「雪のあとさき」 平子純

 その夜は余程凍てついていたのか、さらさらの雪が舞っていた。時折風が吹き、雪女の舞を見せる。竜一は自分の心とは逆に一瞬凛とした気分になった。コートの襟を立て防いではいるが、容赦なく一粒一粒雪が当たり落ちてゆく。久しぶりの雪で心が洗われるはずなのに、朝起きると自分の子供たちは一面の雪にはしゃぎ飛び回るだろうに彼の心はそれとは逆に沈んでいる。雪子との関係に悩んでいるのだ。

 雪子と交際し始めたのも淡雪の舞う夜だった。ある異業種交流会の新年会の後、二人してそこはかとない会話をしながら駅の方へ歩いている時だった。和服の上に着た和ガッパの上にやはり雪が降っては落ちていた。その一粒が雪子のうなじに落ちた時、その鮮烈な美しさに彼は思わずうなじに口付けしていた。雪子には夫も子もいる事は知っていたが突然の行為だった。雪子は新年会用に束ねられた髪に髪飾りをして一輪の椿の花を入れていたが、彼の突然の行為にびっくりしたのか、髪が揺れて赤い椿の花が真っ白な雪の上にポトリと落ちた。まるで雪子の情念のほむらが雪の上で燃えているように彼には写った。その時彼は一瞬に道ならぬ恋の予感に震えていた。
 始めは逡巡していた雪子は竜一の誘いに応じるようになった。二、三度カフェや公園で逢瀬を持ったが、どちらともなくホテルでの逢引きとなった。女性は強烈な男の情熱を受け入れてしまう習性がある。情が移ってしまうのである。例え夫や子がいる男でも。男も女も肉への欲望にはなかなか抗しきれずどんどん深みへと落ち込んでしまう。初めは竜一が雪子の真綿のような肉体にのめり込んだ。次第に雪子の柔肌も反応し全身で官能を感じるようになった。時々雪子は、指先まで足の先まで官能が伝わって来るわと足の指を収縮させた。まるで浮世絵の女のように。
 竜一は聞いてみた。俺も女房も子もいるしお前もだ。俺達狂っているのかな、それとも前世からの因縁があるのかな、と。雪子は答えた。恋の形はいろいろあるわ、その時その時が大切なの、こうして思いのまま悦びに満たされている時がね。こうして二人はどうしようもない愉楽の園へ迷い込みのっぴきならず愛の深みへ落ち込んでしまっていた。

 逢瀬を重ねた二月末だった。この日は名古屋には雪はなかったが、二人で御在所近くの温泉で昼食でも食べようということになり、車を飛ばした。名阪は竜一にとってゴルフに行く時の通い慣れた道である。一時間半程で個室露天風呂のある宿へ着いた。食事は鹿鍋を注文した。食事が用意出来るまでの時間、二人で露天風呂へ入ることになった。御在所近くはやはり雪が積もっており、風呂の周りにも雪がうっすら積もっていた。湯に沈んだ雪子の体は屈折して見え、恥毛が揺らいでいた。湯から上がった雪子の下半身は女子サッカーで鍛えられたせいか、三十才を過ぎても臀部から太股にかけてが特に発達し水に濡れて艶やかに魅力的だった。
 竜一は思わず、解語の花玉脂を洗う、かと思った(解語の花、の下りは白楽天の長恨歌で玄宗皇帝が楊貴妃への愛憎を歌った詩からそのまま引用)。次に快楽極まって哀情多しかと呟いた。この温泉は、かつては四日市の奥座敷と言われた程で、やはり眼下に四日市の街が広がっていた。竜一は小さな商事会社を営み、雪子は小料理屋を営んでいて、二人とも朝十時から午後三時まで無理すれば時間を取ることが出来たのである。雪子は朝の仕込みを済ませ、四十を越した竜一は朝の朝礼と社員にその日にやるべき事を伝え時間を取った。
 鹿鍋はこの辺りの名物で御在所では許される頭数だけのかも鹿が捕ることが出来た。獣は鹿にしても猪にしても独特の風味があり美味である。昼食後、いつものように激しく求め合った。獣のような求め合いだった。雪子は達する度に鹿のように大きく吠えた。竜一も雪子も互いの激しさに心底疲れ始めていた。交わりの後二人ともそろそろ終わりにしようかと思い始めていた。家庭の平穏が懐かしくなったのである。一冬の恋の終りが近いと二人ともに覚え始め、二人とも今なら戻れる、互いの家庭も自分達も傷付かないと思っていたのである。

 名古屋への帰り道二人とも何も語らなかった。車で雪子を名古屋駅で降し竜一は会社へと回った。通りすがりの樹木は冬枯れの骸骨を見せている。一瞬彼は骸骨に抱かれた裸婦の絵を思い出し幻想に捕われた。雪子のような女とは又違う世で巡り合うような気がしたのである。 会社前の残り雪はすべて溶けていた。(完)