「雨記者」 伊神 権太

 雨には遠い日々のそれから、最近まで随分と泣かされてきた。
 遠い日では七夕豪雨や長良川決壊豪雨、長崎大水害などだ。

 七夕豪雨は昭和四十年代の後半、その年の七月七日に起きた。
 参議院選の投票日でもあったが、豪雨のなか、御薗村の投票所の投票用紙が溢れ出た水面にプカプカと浮いて流され投票がやり直されることになった。当時、メディアというメディアがそれこそ、全国各地から御薗村に集結した。世に言う“やり直し選挙”である。
 七夕豪雨となったその日、私は御薗村を管内に持つ伊勢支局からの応援取材要請に新車「サニー」で志摩通信部のある阿児町鵜方から向かつた。ところが、伊勢の街中に入ったところで車は水没寸前に。やむなくエンジンを一杯にふかして近くの水の浸かない場所にまで辿り着き、そこに車を置いて伊勢支局に向かった。街の中心部に近づくに従って水量は増える一方で最後は腰まで浸かって、やっとこせ支局に到着した苦い思い出がある。
 さて、支局に援軍として着いたはいいものの、一階の事務所では既に原稿用紙がプカプカ浮き、同僚記者が重要書類を二階の支局員住宅に持ち運ぶのに大わらわだった。私は、ただ呆然と立ち尽くした。これでは、どうすることもできない。「何のための応援だったか」。手がつけられない状態に私自身も書類運びなどを手伝った日がつい昨日のようだ。
 それでも、それからしばらくは御薗村でのやり直し選の取材合戦に連日狩り出され、地方記者としてはなかなか味わえない取材体験をしたのである。

 それから二年後。岐阜で一線記者として駆け回っていたころの話だ。
 実は、その年の秋、安八町で長良川の堤防が決壊したが、いつ果てるともない雨との戦いはそれより前から延々と続いていた。私の記者時代には、ほかにも長崎大水害や嬉野豪雨、山陰豪雨禍など数え切れないほどの雨取材をしてきたが、あれほどまでに長い雨との格闘は、おそらく、あのときを除いてはほかにない。それこそ、来る日も来る日も毎日がびしょ濡れになりながらの取材が「これでもか」「これでもか」といった具合に続いた。
 雨取材の始まりは、長良川での鵜飼舟転覆だった。
「長良川の増水で鵜飼舟が転覆、船頭は助かったようだ。すぐ現場に行くよう」。
 デスクの指示で私は現場に駆けつけ原稿化、夕刊本紙に記事をたたき込んだ。ホッとする間もなく今度は「穂積の牛牧(うしき)団地で住宅が水没してしまった。現地ルポを」とデスクから指示があり、現場へ。三日間にわたって小舟をチャーターし団地の表情をルポし続けた。この間、漆黒の空から槍のような雨は延々と降り続いていた。

 それどころか、やっとルポから解放されたと思うまもなく今度は「岐阜市郊外で民家三、四軒が土石流に押し潰されたらしい」の連絡が入り、またまた社有車で同僚とともに現場に向かった。案の定、道路の至るところが寸断され冠水、行く手を阻まれた私たちは車を高台に置き、民家で自転車二台を借り現場を目指した。が、現場が近づくに従ってとうとう自転車までが水没、やむなくこの二台とも近くの高台に放置し、カメラを雨や水に濡れないよう雨傘と両手で高くあげ、目の前の写真撮影をしながらの行軍となったのだった。
 そしてー民家まであと一息、水が胸まで迫ったところで、水の勢いが急に強まり足がふわりと地上から離れ、からだ全体が押し流されそうになった。あらん限りの足の力で踏ん張り、水流の渦から脱出しながら、カメラのシャッターをカシャカシャ、カシャと何度も切ってみた。カメラ本体が相当に水をかぶっているので役立たないと半分あきらめ、それでもシャッターを押し続け、無我夢中で現場にたどり着き、持参した無線でなんとか一報を送った。あとで知ったが、突然の水流は長良川の支流・伊自良川が決壊したためだった。
 総局に戻ると、時の総局長が「このままだと、長良川は警戒水域を超え岐阜全域が水没したとしても不思議でない。みんな、その時に備え、うろたえることのないよう」と深刻な表情でゲキを飛ばしていた。あのときの緊迫感はいまもって頭を離れない。運命は不思議なもので、翌早朝、空が嘘のように晴れ「やっと長い水害取材から解放された」とホッとしたその日に安八で長良川が決壊、号外初報の写真は私が水流の中で撮った一枚だった。
 ほかに一宮は大江川河畔での相合傘での花見、伊豆半島の天城峠で出会った私雨の激しさなど。雨はいつだって異なもの、人それぞれの人生街道に映し絵の如く、寄り添っている。

(完)