「走るということ」 加藤 行

 「ララムリ」という言葉をご存知でしょうか。最近、アメリカで「Born to run」というメキシコの少数民族を取材した本が話題となり、それに応じてNHKがドキュメンタリー番組として、この「ララムリ」を紹介していました。
 「ララムリ」は、メキシコの標高二千メートルの山岳地帯に住む人口六万人の少数民族だそうです。彼らは、主にトウモロコシや赤インゲン豆のしか食べない。電気、ガス、水道がない生活形態は文明社会とかけ離れています。それに特異な点は、子供から年寄りまで『走る』ことが基本的な生活パターンとなっていることです。彼らはとにかく起伏の激しい山岳地を長時間、走り続けるのです。そして地元のマラソン大会はもとより、世界各地のマラソン大会にも招待され、好成績を上げています。彼らの鍛えられた持久力は厳しい自然環境に適応してきた結果の『走る民族』といえるのでしょう。
 広辞苑によれば、『走る』の定義は「勢いよくとび出したり、素早く動きつづけたりすること」。要約すれば、早く運動することです。
 『走る』と言う行為を、生物学的に考えると非常に面白い推察が可能になります。文明社会に生きる我々人間と異なり、弱肉強食の自然界でたくましく生きる動物世界では、食うものも食われるものも同様に、走るスピードが、生き抜く上で重要な鍵となります。食うものは獲物を捕獲するために、そして食われるものは生き延びるために、より早い速度で走る事が要求されるのです。ここで、自然界での動物たちの走行スピードを比較してみましょう。次にあげるのは百メートルの走行タイムです。3.2秒(チータ)、5.0秒(サラブレッド)、6.2秒(ライオン)、7.1秒(キリン)、7.5秒(ネコ)、9.0秒(ラクダ)、そして9.2秒(人間)です。捕獲する側の猛獣が微妙にスピードが上回っているバランスは自然界の緻密さを改めて感じさせます。
 人類の誕生は現在から数百万年前といわれています。そしてその後、人類が文明社会を構築したのが、今からわずか五千年前とされているのです。この文明社会の発展以降、人々は馬や自転車、バイクに自動車と、次第に「走る」から「歩く」、そして「運転する」と移り変わって行きました。人類の歴史は『走る』スピードへの飽くなき探求心の賜物として『走る乗り物』が発明されました。しかし社会進化の便利さと引き換えに人間は徐々に『自力で走る』ことから遠ざかって来たのが現代人です。しかし、ある意味では競争社会に適応するための生存本能の知恵ともいえるのではないでしょうか。
 幼子が「キャーキャー」と、走る姿は本当に嬉しそうで『走る』は、元気の源で現代人は何か大事な忘れものをしたような気になります。
 アメリカの著名な文学作家であるアーネスト・ヘミングウェイの名作のひとつに「老人と海」があることを憶えておられるでしょうか。この作品では、年老いた孤独な老人が、ひとり小船に乗って、大海原へと立ち向かって行く勇敢な姿が描かれています。この物語は、或る意味でヘミングウェイ自身の自伝的な側面も持ち合わせているのでしょうが、そのたくましい活躍ぶりには思わず胸を打たれてしまいます。
 人は誰でも年齢を重ねていくと、次第に『走る』速度は衰えていきます。しかし、『肉体的に走る』ことは減速しても、『精神的に走る』こと、つまり長年蓄積されて来たものは努力で増え続けます。時には、粘り強く、こつこつと何かに打ち込む、それは『精神的に走り続ける』ということでしょう。
 寝坊した若ウサギに、ゆっくり走る老カメが勝つという話もあるのですから?…
 最近の、村上春樹の作品である「走ることについて語るときに僕の語ること」で、以下のような感銘を受けた言葉があるのでそれをつけ加えて最後にしたいと思います。
 「走ることに、他人との勝ち負けはあまり問題ではない」
 「僕は走りながら、ただ走っている」
 「ぼんやりと生きるより、しっかり目的をもって生き生きと生きる生き方が好ましい。走ることは確実にそれを助けてくれる」