「海に抱かれて」 伊神権太
海と聞けば、日本海の岩肌に砕け散る波の花など思い出すことが多い。いや私の場合、海を全身で抱きしめ、抱きしめ、わが道を歩いてきた。それは、新聞社の地方記者として歩いていたころに始まる。駆け出しは松本支局で〝山っ子記者〟だったが、初めて命じられた異動先が伊勢志摩、いや志摩の海だった。そして。岐阜、社会部と歩み、小牧に空飛ぶ記者として在任したあと声がかかったのは、能登半島は七尾支局、すなわち〝海っ子記者〟であった。
こんな海への思いのなかで忘れられないのは、真珠と海女のふるさとでもある〈志摩の海〉だといっていい。片や、真珠筏が浮かぶ内海なら、今一方はギラつく太陽が降り注ぐ外海の熊野灘で、ここでは白い磯着や黒のウエットスーツに身を包んだ若さではちきれそうな海女さんたちの声がいまも耳に焼き付いて離れない。「あのなあ~、ほいでなあ。アニさん、どこから来たん」とのんびりした抑揚ある彼女らとの会話は今も忘れない。
ところで海とひとことで言っても、そこには稽古海女、徒人(かちど)海女、舟人(ふなど)海女らがつどう海女小屋を拠点に日々、アワビやサザエ、アラメを追う女たちがいれば、初日の出に真珠筏がキラキラと光り水面そのものが止まったかのような英虞湾があった。どちらも、伊勢志摩国立公園のどまん中だったが、当時は乱開発が進み、海は富栄養化で汚れ、核入れ真珠母貝のアコヤガイが悪性赤潮で大量にぷかぷかと浮いて死んでいき、こんな海を取材しながら憎らしいとさえ思った。
いちどこんなことがあった。伊良湖水道で大型タンカーが衝突事故を起こし、漏れ出た重油が熊野灘に面した志摩半島にまで漂着、何日もの間海女漁がストップしてしまったのだ。あのときの海女さんのゆがんだ顔といったら、それこそ深刻そのもので、どう慰めて良いものか、胸を痛めたものである。
そんな海だが。かつて私の提唱で「海を感じる心」を国内外に発信しよう―と新聞社と地元七尾青年会議所共催で挑んだ〈海の詩(うた)〉大賞公募の試みも忘れるわけにはいかない。この海の詩公募は年々、国内外に広く知られるようになったものの、当初審査委員長をお願いした〈みかんの花咲く丘〉の作詞者加藤省吾さんはじめ、あとを引き継いでくださった森繁久彌さんも今では共に他界、公募事業そのものも消え入ったことは返す返すも残念でならない。
能登在任時代には、ほかに門前の鳴き砂の浜、輪島沖にポツンと浮かぶ海女さんの島・舳倉(へくら)島も訪れ、七尾市内では舳倉の海女出身者が居酒屋「へぐら」を開業、同僚らとしばしば出向いた。七尾湾に浮かぶ能登島では全国の詩人が集まり、能登島パフォーマンスが行われ、インド人舞踊家シャクテイさんが渚の特設ステージで詩の朗読にあわせ、身をくねらせながら踊るセクシーな姿に身を焦がした日々も、ついきのうのようだ。
それだけではない。最近では、オーシャン・ドリーム号による102日間地球一周の船旅をピースボートでした際、洋上に隔離されたような孤独感に陥った私をそのつど、温かく見守ってくれたのも他ならぬ物言わぬ波たちであった。私は船旅の間はずっと〈海に抱かれて みんなラブ〉の題で寄港した先々から「伊神権太がゆく/平和のメッセージ」を発信し続けたが、102日間の孤独に耐えられたのも〈海〉があればこそ、と思っている。
ここに第1回海の詩大賞作を残し、記録としたい。
「海は なぜ広いの」
本藤理恵(東京都小平市立第一中学校1年)
海は なぜ広いの
それは すべてのいのちのはじまりだから
海は なぜ青いの
それは 地球をかこむカーテンだから
海は なぜすきとおってるの
それは 心だから
海から いのちは はじまった
みんなの海 広い海
そんな海が
ぼくらへ よびかけている
静かに耳をすましてごらん
貝がらのおしゃべり
波のささやき
太陽のよびかけ
みんな ぼくらへのおくり物
海は ぼくらの心
海は 何も言わない
静かに ぼくらを見ている
ずっとずっと待っている
心の中で (完)