「癖を考える」 牧すすむ

 「そこ間違えてますよ」。と優しく言葉を掛ける私に、「あっ、そうだった。すみませーん」と少しはにかんだ笑顔が返ってくる。
 そこですかさず「いや、いいんですよ。なるべくゆっくり覚えて下さいね。その方が有難いですよ。私の生活の安定のためにー」。周りの生徒達から笑いが起きる。いつもながらの教室風景だ。
 振り返ってみれば私が大正琴の講師を始めて早や四十年近く。この十月にはいつものビレッジホール(旧名古屋市民会館)で第三十五回の記念大会を開催することとなっているが、その間に指導した生徒は数えきれない。
 毎日早朝から夜遅くまで各地の教室を巡り歩く時間との闘いの人生だった。更に土曜と日曜祭日は発表会等のイベントが多く、ほぼ年中無休の状態。もちろん家は妻に任せっ放し。子供達と過ごす時間もままならなかった。キャッチボールの相手も、釣りやスキーに連れて行くのも全て妻の仕事。「今日も母子家庭と間違えられたワ」と笑っていた。
 そんな中でも三人の子供達は真っ直ぐに育ってくれ、それぞれに家庭を持ち六人の孫とこの春生まれた一人の曾孫を持たせてくれた。ただ、育ち盛りの子供達と一緒に遊んでやれなかったことが今でも心に残り、時々妻にそれを口にすると、「あの頃は仕方なかったワ、気にしないで。」と言ってくれる。妻にも子供達にも感謝である。
 そして中でも長男は、二十年程前に私が入院したのを機に大正琴の仕事を手伝うようになり、今では私より多くの教室を担当してくれている。元々ピアノやサックス、ベースギター等が堪能で、この世界に入るのには何らの支障も無かった。

 さて話を前に戻すと、生徒の殆どに何かしらの癖が有り、その一つひとつにアドバイスを加えて直していく。それが私たちの仕事なのだが、実に大変な作業である。
 大正琴というのは左手で丸い音階ボタンを押し、右手に持ったピック(プラスチックの爪)で弦を弾く。ピアノとギターを組み合わせたそんな楽器なのだ。仕組みから誰にもカンタンに演奏出来るが、必要なのはその音色。
 ボタンを押すタイミングと弾くタイミングが少しでもズレると澄んだ音がしない。楽器である以上美しい音色は必須の条件。それ故誰しもがその魅力に憑りつかれてしまうのである。
 構え方も人により様々。形を指摘して整えてもらう。ピックを持った右手はその振り方で音の大小と表情が変わる。手首の力を抜いて勢いよく振り出さなければならないが、性格や年齢等によりその差は笑える程に大きい。ある意味これも癖のひとつと捉えるべきなのだろうか。
 箸休めに琴の話はひとまずとして、他へ目を向けてみよう。昔から「無くて七癖~」などと言うように、人には個々様々な癖がある。然もその殆んどを当の本人が気付いていないのだ。話す時にも「エー」とか「あのー」とかを連発したり、必ず語尾をしゃくり上げたりでなかなか面白い。更にそこへド派手な身振り手振りが加わると尚のことである。
 それが若い女性タレントや女性キャスターに多く見られる仕草かと思いきや、出た! かなりの大物。ほぼ毎日テレビで見かける大スター、あのアメリカのトランプ大統領だ。

 演説の時の大袈裟な手の動きは険しい顔の表情と相俟って暫く印象に残る。初めは政治的な立場から意図的なものだったかもしれないが、いつの間にか癖に変わってしまったと思える。世の中はそんな様々な癖が星の数よりも遥かに多く溢れている。
 かく言う私も幾つかの癖があるらしく、時々妻に窘(たしな)められることがある。例えば外食の時などにしゃべる声が大きいとかで、妻から「もう少し小さい声で話して」と小言を言われる。更に「ナイショ話が出来ない人ね」ともー。
 自分では当たり前と思っている事が世間ではどうも違うらしい。気を付けようとはしているがなかなかどうして、おいそれとは治らないようだ。
 余談はこれくらいにして話を元に戻すことにしよう。家業の大正琴について、である。楽器の演奏といえばどれも指の動きに左右される。又、美しい音色もテンポの速い曲もそれに合わせた俊敏な動きが求められるもの。それは一切の無駄を省いた指の運びがあってこそのことで、いわゆる癖の無い最も基本の形と動きが確立されていなければけっして叶わない技術と言えよう。
 ただそれは、その人の求める範囲と年齢を考えながらの指導であることを忘れてはならない。習い事である以上、どんなものでもまず基本から始まるのが当然の道理。癖は許されない。癖とは本人にとって気持ちの良いこと。それを直そう、変えようとするのはかなりの決意と努力が必要となる。つまり自分との限りの無い闘いなのだ。
 どの業界によらずとも、指導者となればその指導の一生を生徒の癖と正面から向き合い共に正して行く。そんなことではないだろうか。と、改めて自身を見つめ直している昨今の私なのである。 (完)