「インナーチャイルド」 伊吹

 二重苦である。
 自治会長と、子ども会の育成長という役が回ってきた。
 自治会の方は、来年のはずが町内から2軒も引っ越してしまい、繰り上げでやってきた。
 子ども会は、来年回ってくるはずだった自治会役員との二重パンチは避けたいと、「今年やります(やりたくないけど、順番だよね、みんな次はこの人って知ってるんでしょ)」と、モメる前に自分から言った。そしたら急に自治会もやってきたのだ。
 戦々恐々としていたが、なんのコロナで行事が次々中止、会議も中止。町内の行事は、楽しみにしている人もいるが、現役世代には、準備のための会議や、休日の返上がキツイ。そもそも近所の人たちとの交流や深い付き合いを求めていないのだ。
 行事をやりたい人たちと、とりやめたい人たちの対立は激しく、そのために会議を開くが(大きな連合自治会の会議は開かれている)意見は平行線で、ケンカになり閉会。また次の週末に集まり、同じく結論が出ず、次週集まり多数決を採ることになっていたところへ、今回のマンボー(まん延防止重点措置区域指定)である。
「感染拡大のため行事は取り止めとします」という1枚の紙きれがポストに配られ、あっけなく決着した。
 今年はすべてが中止になった子ども会も、来年は分からない。もうじき次の役員を決めなければならないのだが、第一候補は重度の障害を持つお子さんを抱える家庭だ。寝たきりでお風呂も入れて、ご飯も親がスプーンで口に運ぶという。そんな大変な人にどうして「役員やってください」と言えよう。
 その次の候補の人は、お子さんが不登校で3年間学校へ行っていない。自分の子が参加しない子ども会なのに「不登校なんて関係ありません。順番ですから役員やってください」なんて言えますか? 私には言えません。
 子ども会にはいろいろな人がいて目を光らせており、役員をやらずに卒業することは許されない。

 いっそのこと、来年もやろうかとふと思う。組織に所属するのが苦手、役員大嫌い、そんな自分がこんな心境になっていることに驚く。このままフェードアウトして来年以降のことなんて知~らない、と言っても良いのだ。2度役員をやれば、後に続く人も2回やらなければならない、そんな前例を作ってしまうとも言える。人助けをしたつもりでそうならないかも知れない。私の中の私は、躊躇している。考えてもまだ結論が出ない。うまい動きをして世渡り上手に生きたいが、どちらかといえば計算下手で不器用な生き方をしてきた。
 子どもの頃の辛かった出来事を思い出すのはとても辛いことだ。ずっと思い出さないようにしてきて、歳月を経てなかったことのようになった。しかし、辛い思い出は決して消えてはおらず、潜在意識の中に無意識に在り続け、自分の思考に少なからず影響を与えているという。
 大人になった私が、意識を過去に戻し、子どもの私に会いに行く。困って泣いていたら助けてあげる。悪い大人をやっつける。私を苦しめる人たちから未来へ連れ出してあげる。「辛いのは今だけだよ。行きたい所へ連れて行ってあげる。どこへ行きたい?」
 子どもの私は、なぜか現在の私の家のリビングに来ていてお茶漬けを食べている。誰にもせかされず、比べられず、ゆっくりと食べている。あの頃、誰かに助けに来てほしかった。こうやって、心を許せる人と話したかった。それを実現した。未来はバラ色ばかりじゃなかったけれど、少なくとも安らげる家があり、誰も私を傷つけず、心許せる家族を得た。
 中学生の私、高校生の私に、時間を見つけて会いに行く。私の中の私が癒やされて、本当の意味で開放されていく。私が少しずつ変わっていく。(完)

