「スコール」山の杜伊吹

 べったりとはりついたシャツ、蒸し暑い空気にはもううんざりだ。梅雨の時期、なにより厄介なのは、髪である。年をとり、くせ毛が一層強くなったように感じる。何度ブラシでとかして強いワックスで撫でつけても、うねりは直らない。くせ毛の人は強情だと言った人がいた。そんなことを思い出して、諦めてブラシを置く。
 気晴らしに海を見に行くことにする。国産の黄色いオープンカーは独身だから買えた。海岸線を走ると、海風に髪がなびく。湿気を含んだ風を受けると、いつもはヘアスタイルの乱れが気になるのだが、今日は朝から髪型がキマらないのだからそれも気にならない。天気予報の言うように台風が来るのだろうか、遠くに黒い雲が見える。最近は年のせいだろうか、低気圧と一緒に、頭痛もくる。
 あの空は遥か外国の南の島へと続いている。海岸線に生えている無数のヤシの木も、風にたなびいている。強風にも倒れないたおやかさ、その姿を見ていると、きまってあの人を思い出す。タイミング良くカーラジオからセリーヌ・ディオンの歌声が聴こえてきた。涙が込み上げてくる。

 東京のコンクリートジャングルで出会い、仕事仲間に秘密で渋谷で午後6時に待ち合わせ。2人で成田から南の島行きの飛行機に乗った。到着したのは手作りのような小さな空港だ。青い空が広がり、白い砂浜にコバルトブルーの海が待っていた。離れコテージで旅の疲れもそこそこに愛し合い、けだるさを楽しんだ後、海へ走る。潜って、魚になる。色とりどりの魚が仲間だと思ってつついてくる。
 片言の英語で現地の人と仲良くなり、夕飯をご馳走になる。手作りの強い酒を飲んでコテージに戻りまた愛し合う。その後たいがいの男女と同じくケンカが起き、女が部屋を出て行く。迎えに来た彼とまた愛し合う。流れていた現地のFMはセリーヌ・ディオン、当時の大ヒット映画「タイタニック」のテーマ曲を繰り返し流していた。
 2日目は雨、日本のように一日中降り続くことはなく、スコールですぐに太陽が顔を出す。雨が降る前に「もうすぐ雨が来るよ」と教えてくれたあの人。明るい所で見ると、体に無数の傷があった。私は彼のことをほとんど知らないことに、このときやっと気づいた。
 日本に戻ると鬱陶しい梅雨であった。一緒に帰ってきたあの人は、会社からいなくなった。携帯に連絡しても繋がらなかった。

 OLを辞めて、K航空会社のミスコンに応募した。ミスに選ばれ何度も南の島へ行った。同じ青い海を見ても気持ちは晴れず、じめじめと彼を思う女は日本の梅雨そのものであった。その後、所属したモデル事務所からレースクイーンの誘いがあり、引き受けた。サーキット場で思わぬ人と再会した。彼はレーサーになっていた。
 お別れを言ってくれなかったから、いつまでも待っていた。一度だけ2人で会ったが、気まずい時間が流れただけだった。棄てた男と、棄てられた女が話す事など何もなかった。月日が経ち、海の見える街に引っ越した。遠くあの島へと続いている海を見ていたかった。相変わらずヤシの木はあの人に見える。
 長い人生の一瞬、2人の時が交差し、離れていく。光り輝くような美しい時代はその一瞬しかない。どうせ。人は死んでしまうなら、あの瞬間にタイタニック号のように沈んでしまいたかった。海のしょっぱさは、涙の味、もう南の島へ行くこともないだろう。

 嵐がくる。いまだに海から離れられない私の体に降り続くのは、スコールではなく日本の長雨なのだ。(了)