詩二編/「だいじに」、「愛の輪」

      詩「だいじに」

      気づかぬことに  気がついて
      知らないことを  知らされて
      とんでもないほど 世界は広くて
      すべてに値打ちが ありまして
      おろそかには   出来ません

      流れて 流れた  昨日のわたし
      浮かれ 浮かれた 昨日のわたし
      みんなを忘れた  昨日のわたし
      わたしを忘れた  昨日のわたし
     
      謙虚に生きる   そんなあなた
      正直に喜ぶ    そんなあなた
      愛で満ちてる   そんなあなた
      生命が輝く    そんなあなた

      わたしに真似は出来ないけれど
      きっと すべてに 意味があるから
      だいじにすれば きっと意味がわかる
      何でも 何でも だいじにしたい
      小さなことでも だいじにしたい

      決して 決して
      わたしは こころを 捨てたくはない
      わたしは こころを 捨てたくはない

      詩 「愛の輪」
 
      しゃあないか
      怒ったって しゃないか
      それとも 憤怒の赤いだるまさん
      にらめっこで わっはっはっ

      しゃあないか
      泣いたって しゃあないか
      それとも しとしと つゆの雨
      泣きくらべで 腹ぺこグウグウ
   
      しゃあないか 
      恨んだって しゃあないか
      それとも 鏡を覗いたら
      歪んだ醜い顔に 腰抜かす

      しゃあないか
      嘆いたって しゃあないか
      それとも どん底に首突っ込めば
      深い深い闇に ポトンと消えた

           
      しゃあないか
      世のなか でかくて しゃあないか
      ひとりは ちいさく しゃあないか
      それでも 手と手をつないだら
      おおきな おおきな
      おおきな 愛の輪ができるんだ
         
 
         

    

掌編小説「家族の絆」

  芳江は泣いていた。悲しくて、夕食を取ろうとして箸をもった手も動かない。先刻から強い口調で繰り返し罵倒する夫の卓郎の言葉が、芳江の耳もとでガンガンと鳴り響いていた。以前から卓郎の文句にはすでに慣れていたが、それでも毎晩、毎晩、繰り返されるお説教をただ、黙々と言い聞かされると、やはり身体の芯までこたえてくる。なおも卓郎は喋りつづけている。
「分かっているのかよ。このジャガイモの煮付けのことだよ。前にも言ったじゃないか。俺はもっと甘い味付けにしろって言っただろう。まさか、これ、塩でも入れたんじゃないだろうな。それにこの豚肉も硬すぎるしさ。イモも砕けて台無しだよ」
 ついに芳江の食欲が消えてしまった。芳江は箸をゆっくりと卓上に置いた。卓郎が言う。
「それに俺、赤味噌は嫌いなんだ。ふん、この味噌汁、飲む気がしないな。味も変だしさ。ほかに何か、うまい料理、ないのかよ。おい、芳江、いいから缶ビールを取ってくれよ。そいつで腹をふくらすから」
 芳江は、ぼんやりと、うわの空で冷蔵庫の缶ビールを卓郎に手渡した。向かいの席でご飯をパクついている娘の久美は、あたしは知らないわっていう冷たいそぶりで平気にしている。ああ、本当にやりきれないわ、という気持ちで芳江は思わず大きく息を吐いた。また卓郎が芳江をジロッと睨みつけて言った。
「ああ、それにさ、今日、会社に着ていったワイシャツなんだけど、袖口が汚れたままだったぞ。俺、昼休みに会社の屋上でボール遊びして、うっかり袖をまくって皆に思いっきり恥をかいたんだぜ。頼むから、もっとよく洗ってくれよな。それから…」
 これ以上、耐えられない、と芳江は立ち上がると、無表情なまま、自分の食器を両手に持って台所に向かった。居間を去っていく芳江の背中から、卓郎がぶつぶつと愚痴をこぼしているのが、まだ聞こえていた。
 暗い台所で、芳江の洗い物はもうすぐ終わろうとしていた。水道の水がとても冷たく感じられる。居間からは、くつろいだ卓郎と久美の笑い声が聞こえてくる。また芳江はため息をついて、ふと洗い物をしていた手を休める。芳江は考えごとをしていた。甘くない煮付けに、味の変な味噌汁。さまざまな思いが、芳江の頭を次々とかすめていく。やがて漠然とした考えが、ゆっくりと姿を変えてひとつの思いに固まった。
 やや落ち着きを取り戻して、やさしく水道の蛇口を閉めてから、濡れた両手をタオルでぬぐう。そうよ。それでいいんだわ。それでまた生活を変えてしまえばいいのよ。難しいようで、とても簡単なことだわ。そう、たしかに私は今でも卓郎を愛している。彼のためなら何でも尽くしたい。でも、あの、罵るような言い方は、もうとうてい我慢できない。芳江は強く決意すると、急いで白いエプロンを脱ぎ、それを丸めて置き、二階にある自分の部屋に向かった。あの大きなトランク、たしか、押し入れにあったはずね、それに荷物をまとめなければ。さあ、急がないと。