「前の世界はもはやない」伊神権太

 新型コロナウイルス。コロナ禍。マスク。フェイスシール。アクリル板。三密(密閉・密集・密接)。ソーシャル・ディスタンス。パンデミック。感染爆発。医療の逼迫。崩壊。新しい生活様式。テレワーク。オンライン会議。オンライン授業。テイクアウト。ステイホーム。ロックアウト。緊急事態宣言。自宅療養。中等症患者と中等症リスク。面会謝絶。ワクチン接種。副作用。検温。消毒。換気。手洗い。手袋。
 果ては、GoToトラベルに持続時給付金、そして。ともすれば、大切なお金がポンポンと軽く扱われてしまいがちな世の中の出現。ほかに、まん延防止。うがい。自粛警察まで。思いついただけでも、これだけの言葉が氾濫。なんだか今の世は一言ひとこと言葉そのものが軽くなってしまったような。そんな気がする。

 これらの言葉は三年前には日常、あまり使われておらず、このところのコロナ禍とともに急浮上。それが一体全体、何を意味するのか。まさか令和の日常語としてここまで定着してしまうとは、思いもしなかった。ナンダカとてもモノモノしく怖くなるような数々で事実、こうした言葉は現実社会では本来あまり使われてはいなかった。それが、だ。まるで堰を切った洪水、いや濁流の如くドッと、この人間社会にあふれ出てきた。
 実際、こうした言葉の氾濫には耳を塞ぎたくさえなる。それでも現実の社会ではいつもの生活を進めていくためにも必要かつ不可欠な言葉として、その存在感は日に日に高まる。一体全体、人間社会はこの先、どこへ。どのようにして連れていかれてしまうのか。それは誰にも分からない。変わったのは別に日常語ばかりでない。新幹線も、飛行機も、豪華客船も。みな乗客が激減。生涯の思い出、宝ともなる修学旅行も中止が相次ぎ、東京はじめ各地方都市でのバスによる観光地巡り、むろん飛行機による海外旅行、新婚旅行もガクンと減った。
 そして。そんないびつな人間社会で最後の砦ともいえようか。なぜか、スポーツマンシップだけは健在で、世界中から選手が集まり、東京五輪が無観客で開かれてきたのである。かといえ、これとて聖火ランナーに始まり、各種試合とも無観客が大半という前代未聞のスポーツの祭典となり、それこそ東日本大震災からの復興のあかし復興五輪なぞとは、とても言えない結果となった。ほかに、昨春のセンバツに続く夏の甲子園の戦後初の中止やプロ野球や大相撲の再三の延期、無観客試合などもある。当然のように舞台演劇や音楽発表会といった催しまで誰しもダメージを受けたのである。
 というわけで、百年前に猛威をふるったスペイン風邪をしのぐ新型コロナウイルスという疫病がまん延し始めて、一年半以上がたつ。この間、私たちが住むこの星、地球では実に二億人以上の人びとが感染し、四百二十六万人以上が大切な命を落としたのである(八月七日現在)。考えようによってはだ。かつて広島と長崎に投下された原爆にも似た不幸の連鎖が新しく進行中なのである。誰が、こんな世の中にしてしまったのか。

 でも、私はここで待てよ、と言いたい。ナチスの収容所で書いたアンネの日記から学んだ次の一節を忘れてはならない。
――わたしはとても実現しそうもない自分の理想を、全部捨て去らないのをわれながら不思議に思います。(中略)しかしそれでもなお、天を仰ぐとき、すべてはまた正常に帰り、この残虐も終わり、平和と静けさが世界を訪れるだろうと思います。それまで、わたしは理想をもちつづけなければなりません。やがて、これを実現できる時が来るでしょう(アンネより)。
 私はいま、静かに思う。アンネの日記に書かれたこの言葉を思い、コロナ禍という同時代を生きる私たちに大切なものは何か、と。それは今こそ希望と勇気を胸に、互いに手を携え合って前に向かって「これでもか」と生きていくことではないか、と。残念ではあるが【前の世界はもはやない】のである。(完)

