「あらしの記憶」真伏善人

 これまで一番印象に残っている嵐は、1962年9月第二室戸台風である。当時、裏日本の越後平野に住んでいた身としては台風というものは、ほとんどが太平洋側の地域に上陸して被害を与えているのだとおぼえていた。1959年の伊勢湾台風では、数千人の犠牲者を出したその恐ろしささえ、まるで他人事であった。当時のニュース情報は、新聞と古ぼけた木製縦長のラジオだけで、中学生だったことを考えるとその程度の認識であったのだろう。そこへどうもこちらへ大きな台風が来るらしいと、当日の昼近くになると両親が色めき立った。
 どの程度のことかと想像もつかない中学生としては、親の顔色を見て台風をやり過ごすことしかない。家はまだ建てて数年しか経っていなくて、まず大事にはならないだろうと思っていた。来るらしいということは承知していたのに、これを準備して被害を防ごうということもなく、時が過ぎていくと風が出てきた。みるみるうちに強まり夕刻になると、風音と共にガラス戸がガタガタと震え始めた。唸りわめく風が襲いかかり、外では何かが飛ばされ転がる音がする。南に面したガラス戸が軋んで、今にも外れそうに見える。これはまずいと思ったのか、父が長男に部屋の畳を上げてガラス戸を押さえろと言う。長男が身体をあずけ押さえているのを見ていると不安になり、手伝おうと近寄った瞬間、パリーンという音と共にガラスが割れ、怒涛の嵐が殴り込んできた。
 こらえきれない兄が後ずさりすると同時にガラス戸が吹っ飛び、続き部屋のガラス戸と窓が吹っ飛ぶ。身の危険を強く感じた家族七人は、四畳半のドアを押して逃げ込んだ。ドアを閉めて身体を預ける兄。家の中を吹き抜ける嵐のすさまじいほどの唸り声。やり過ごすしかない無念さと、屋根が飛ばされないかという不安がよぎり、祈るようにこぶしを強く握る。どれくらいの時間がたったのだろうか。とても長かった恐怖の時間は、風音が弱るとともに過ぎ去って行った。避難部屋から出ると家中は見るも無残な状態であった。呆然と見回すだけで手のつけようもなかった。両親が深いため息をつくと、皆がそれにならうようにため息をついた。
 翌日は学校へ行くつもりで勉強道具を集めようと、風雨にかき回された部屋の中を探し始める。さして広くないスペースに、どうしてこれがここにという、わからない物やゴミが重なり合い、探し物ははかどらない。困ったことに鞄は見つかったものの、肝心の教科書が何冊か見当たらない。どこにといえば家の外へということになる。暴風は南のガラス戸を突き破り、北の窓と東のガラス戸を吹っ飛ばしていた。東隣との距離はさほどなく、あれば見つかるはずだ。だが北側はずっと続く稲田である。わずかな希望をもって目をこらしてみるが、らしきものは見当たらない。この広い稲田をどうやって捜せばいいのか。途方もないことに焦点を失った。自分のものは自分で捜すより他はない。よく分かっているつもりだが、現実は目の前の広い稲田だ。たとえ見つかったとしても破れてしまい泥まみれか。それを思うとあきらめの気持ちが湧きあがり、踵を返した。
 学校を休むつもりはなかったし、休めとも言われなかった。あるだけの学用品を持って家を出た。校門が近づくと何とも言えない重苦しさが歩みを遅らせた。教室に入ると台風のことでざわついていた。誰とも口をきくことなく席に着くと、やがて担任の先生が現れ、やはり台風被害の有無を聞き取り始めた。席が前から二番目なので何人が手を挙げたのかは分からなかった。ざわめきは小さく、そう何人もいるようではなかった。いきなり先生から問われ、家のことは話さず教科書を失ったことを聞いてもらった。先生は少し間を置いて、それじゃあとりあえず一緒に見せてもらえと、隣の生徒にも促した。その生徒はクラスで一番小柄で、僕が二番目だったと思う。お互いがいじめられっ子だったが、彼は闊達で反骨心が強く、何事も消極的な僕とは大きく違っていた。僕より小さいとあって何度か悪づいたり小突いたりもしたが、彼は快く隣に寄せた机を迎え入れてくれた。それを機に仲が良くなったのは、台風がもたらした恵みともいえるのではないか。
 もう半世紀以上になる。あの台風はこれまでの中で最大の災いであった。この愛知県という太平洋側に住むようになってからはこの季節になると、発生から進路まで気になって仕方がない。はるか南海上にあるうちから、あっちへ行けを繰り返す。あっちの人は聞いたら怒るだろうが、あのような経験をしたものであれば、そう願わずにいられないだろう。この地に来てから幸いにも直接的な被害は記憶にない。だが自然災害は、何時どこで起こるか分からない。
 台風が東海地方に近づくと、風の気配を感じる前から防災行動にかかる。笑う家族に何と思われようとも、あのとんでもない台風で打ちのめされたことを思い出すと、臆病心にスイッチが入るのである。  (完)