 翌朝、妻の芳江が家から消えていることに気づいて、卓郎はパジャマ着のままで気が動転していた。最初は何かの勘違いかとも思ったが、靴箱から外出用の芳江の靴がなくなっていることで、いよいよ卓郎の不安は激しく、つのっていった。奥の部屋から、寝ぼけた久美が居間に出て来ると、すばやく事情を察知して困ったように眼をパチクリさせていた。卓郎は困惑した表情で久美に訊いた。
「母さん、どこに行ったのか、まさか、お前は知らないよな」
 久美はポカンとした様子で、
「全然…あたし、昨日は早く寝たから何にも知らない。母さん、消えちゃったの」
「消えたって、お前、これ大事件だぞ。困ったな、母さんが出かけた理由でも分かれば、まだ捜しようもあるんだがなあ。久美、お前、何か、心当たりでもあるか」
「ふーん、母さんが家出する理由よね。難しい。でも、あたし、少し、考えてみる」
 そう言い残して、久美は逃げるように奥の部屋へ駆け込んでいった。プカリと煙草を吹かしながら、卓郎は考えていた。芳江のやつ、もしや何かの事件に巻き込まれたのだろうか。たとえば、ニセの電話にだまされて、連れ出されて暴行を受けたとか。それとも誘拐されて、身代金の電話がかかってくるのか。それとも単純に芳江の実家で何かあって、急いで帰郷した可能性もある。そうかもしれない。いきなり電話の受話器を取って、卓郎は妻の実家に電話を入れた。しかし、妻は来ていないとの返事が返ってきた。それで逆に不審そうに、実家の義父が、何かあったのかと問い返してきたので、あわてて言葉を濁して卓郎はその場を誤魔化すと電話を切った。
 となると、芳江が突然、夢遊病の患者になっていない限り、やはり何かの事件に関わってしまったのか。苛立った卓郎の前に置いた灰皿が、煙草の吸い殻で山積みになった。とうとう、卓郎は覚悟を決めて、行方不明捜索で警察に電話をかけた。しかし、結果として警察は、この危急時に間に合わないと分かった。電話に出た担当者は、ひとまず家出人の捜索願いを提出して欲しいというのである。電話でのやり取りもそこそこにして卓郎はまた電話を切った。
 これでは、いよいよ埒があかない。卓郎は自分の書斎に閉じこもると、アンティークな机の前で、しゃれた砂時計をいじりながら、あれこれと思案していた。そこへ扉がノックされて娘の久美が現れた。よくみれば久美が困った顔をして佇んでいる。心配になった卓郎が優しく声をかけた。
「どうしたんだ、久美。もう、学校へ行く時間だろう。さあ、早く支度しなさい」
「父さん、あたし、この写真を見つけたの。この男の人、誰なの」
 久美が片手にちいさな写真を持っている。卓郎が問いただした。
「誰なのって、お前、その写真をいったい、どこで見つけたんだい。何のことだ」
「母さんの部屋で見つけた。昨日の晩に、母さん、この写真をじっと見つめてるのを、あたし、こっそり覗いていたの」
「昨日の晩だって。それで、母さんは、その写真の男を見ていたんだな、ふん、どれどれ」
 長髪で面長な顔立ちだが、まずまず精悍な印象の男性の顔写真だった。みれば、左の口もとに大きなホクロがある。おやっと思ったのも仕方がない。以前にどこかで知っている男のような気がしたからだ。だが、思い出せない。誰だったろう。しかし、卓郎の考えを突然、久美の声が遮った。
「それで思い出したんだけど、えっと、何日か前に、母さん、居間の電話で男の人と話してるのを聴いたんだ。母さんが、お願い、今日の何時にどこそこで会いたい、とか何とか言ってたよ。ねえ、それって母さんが消えたのと関係あるのかな、父さん」
「いいかい、久美。お前はあまり心配しなくていいから、早く学校に行きなさい。あとは父さんが何とかする。母さんのことは、この父さんに任せておきなさい。ほら、早く支度して」
 しぶしぶに久美が去ったあと、やや呆れた気持ちで、卓郎は久美の話を想い返していた。それにしても、あの真面目な芳江に不倫の相手がいたというのは、到底、信じられぬことであった。それに、以前から、密会していたとは、芳江の様子からはまったく窺えないことだった。なんて思いがけない展開なんだと、卓郎が心でつぶやいた時、書斎の鳩時計がけたたましく午前八時を告げた。卓郎の出社する時間が来ていた。

