「夢の行方」 牧すすむ

「努力」。考えてみればなんと奥深い言葉なのか。子供の頃は学校で、家では親からさんざんに言われて育った。社会に出た後は周りの人達からそれこそ〝耳にタコ〟が出来る程に聞かされもした。だからと言ってそれがそもそも実になったかは残念ながら今も答えは出ていない。努力とはそれ程に難題なのだ。

 幼き日、父が作ってくれた木琴に興味を持ちその後は電動オルガンに傾向した。然し練習曲のレベルが上がった時大きな問題が発生! 鍵盤が足りないのだ。元々オルガンとピアノでは鍵盤の数が全く違う。
「ピアノに変えなさい」。と先生からの強い勧めもあり母にねだって買ってもらった。とは言え当時は家にピアノが有る家庭などそうざらには無かった時代。今にして思えば親には感謝のひと言でしかない。
 板の間に置いた真新しいピアノの音は心地良く響き、自分が奏でる曲を何倍も何倍も素晴らしいものに変えてくれる魔法の力を持っていた。当然教室の発表会にも参加し胸をときめかせたことがまるで昨日の出来事のように鮮やかに蘇って来る。でも、それらは本当の意味での努力だったのか、只単に〝好き〟が勝っていたに過ぎなかったのか、今も解けない疑問として残り続けている。

 その後は十代半ばでクラシックギターの世界へと突入。ナルシソ、イエペスの奏でる美しくロマンに満ちた名曲「禁じられた遊び」に心底陶酔し、指に血が滲むのも忘れ練習に励んだ。
 そしてさらに、その流れは進化を求め遂にはバンドを結成、電気ギターを掻き鳴らして正に青春を横臥した。ビアガーデンや様々なイベント等に呼ばれ僅かな小遣い銭を貰うも気分は一端のミュージシャンであった。

 然しやっぱりそれも飽きてしまい二十才を過ぎる頃には次なる目標が歌手へと変化した。バンドを離れ歌謡教室の門を叩いた日、先生から「何か歌ってみなさい」と言われ緊張の中でも熱唱したが何んの曲だったかは覚えていない。「いい声してるねェ、君はイタリア式の発声法を勉強したのかな?」と聞かれて驚き、「いいえ」と答えはしたが先生にはそう聞こえたようだった。そして始まった歌手への道。ピアノ伴奏による個人レッスンは厳しいものだったが楽しかった。既に上京し歌手となってテレビの中で活躍する先輩達を観る度に、「いつかは自分も!」と胸が鳴った。

 そんなある日、一人の先輩が一緒に上京しないかと誘ってくれた。小躍りして喜んだのも一瞬、その先へ一歩踏み出せない自分がそこにいた。母子家庭という事情だ。若くして亡くなった父の代わりに家業を継いだ母と兄弟を残しひとり上京する決断、又それを口にする勇気がどうしても出せなかったのだ。
 暫くは歌う気力も無く悩み続けた日々の中で、ハッと思い付いた歌に関わるもう一つの方法。「そうだ、作曲だ!」。幸い先生は作曲家でもあったので自分の気持ちを素直に打ち明けると、「やってみなさい」との励ましの言葉。行手に灯りが見えた瞬間だった。それからは必至に曲を作りアドバイスを受けては又作るを繰り返した。初めて自分の曲がレコード化されたのは数年後。ヒットとは程遠かったけれど小さなレコード盤を胸に抱いたあの日は今も忘れてはいない。その後も多くの曲を作りレコード化にも恵まれた。チェリッシュ、芹洋子、大川栄策、岡ゆう子等の顔ぶれもあったが、中でも一番のお気に入りは「恋の犬山」。都はるみが唄ったこととご当地ソングブームが重なって大きな話題を呼び、現地犬山市では「都はるみショー」が催される程の人気ぶりだった。
 然しそれも風の流れと共に忘れ去られていたある時思い掛けずのリバイバルが興き。今もカラオケでは全国配信中であり多くの人達の愛唱歌となっている。嬉しい限りだ。

 ところで私にはもう一つ「トコタン冬物語」という想い出の曲が有る。明治の初期、北海道開拓に赴いた尾張藩士をテーマにした詞が出来、作曲の依頼を受けた。その地は八雲町と言い今も小牧市との交流が続く。曲を作った事でお招きを頂き開拓者が眠る墓地でギターを弾き歌った。そしてその様子が後日写真と共に大きな記事として新聞に掲載された。取材に同行したのは当時「中日新聞小牧支局長」だった伊神記者、現「熱砂」の主宰であり重なるご縁に心から感謝している。

 そんな私も三十代の後半を迎え、生活の為にその頃ブームとなっていた大正琴の講師を始めた。昼夜に亘る教室廻りの多忙に紛れ、ギターやピアノは遠い物になってしまったが、今一度今回のテーマに戻り過去を振り返ってみた時、何一つ「勇気と努力」に結び付いていない事に驚く。チャンスは幾度となくあったはずなのにー。と真摯に後悔もする。
 もしも自分に二度目の人生が与えられたなら、今度こそ、今度こそはと拳を握り締める私なのであった。
(完)