「ウォーキング」 牧すすむ

 このところ私はテレビのチャンネルを変えるのに忙しい。オリンピックを観るためなのだが様々な競技を色んな番組が放送しているので、あれも観たいこれも観たいという欲深さから駒の早送りの如くチャンネルを変える羽目になってしまう。
 仕事から帰ると食事をするのもそこそこにテレビの前にどっかりと陣取る毎日。更に休日ともなれば早朝から始まる競技に熱中し、コーヒーを片手にチャンネルをいじる始末。いやはやオリンピックの魔力は本当に凄いと改めて思う。それの裏付けなのか、開会の前まではあれ程反対した人達やマスコミの声もすっかりトーンを下げてしまっている。今は私達と同じ気持ちでテレビの画面に心を奪われ、日本選手の活躍に一喜一憂しているのかもしれない。それも又スポーツの不思議な魅力。何はともあれ全ての選手に最大のエールを送りたいものである。
 只、コロナ禍の中で開催を決行したオリンピックは連日世界中のマスコミを騒がせていて、選手同士の戦いの前にウィルスという最強の相手と戦うことになってしまったのも紛れの無い事実である。
 一方でそんなオリンピックのあおりを受け我々の生活も様々な苦難を強いられている。大正琴の会を主宰する私は殆どの演奏会や発表会が中止となり、更に大切な教室の場までも厳しい制限が掛けられてしまった。
 そんなわけで休みが増え、家にいる時間も長くなり戸惑いの中で私の生き方も一変した。いつもなら琴の練習をしたり書き物をしたりで忙しいはずなのに、と思いつつもいつの間にかリモコンを握っている手。好きな番組も幾つか出来芸能人の顔も覚えたけれど、心に忍び寄る不安と罪悪感を押し殺しつつ観ているというのもなかなか辛いものがある。
 宿題を気にしながら遊びに更けった子供の頃をふと思い出し、つい苦笑いをしてしまう。でもこれが当たり前の生活になってしまったら、と考えると怖くもなる。とはいえそうそう悪い話ばかりでもなさそうだ。
 暇潰しにと最近妻に誘われてウォーキングを始めてみた。以前からのお医者さんの勧めもあり決意したのだが初心者なので無理は出来ない。それでもこの頃は道々に咲く草花に目を向けながら、歩けることの幸せを少しずつ感じる様になってきた。
 先日は近くにある公園に足を運んだ。一回りするのに三十分以上はかかる大きな公園だが良く整備されていて色々な遊び場も有り、子供達や親子連れの姿も多い。ウォーキングを楽しむ人、ペットを連れた人などとも気軽に挨拶を交わしたり出来、心が和む。
 然しある日のコースが私を大いに驚かせた。それは自宅から僅か数百メートルの所にあり全く知らない間にきれいな道が出来、お洒落な住宅が建ち並び、見知らぬ住人達の顔があった。まるで別世界だが、考えてみれば子供の頃によく遊んだ場所。只、そこには田畑だった昔の風景は何も無く方向さえも分からない。正に「浦島太郎」の心境に陥っていた。
 思えば大人の仲間入りをしたと同時に仕事に追われ、結婚後も家事や育児は全て妻任せ。身近にある世界は殆ど見てこなかった私。今になってその大きな時のズレを痛感しているが、これからの人生は目線を変え、自分の周りに起きていた様々な変化を一つずつ、一つずつ取り戻さなければならない。

 ウォーキング、これはひょっとしてコロナウィルスが私にくれたたった一つのプレゼントなのかもしれない。もしそうであればためらうことなく、明日もこれからも妻と二人で色々なコースをウォーキングしよう。四季折々の道で行き交う人達ととびっきりの笑顔で挨拶を交わしながらー。(完)