 その日の午前中は、芳江のことで頭がぼんやりして、部長に三度ほど叱られていた。まったくと言っていいほど、仕事が手につかない。デスクに置いたノート・パソコンの画面ではエクセルで作成した棒グラフのデータが表示されていたが、その上を、卓郎の視線が頼りなく泳いでいる。ふとした拍子に、卓郎はオフィスの壁掛け時計に視線が移った。そこで卓郎は昔に思いを馳せた。やがて過去の想い出が、いくつか交錯していく。青春時代。懐かしいキャンパス・ライフ。同級生だった芳江との出会い。そこで、いきなり、ハッとひらめいて卓郎はデスクの引き出しから、先刻の写真を取り出してみた。やはり、間違いなかった。ようやく思い出したのだ。その男性は、卓郎の大学時代の同級生の桑田だ。桑田の口もとのホクロもよく憶えている。なんということだ。そう、芳江は桑田とも仲がよく、放課後のデートもたびたび重ねていた。もしかすれば。こうしてはいられない。
 こっそりと部長の眼を盗んで、卓郎は大学の事務局に電話で問い合わせて、桑田の現在の住所を訊き出すのに成功した。なんと彼は、今、大阪に在住していた。詳しい住所は手もとのメモ帳にしっかりと書き込んである。これでよし。さあ、善は急げ、だ。その時、卓郎の頭のどこかで引っかかるものがあったが、それも分からずに卓郎は、焦る気持で早退願いを記入していた。「体調不良のため」と理由を書き込んで、部長に提出すると、何やら怪しげに卓郎を見上げてから、しぶしぶといった様子でようやく押印してくれた。背広の襟もとを正して気合いを入れ、グイと鞄を握り締める。さあ、大阪だ。そこで卓郎は、背中を丸めると、もう一回、財布の中身を確かめて、交通費に充分な金額があることを確認してからオフィスをあとにして、一路、上野駅へと向かった。
 大阪へと向かう新幹線の自由席は、平日の昼間ということもあって、比較的、客の姿も少なく、静かで居心地がよかった。背広を脱いで折りたたみ、荷物棚に上げると、窓際の座席に身をおいてボンヤリと外の風景に眼をやる。何だか、ちょっとした旅行に出かける気分だな、と車内の雰囲気にうっとり甘えている所へタイミングよく女の子が弁当の販売にやって来た。ようやく、昼飯にありつけるな、と卓郎は売り子に威勢良く声をかけた。
「ああ、君、焼肉弁当と、お茶をひとつ頼むよ。悪いね」
 すると販売係の娘は、むっとした表情をして冷たい口調で答えた。
「申し訳ございませんが、ただ今、焼肉弁当は販売しておりません。こちらの幕の内弁当でよろしいでしょうか」
 出鼻をくじかれたようで気分が悪い。しかし、ないものは仕方ない。やれやれと諦めて、購入した幕の内を手にして止めてある輪ゴムを外そうとした。そのとき、突然、後ろの席で大きなくしゃみの声がして卓郎はびっくりして飛び上がった。その弾みで、持っていた弁当を床に取り落としてしまった。一瞬のうちに、昼ご飯は水の泡となった。
 情けない気分で、缶ビールをチビチビと飲み、フライドポテトを口に運んでいるうちに、女性のアナウンスが入り、いつの間にか新幹線は新大阪駅に到着した。改札を出て、そのままタクシーを拾う。タクシーの扉を閉めると、調子よく、前にいた年配の運転手が卓郎をふり向いて声をかけてきた。
「へえー、お客はん、ええ背広着て、格好よろしおまんがな。バリバリでんな。何やろ、今日は会社の出張でっか。わしら、タクシー転がしてる連中も大変やけど、こんな暑い日中に、どうも、お仕事ご苦労さんです。東京から来はったんですか。しんどおましたろ。クーラー効いておますから、どうぞお気楽に。そうそう、ラジオでも聴きはりますか。ああ、東京はんやったら、プロ野球はやっぱり巨人ファンでんな。わしら、阪神ファン、最近は、連敗続きで、もういかれこれですわ。そうそう、野球ゆうたら」
「早く車を出してくれ。住所はこの紙に書いてあるから」
 と、卓郎は憮然として、メモ書きを運転手に差し出した。運転手はメモを受け取ると、しばらくそれを穴が空くほど覗き込んで声を上げた。
「へえー、芦屋でっか、一等地でんな。しかし、お客さん、これやったら神戸でんがな。かなり遠おまっせ。こんなこと言うたら何やけど、電車で行ったほうが安くつきますで。へえ。かまいまへんか。わかりました。ほな、猛スピードで行きますわ」
 やがてタクシーは高級住宅街の一角で停止した。なけなしの一万円札を使って料金を支払って、よっこらと卓郎はタクシーを降りた。すると景気のいい演歌の曲を流しながら、元気よくタクシーは去っていく。卓郎のすぐ前で、門構えの立派な日本風の邸宅が建っていた。表札を見れば、「桑田」としてあるから、ここに間違いない。それにしても豪華な屋敷だ。
 あの桑田がこんなに出世したとは、まったく驚きだった。しかし、東京に住んでいる芳江のことを考えると、これではかなりの遠距離恋愛になるではないか。東京と大阪の間で密会するのも実に難儀そうに思える。どうもおかしいぞ。ようやく卓郎はある直感が閃き始めていた。しかし、とりあえず、卓郎は広い玄関のインターホンを押して返事を待った。

