「【泣かんとき】。ある家族の風景」伊神権太

 どの家族にも喜びや悲しみの風景がある。遠い昔も、今だって。わが家とて同じだ。そう言う私自身、今はチョット辛く、悲しく、胸が痛んでいる。
 というのは、妻が先日(6月27日)、自転車に乗っていて路上で転倒。救急車で病院に運ばれ、左大腿部頸部骨折という悪夢に襲われたのである。そんなわけで私は彼女の手術の間、病院の控え室で無事終わるよう祈りつつ、このテーマエッセイを書き始めた。人生いろいろ。山あり谷あり、だ。そして家族はそのつど危機にさらされるが、その分、絆は深まっていく。
 ―もうずいぶん昔になる。話は能登にいたころに遡る。やっとヨチヨチ歩きができるようになったばかりなのに。寒さからきたリンパ管腫に襲われ二度の大手術を乗り越え、ほっとしたと思ったら今度は熱湯が煮えたぎったヤカンに激突、大やけどを負った三男坊。
 それより前には新聞社の通信局舎階段を二階から転げ落ち、救急車で運ばれた次男。名古屋の私立中に入学してまもなく私の転勤で涙ながらに転校した長男。皆、こうした艱難辛苦を一つひとつ乗り越え、今がある。

 森進一の「襟裳岬」が流行っていたころ。若さゆえか。志摩半島で地方記者生活をする私のもとにダイビングよろしく、飛び込んできた妻に至っては、楽しく幸せだった分が多いだけ、突然の不幸に何度か襲われた。今回の悲劇は、東日本大震災の年に行った脳腫瘍摘出の大手術に続くものでこんどは、これまた世界を震わせ続ける新型コロナウイルスによるコロナ禍にあわせでもするような、わが家にとっては思いもしなかった不幸、大事件発生となったのである。
 そして。生後13日目から母の胸に抱かれ中国東北部・奉天(現瀋陽)から日本への引き揚げ開始で人生街道が始まった私は、といえばだ。少年時代の柔道の稽古さなかに起きた右足複雑骨折、寒い朝に突然見舞われた名鉄駅での転倒入院、最近では右肺三分の一の切除とこれに続く右ひじ骨折など。いろいろあったが、能登にいたころ断崖絶壁から夏の海に真っ逆さまに自ら飛び込み周囲をあ然とさせたことなど、幸せ余っての無謀な行いとなると、数え知れない気がするのである。
 海に飛び込んだ日は、確かモントレージャズフェスティバルの誘致に成功した和倉温泉に歓喜してのことだった、と記憶している。

 今回の妻の大腿部頸部骨折による入院手術では母を心配する長男から「回復して歩けるようになったら、小牧のメナード美術館か、どこかに行きましょう。ただコロナもあるのでゆっくりで良いと思います。短歌の件ですが、おかあさんのブログ欄には載せられなくても、毎日作って下さい」とメールが入り、ほどなくして「短歌ではなく俳句でした。間違えました」の訂正メールも。
 これに対して私は「ありがとう。おかあさん、俳句はむろん、短歌の方も七尾の短歌の会【澪】に所属し作っています。おかあさん短歌では若いころ、栄誉ある長谷川等伯賞の初代受賞者です。俳句も中日(東京)新聞の<平和の俳句>賞など数々の賞を得ており、文学者としては私よりはるかに上の実力者です。おまえたちは知らないだろうが、今は亡き俳句界の巨星・金子兜太さんからは以前、NHKの俳句番組の助手として一年間出演してほしい、と懇願されたことがあります。当時は私が忙し過ぎて、こどもの世話もしなくちゃならないので丁重にお断りしたことがあります。だから、おかあさん。手術が終わって落ち着いたら、また俳句も短歌も作り始めるかと思います。詳しくはネットで調べるとよい、と思います」と返信した。

 いやはや、この世の中。いつなんどき何が起きるか知れたものでない。でも、こうした時は決してめげることなく、手に手を取り合って行くしかない。そう思う昨今である。そういえば、三男坊が金沢医科大学病院に入院していたころ、こう言って私たちを逆に励ましてくれた。
「オトン。オカン。泣かんとき。ぼく、頑張る。がんばるから」。 (完)