「変わる生き物」 黒宮涼

 早いもので、私たちが結婚してから七年が経った。コロナ禍の中、八年目を迎えた私たちに待ち受けていたのは、結婚記念日に予約しようとしていたレストランでコロナにかかった従業員が出たという出来事だった。
 その店は、私が見つけた洋食レストランで、ずっと行きたいと思っていた場所だった。家から車で10分ほどの距離だ。夫が予約のために店に電話してくれた。
「数日前に店でコロナが出たんだって」
 と夫から聞いたとき、私は衝撃を受けた。こんなに身近にコロナが迫ってきているという事実に驚いたのだ。
「店の人が、すごく申し訳なさそうに謝っていたよ。仕方ないことなんだけれどね。まさかうちで出るなんて、みたいに言っていたよ」
 結婚記念日の数日後に、店は再開する予定なのだそうだが、「どうする」と夫に尋ねられて私は首を横に振った。しりごみしてしまったのだ。
「違う店にしようか」
 夫の言葉に、私は素直に頷いた。改めて近くの和食屋さんに予約をした。
 当日は、久しぶりに着る紺色のワンピースに袖を通し、当たり前のように白いマスクをつけて家を出た。コロナが流行る前は、こんな時期にマスクなどしていなかったので不思議な気持ちになる。改めて世の中が変わったなと感じる。マスクなど花粉症でもない限り、年中着けることなんてなかっただろう。
 店に入ると出入り口の横にチラシと同じように消毒液が設置してある。私たちはそれを当たり前のように手に付けると、これまたマスクを着けた女将さんの案内で部屋へ向かう。
 ここにもコロナ以後の変化を感じさせるものがあった。
 席に着いた私たち夫婦は、さっそく飲み物を注文しようとメニューを覗いていた。
 そして、お酒を注文しようか話し合っていた矢先のこと。
「あ、すみません。今日からまたお酒が出せないんですよ」
 女将さんの言葉に、私たちは目を丸くした。
「ああ。そうか、今日からか」
 すっかり忘れていたが、何度目かの緊急事態宣言が発令されていたのだ。店はお酒が出せない。
「すみません」
 謝られたが、こちらも忘れていたので仕方がないと思った。
「じゃあ、ウーロン茶で乾杯しようか」
 夫はそう言いながらほほ笑む。私たちは注文後に運ばれてきたウーロン茶を片手に、二人で乾杯した。

 畳張りの広い個室で、どこか不思議な気持ちで私はいた。
 思い出すのは、この七年間の記憶。出会ったときから含めると約十年になる。あの頃は、こんなに長い時を夫と一緒に過ごすことになるとは想像もしていなかった。
「ああ、もうそんなに経つんだ」
「そうだよ」
 私と夫は食事をしながら、あんなことがあったね。こんなことがあったねと、思い出話に花を咲かせた。もちろん、いい思い出もあるし悪い思い出もあった。
 思えば人付き合いが苦手な自分が、よく友人の誘いにのって一緒に遊びに行ったものだ。それがなければ、夫と出会うことすらなかったのだろう。夫の事を知れば知るほど、住む世界の違う人だなとあの頃は思っていた。それを今は感じることが少なくなった。私の中で何かが変わっていったのは確かだ。
 自分や、その周りにとって、変わるということはすごく大事なことであると思う。それは小さな変化だったり、大きな変化だったりする。そうして変わっていったことが当たり前になっていくのだろう。
 人間は環境が変われば、おのずと変わっていく生き物である。環境には適応していかなければならないからだ。
 そうしないと生きていけないのだと思う。
 人は簡単に変わらないと、きいたことがある。相手を変えるにはまず、自分が変わらないといけないともきいたことがある。私はそのことについては、否定的な意見を持っていない。「変わる」ことは、とても難しいことだ。そしてそれを受け入れることも、難しいことだ。
 この世の中にとっても同じことだと思う。私たちはこれからも周りの環境の変化に順応していかなければならない。そうして自分も、変わっていくのだ。
 これから行く先々も困難が待ち受けているだろうけれど、私たちならば乗り越えられるはずだ。(完)