「おう、お前か。懐かしいな。うん、俺は現在、ベンチャービジネスを起こして一儲けしたところだよ。食品業界だけどね。電子レンジで一発の、お惣菜を宅配する会社なんだ。最近は売り上げもなかなか伸びてきてね、今度は「レンジでラーメン」って企画をしたんだが、スタッフからは、案外と不評でね、それでまた新企画を練ってるところなんだ」
 和服姿の桑田が、威勢良く玄関まで現われていた。昔から相変わらずの長髪だが、話の強い口調には、彼の自信がみなぎっているようだった。口もとのホクロはそのままだ。それで卓郎は芳江のことを思い出し、いざ速攻で芳江のことを問いかけた。
「うちの芳江なんだけど、おかしなことに今朝から急にいなくなった。あいつが家出する理由もないのにさ。それで、変に思うだろうけれど、あいつの部屋に、なぜかお前の写真が残されていたんだ。まさか、お前、芳江と何かの関係はないだろうな」
 桑田は目を丸くして驚いたようだった。卓郎の言葉にうろたえたような口調で、桑田がしどろもどろに弁明した。
「あの芳江が蒸発したのか。ふむ。でも俺が彼女に最後に会ったのは、たしか、卒業記念コンパの時だぜ。それはお前も知ってるだろう。それに俺は過去で、あいつにフラレたんだ。そこまで未練がましい性格じゃないよ。俺は関係ない。何かの間違いだよ」
 彼の言葉には、確かにかなりの真実味がこもっていた。どうやら、彼の話に間違いはないようだと、卓郎は確信した。それで卓郎が黙り込んでいると、急に玄関の頑丈そうな扉が開いて、なかから清楚な感じの和服を着た若い女性と、幼い男の子が出てきた。その女性は、卓郎に軽く会釈すると子供を連れて、玄関の隣にあるガレージに向かって行った。桑田がやや照れたように小声で言った。
「あれが俺の女房と息子だよ。あいつは、いい妻だ。俺がここまで出世したのも、あいつのおかげでね。実家がけっこうな資産家なんだ。この屋敷だって」
「なるほどね。よく分かったよ、迷惑かけてすまない。本当にありがとう」
 今日は暑い日だった。ふと、どこかの軒先から、チリンと風鈴の鳴る音がした。

