるか、その前かというところだろう。
 一番前の列には、よくいじめられた八百屋のむすこが、まぶしそうな顔で真中にしゃがんでいる。二列目には隣に住んでいる同い年が泣いているのか、ただ目をこすっているだけなのか白いパンツ一枚で左端に立っている。三、四列目には、その家族が四、五人まとまっている。ざっと見ると見覚えのある人たちは三分の一くらいか。いろんな記憶の断片が浮かんでくる。それにしても、自分の両親、兄妹が写っていないのはどうしてだろう。貧乏暇なしで多分、隣の家族にひとりだけ同行させてもらったのだろう。
 言葉や絵で海という景色はおよそ知っていたが、目の当たりにしたのはこれが初めてなはずである。このときの記憶は、もうとっくに失われている。
 
 今、手持ちの写真の中には、背景に海というのが数枚ある。これは社内旅行であったり、寮の人達に誘われてついて行っただけもので、泳いだりはしていない。
 海が嫌いというわけではなく、むしろ海原の壮大さに心を奪われたこともある。だが海岸にたたずんでいると、音もなく盛り上がって、せまりくる海水が何とも恐ろしく、身がすくまることもあった。
 これも随分前のことであるが、親しい友人が突然もぐりに行こうと言いだした。意味が分からず聞き返すと、海へ行こうということであった。海か……と考えた。日本海には太平洋と違い、波は荒く岩だらけで切れ込む深さというイメージがある。まあついて行くだけにすればいいと同意する。
 朝早く友人の車で数時間、遠い遠い昔以来の日本海へ出る。近づくと海岸はやはり岩だらけでしぶきも見える。岩と岩の間を慎重に下りる。砂浜というよりも砂利を敷き詰めたような浜で面喰う。
 辺りを眺めているうちに友人は早くも海水パンツになって海岸へゆうゆうと向かっている。振り向きもせずに、そのまま海面になだれ込んで行く。見とれるばかりであった。そして言葉通り逆さになって水中に消えた。息をのんで見遣っていると、ようやくというほどになって顔を突きあげた。いったいどれほどの肺活量があるのだろうか。
 それを何度か繰り返して戻ってくると、手には黒い塊を何個か持っていた。刺々しいサザエであった。それを岩の陰に置くと、彼はついてこいと強制した。尻ごみしたが否応なかった。おそるおそる沈んで見る海中は初めてであった。冷たさは川よりもやや温く、水中眼鏡で見る世界は異次元であった。海草の名前も種類も分かるはずがなく、ゆらゆらとするその動きは、踊っているようでほほえましくなる。息が苦しくなるまで水中を見回し続けた。きれいにメイクした小魚には川魚のような鋭い警戒心はなく、息を継いでは戯れた。これが海中の景色なのかと次第に身体も心も馴染んでくる。
 海から上がると岩陰に身をよせて焚き火をする。そして獲ったばかりのサザエを放りこむ。友とふたりでただ黙って沖に目を細め、ちろちろ焚き火に目を移す。海は静かで果てしない。潜れば屈託のない生きものに癒される。こんな世界があったのだ。
 
 そういえば、あの黄ばんだ写真の中の自分は、初めての海に向かって本当に走ったのだろうか。(完)