「硫酸」 光村 伸一郎

 俺がその女に出合ったのは職安の駐車場だった。
 その頃俺は無職で、その女も多分、無職だった。
 刺すように冷たい雨の降る十二月の午後のことで、年間の自殺者は相変わらず三万人を越えていた。
 話す理由はその子が冷たい雨を浴びながら空を見上げていたからだった。
 彼女は建物から出た俺が狂人か白痴を見るような目で自分を見ていることに気づくと笑みを浮かべて話しかけきた。

 ねぇ、この雨が硫酸ならいいのにって思わない?
 そうしたら私もあんたもみんな溶けてなくなるのに。

 俺は返事をしなかった。しかし、骨の下にある何かが通じ合うような気がした。邪悪な部分が。
 見たところ普通ではなかったが好感が持てた。その女の目は子猫のように輝き、崩壊する寸前のような危うい美しさを放っていた。芸術家によくある狂気をはらんだ目だった。
 生まれながらにしておかしいのではなく、なんらかの理由である日突然おかしくなった感じだった。 年は二十六歳の俺より少し上くらいで、ひどく痩せていたが美しい髪をしていて、一応化粧をしていた。女としての恥じらいはいくらかあるようだった。

 何をしてるの? 俺は言った。
 空を見てるの。女は釈迦よろしく空を指して言った。
 こんな日に? 
 どしゃぶりが好きなの。もっと降ればいいのに。
 風邪をひくよ。

 彼女はぞっとするような笑みを浮かべると俺の方に歩いてきた。俺は殺されるのではないかと少し思ったが別にどうもしなかった。もしそうなったところでたいしたことには思えなかった。死なないヤツはいないのだから。遅いか早いかの問題だけだ。

 ねぇ、お話ししない? その女は言った。
 少しならいいよ。俺は好奇心から首を縦に振った。

 俺とその子は職安の端の駐輪場に行った。そこには雨をしのげる屋根があった。彼女は服を着たままシャワーを浴びたかのようにずぶ濡れだったが、寒がる様子はなかった。人に話を聞いてもらえることがうれしいようだった。
 俺と彼女は少し話したが、あまり会話はかみ合わなかった。彼女は自分のことしか話さないタチで、俺の質問にはあまり答えなかった。俺と同様に失業して当然だった。新しい脳ミソを手に入れない限り、ラベル貼りのような仕事に就くのもままならないだろう。

 わたしね、油絵を描いてるの。
 ゴッホが好きなの。
 青い絵の具と紫色の絵の具が好きでしょうがないの。
 赤と緑で猫を描いたの。
 
 彼女は俺のどこに住んでいるのかという質問に対してそう言った。職安から出てきた哀れな俺の同胞がチラチラとこっちを見ていた。まるで狂人か、婦女暴行犯を見るような目つきで。この女はこの辺りでは有名なヤツなのかもしれないと俺は思った。

 ねぇ、うちに来ない?

 彼女は一通り言いたいことを言うと、そう言った。
 俺は少し考えてから今日はいいと答えた。絵に興味はあったが見る気にはならなかった。時間だけは腐るほどあったが、イカレタ人間のタワゴトを聞くほど暇ではなかった。それよりも早く帰って一杯やりたかった。もらいもののスコッチが残っていた。

 いつならいい? 女は聞いた。
 そのうちに。俺は返した。
 また会える?
 多分ね。
 じゃあ、今度は来てね。
 ああ・・・・

 俺とその女はそう言って別れた。俺は手にしていた傘を広げると冷たい雨の中を駅に向かって歩き始めた。思うべきことは特になかった。おかしなヤツなんてどこにだっているのだし、人はみな狂っているのだから。

 俺はそれから二週間ほどしていつもながらの低賃金な仕事にありついた。それを機に職安には行かなくなりその女と会うことも < 今のところはだが > なくなった。あの女がその後どうなったのかは知る由もない。しかし、あの言葉だけは今でもしっかりと脳裏に焼きついている。この雨が硫酸だったらいいのに、という言葉を。

 雨降りの夜、ごくたまにだが俺はあの女のことを思う。ひょっとするとあの女はまともだったのかもしれない。