 帰りの新幹線の窓の外では、すでに夜景が広がっていた。暗闇のなかを、カラフルなネオンライトが次々と流れていく。まるで流れ星の集団のようだった。そして卓郎といえば、座席に深く座り込んでグッスリと眠り込んでいた。今日、一日の疲れがどっとあふれ出して突然の睡魔が襲ってきたのだ。グウグウといびきをかいて眠る卓郎の隣の席では、ちいさな女の子がロリポップを舐めながら、不思議そうな顔をして卓郎をジッと見上げていた。
 アナウンスが流れてからしばらくして、ハッと卓郎が、眠りから目覚めた。新幹線の車内は人も少なく、あわてて窓からホームを覗くと、そこは「東京駅」となっている。慌てて、背広と鞄を片手につかんでホームに飛び出る。その背中で、スーッと新幹線の扉が閉まる。ぎりぎりセーフだ。あらためて眠たい眼をこすりながら、ややフラフラとした調子で、卓郎は、帰宅のために改札口へと向かった。
 自宅の書斎に閉じこもって、ひとり卓郎は頭を抱えながら、何度も、消えた芳江に対して懺悔の言葉を繰り返していた。すまない、芳江。俺が悪かった、芳江。許してくれ、芳江。頼むから帰って来てくれ、芳江。本当に反省している、芳江。などなど。
 それから、芳江のいない一週間が過ぎた。その間、有給休暇を取っていた卓郎はジャージ着のままで、汗臭く、無精ひげも伸びてきた。そしてどうしようもない絶望感で、彼の気持ちは押しつぶされそうになっていた。そんな卓郎を、娘の久美は少し距離をおいた感覚で冷静に見つめているようであった。そして八日目の午後になって、ようやく苦悩の日々は終わりを告げた。妻の芳江が、無事に帰宅したのである。

「ただいまー。あーあ、帰りも長い旅で本当に疲れたわ。特急列車で四時間なのよ。クタクタになっちゃった。ああ、あなた、悪いけど、少しここで休ませてくださいね」
 居間の扉を空けたまま、綺麗なピンク色のワンピースを着た芳江が、巨大なトランクを傍にして現れた。卓郎は飲んでいた缶ビールの手が止まり、久美は読んでいた漫画雑誌から顔を上げた。眼を丸くした卓郎が、あまりのことに唇を震わせて言った。
「ただいまって、お前、今まで、いったいどこに行ってたんだ」
「どこって、だから、これに参加してたのよ」
 と言うと、くたびれた感じで芳江は手にした一冊のパンフレットを、卓郎のほうへ投げて寄こした。風情ある海辺の写真を背景に、派手に大きな文字で「家庭料理の特訓・奇跡の一週間合宿」と書かれてある。芳江が卓郎を咎めるような口調で言った。
「だって、あなた、いつでも私の料理を責め立てたじゃない。だから、これじゃいけないと思って、あれこれ悩んだ挙句に、私、家出するような覚悟で合宿に申し込んだの。この合宿ね、予想してよりもかなり格安の費用だったのよ。あなたに合宿のことを相談しても、きっと反対するって分かってたから黙って出た。それに、あなたが私のことを心配してくれてるのも少し嬉しいしね。でも本当にごめんなさい。今晩からはビックリするくらいの豪華料理を準備するから待っててね。さあ、がんばるわよ」
 しばらくの沈黙の後で、卓郎はゆっくりと久美のほうに向き直ってから、脅すように声を落として訊いた。
「おい、例の写真と電話の件はいったいどういうことなんだ、久美。正直に言うんだぞ」
 今にも泣き出しそうな気持ちで、口を尖らせながら久美が言い訳した。
「だって、お父さん、いつも母さんを泣かせてたから、あたし、少し意地悪してやろうと考えて、あんな嘘をついてしまったの」
 いっぺんに全身の力が抜けたように、卓郎はその場でへたり込んだ。ああ、それでは俺は何のために今まであんなに悩んでいたのだろうか。すべてに呆れてため息が出てきた。そして、しょんぼりと気落ちし、肩の力が抜けた卓郎は煙草に火をつけて、フウと煙を吐いた。やけにタバコの煙が眼にしみてくる。えいと腕組みをしたが、あまりの馬鹿さ加減に、また卓郎はガックリと首をうなだれた。
 その晩、隣の家の庭にいた飼い犬のポチは、垣根越しに卓郎の家の居間から漂ってくる甘い匂いに誘われて、ふと窓を覗いた。中からは、食卓を囲んで、とても楽しそうに談笑している家族三人の姿が活き活きと映っていた。どうやら夜の家族団欒の時間らしい。ポチも一声「ワン」と吠えて、鼻をクンクンさせて旨い匂いに、自分のエサはまだかなと首を傾げていた。   (完)

