「便りはどこへ」 加藤 行

 現代は「便り」の方法が多種多様で巷には情報が溢れ、最新機器、商品が賑わい目あたらしさに日々進歩の驚きがあります。不特定多数の受け手に向けての新聞・雑誌・宅配便・ラジオ・テレビ・広告・携帯電話・インターネット………限りない社会変化の波が大きくなって来ました。
 それに、そのものを考え創造する天才的頭脳の摩訶不思議さに言葉も浮かびません。大衆は飽くなき「繋がり」を求め、時代に取り残されない様に追い続け、そして社会はどんどん容赦なく変貌して行きます。そして、付き合えない私は時代に立ち往生しています。                      
 その世相の象徴でもある「携帯電話」は誰も彼もが生活の必需品として当たり前に持っています。猫も杓子も携帯電話の時代、町中をうろついている野良猫達さえも、こっそり持っていて情報交換し合っているのではと、錯覚すら覚えてしまう程です。街中のあらゆる場所で携帯電話で話す人、メールを打ち込んだり、読んだり、写真を撮ったり、ゲームをしていたりと多機能性には驚きですが、あちらこちらで携帯電話と一心同体化現象の光景は、持たない私には異様でさえ感じることもあります。何故?「持たない」のかは、まず必要性を感じないからです。行動半径も小さい、経費も無駄、持ち歩きに面倒だ、いつも電話に拘束されているようだ……。
 そして私は時代からはみ出していきます。街角の公衆電話が少しずつ消えてく寂しさや不便さはイヤでも時代遅れを感じるのです。
 人は「便利さ」を追求して、すばらしい天才的技術者の恩恵に与かり科学技術は進歩し便利な物やら楽しい物が身の回りにいっぱい増えて快適な暮らしを手に入れました。しかし皮肉なことに、情報の氾濫によって多忙さに翻弄されて安らぎ、癒しを求めているのも現代人の姿でもあります。
 果たして人は幸福な未来に向かって歩んでいるのでしょうか……。
 ひと昔前、若者の間で「文通」の流行がありました。遠く離れた未知の人と「便り」を交換しながら親交を深め合う新鮮な感動がありました。それは手書きの温もりと気持ちを分かち合う喜びがありました。そして、出会いに心ときめかせた想い出、後々密かに、いにしえを偲び読む楽しみもありそうです。
 若い二人の出会いといえばアメリカの短編作家でオーヘンリーの「緑の扉」という広告を題材にしたファンタジーな作品があります。大都会ニューヨークに住む冒険好きの孤独な青年ルドルフは、ある晩ひとりで街を歩いていると、一枚のチラシを受け取ります。チラシには「緑の扉」とだけ書かれていました。運命的なものを感じた彼は『冒険が自分を呼んでいる』と、そのビルの二階へと駆け上がり「緑の扉」をノックして、腹ぺこの娘と運命的な出会いをします。三日間、何も食べていない衰弱している孤独な娘の為に急いで食料を買出しに行き、やがて孤独な二人のロマンスが始まることになります。
 それでは「緑の扉」のチラシは一体なんだったのでしょう。それはただ、街の劇場で上演している芝居の題目の広告だったという訳で「便り」が運んだ孤独な二人のラブロマンスの物語でした。
 人と人の関わりの中で「便り」は必要不可欠な手段として確固たる存在価値があります。
 文明の利器は世界中の「便り」を瞬時に伝達して非常に便利な生活環境を提供しました。その一方で、高齢化社会に向かう社会の片隅に一人暮しの「無縁社会」に住む人達も増えつつあるのも現代社会の一面でしょう。
「便り」の手段を持てなくなった孤独な高齢者、一人暮しをする人達も目立つ現代です。
 隣近所の付き合いが希薄になった昨今こそ、原点に返って『顔を合わせた生の声』を届ける「便り」も大切です。
 しかし、人間は便利なものを手にすると、とかく面倒臭さを遠ざける傾向があり厄介な事だと思うのは、私だけでしょうか………。