「ああ青春」  真伏善人

 青春の入口は、五、六百人が居住する独身寮であった。部屋の先輩たちに「お願いします」と訛りのある挨拶をして住人に加わる。部屋は十二畳で、そこに少なくても七、八人、多い部屋では畳一枚分が個人の居場所となっていた。
 職場はうれしいことに女性がほとんどで、男子は数えるほどしかいなかった。若い女性と言葉を交わしたことは皆無に近く、手とり足とりで教えてくれる日々が、それはそれは楽しかった。しかしそんなことがいつまでも続くわけがない。やがて先輩男が辛く当たってくることが始まる。これが現実なのだと、目立たぬように気を配った。ある日のこと、リーダー格の女性に声をかけられる。姿勢をただすと「なによ、その服装は」と正面に近寄るやいなや、「もっときちんとしなさい」と外れているボタンに手をかけてはめてくれるのだった。そしてズボンに手をかけ、はみ出しているシャツを押しこんでもくれた。そこでの息遣いと温かい言葉に体の芯が溶けてしまい、「はい、これでよし」と言われても、放心状態だった。その日はもう、全く仕事にならなかった。
 職場にも慣れ、人間関係も出来始めると、同僚の女性関係が気になってくる。誰も言葉には出さないが、生活態度が変わってくるのですぐに分かる。夕刻になると、ひとりでそっと部屋を出て行くことや、洗面所の大鏡をずっと見ながらポーズをとっているのがそれだ。
 どうしても気になって仕方がない女性がいた。色白で細面。笑うことなくほほ笑むだけで小股で歩む。日に日に惹かれていき、思いは強くなった。これはもう打ち明けるしかないと決める。手紙を書いた。何度も書き直して渡す機会をひたすら待った。ポケットに忍ばせ何日過ぎただろう。機会が訪れた。どちらもひとりで、すれ違う直前に足を止め前に立つ。驚く彼女。心臓が破裂しそうなる。「これ」とだけしか言えなかった。白い封筒を押しつけて足早に通り過ぎた。
 約束の日の夕方。会社からほど近い公園へ行き、高鳴る胸に手をやって待つ。誰かがやってくる。あの歩き方は彼女ではない。先輩女性であった。「あの娘は付き合っている人がいるから駄目よ」と白い封筒を突き返してきた。黙って受け取るしかなかった。もう会社を辞めて消えてしまいたかった。
 どれほど日にちが経っても、先輩や同僚たちがデートに出て行くのを見かけるとやはり悔しかった。こんなことではと、気持ちを前に向け、仕事で言葉を交わしている女性たちに、ダメもとで押してみると、意外にもいい返事をくれた女性いた。天にも昇る心地の初デート。陽が沈むころから門限近くまで、ただただ歩いた。それだけで嬉しかった。だが、どうしてなのか次の約束は取れなかった。その後も機会は訪れたが、何度も同じ結末だった。
 やがて女性の職場から男どもの職場に移ることになる。荒い動作と口喧嘩、いやがらせ、果ては見えない所で暴力と、揉みに揉まれて鍛えられていく。パチンコ、麻雀、競輪と、勝っても負けても、居酒屋、スナック、キャバレーと、仕事のことなどすっかり忘れて午前様。そんな生活が日常化していた。一方では新しい生活を求めて独身寮を出て行く先輩、同僚達。しかし、この馬鹿ものは裏の青春真っただ中で、その気はさらさら無くなっていた。当然仕事がおろそかになる。給与査定も辛くなり、とうとう後輩に追い抜かれる。誰をも恨むことはできなかった。どこへ逃げることもできなかった。おろかな青春は、ただ貧しく淋しい日々だったのである。 (完)