掌編小説「壁を叩く音」

  壁を叩く音は、ある晩に始まった。
 マンションの一室では、綺麗なインテリアに囲まれて、リズミカルにパソコンのキーボードを打つ音が響いていた。おしゃれな楕円形のガラステーブルに、購入したばかりの白いノートパソコンをおいて、友美恵はインターネットで検索したウェブサイトの私小説に没頭していた。最近まで、友美恵にはこれといった趣味がなかった。一流企業の営業部でOLとして勤めている友美恵だが、毎日繰り返される単調な生活にややマンネリズムを感じ始めていた。といって、気の多い性格の友美恵には、プライベートな趣味として最初に何から手をつけてよいのか分からない。そこで気の合う同僚の真理子に相談を持ちかけた。すると彼女から社内にあった一冊のネット販売のカタログを手渡された。
 これって、あれこれと調べているだけでも、結構、時間がつぶせて楽しめるわよ、というのである。それで友美恵は半信半疑な気持ちではあったが、さっそくノートパソコンを注文して、業者にネット回線のセッティングをしてもらった。始めのうちはランダムに検索の言葉を打ち込んでいたが、しだいに要領をつかんで、あちらこちらとサイトを開くうちにネット・ワールドに魅了されては、毎晩のようにキーボードを打って好奇な気持ちでページを繰っていた。
 ガラステーブルに置いた大きなワイングラスを取り上げて、赤ワインを少し口にする。いつものように夕食後のワインの味わいは格別だった。そしてまたパソコンのディスプレイを丹念に覗き込む。友美恵が読んでいるのは、ウェブサイトの純文学同人誌「文芸」に掲載された私小説の「湖面」であった。主人公の男性は、借金と酒にまみれた悲惨な生活から逃亡して、ある保養地に出向き、湖上でボートに乗って、過去の人生を回想していたが、ある交通事故をきっかけに第二の人生へ力強く歩み出していくという感動的な物語であった。
 そしてあと少しでその小説も終わろうとするころ、友美恵がワイングラスを静かにテーブルへ戻した瞬間に、突然、壁を3回叩く音がした。たぶん、隣の住人が部屋の家具を模様替えでもしているのだろうと、友美恵は軽く判断して、その時は、それほど気にも止めなかった。やがて私小説「湖面」はハッピーエンドを迎えて終了し、さわやかな読後感でよろこびに満たされた友美恵は、パソコンを丁寧に閉じると、ルンルン気分で眠る前のシャワーを浴びた。ベージュ色のバスローブを身にまとい、ベッドに落ち着くと、濡れた髪をバスタオルでよくふき取る。
 壁を3回叩く音がした。ギクッと驚いて、友美恵の動きが止まる。恐る恐る、友美恵は壁にかけた時計を見上げて、午後の十一時を過ぎていることを知った。あら、こんな遅くまで騒がしいわね。明日もうるさいのなら、隣へ行って直接、注意しなくては、と心に決めてから、友美恵は念のためにと、ベッドサイドの引き出しから、ようやく耳栓を探し当てると、それを耳に当てて、勢いよく布団のなかにもぐり込んで眠りについた。

 翌朝になった。シンプルなデザインの鏡面にうつる友美恵のスタイルは、上下が黒のスーツで肩からは紅色のハンドバッグを提げ、スレンダーなボディラインに合わせてビシッと決まっている。これでよし。それでようやく今日の戦闘準備が完了した友美恵は、心地よくラベンダーが香っている玄関に置いた黒いゴミ袋を厄介そうに持ち上げると部屋を出た。今朝は可燃ゴミの収集日であった。いつもどおりに部屋の鍵をかけ、通路を行きかけてふと足を止めると、隣の部屋の扉をしげしげと眺めた。そしてそこに貼りつけられた白いネーム・プレートを見つけると、それが名前もなく白いプレートのままであることが分かって少し不安を感じた。でも、ここの住人がまだ引っ越して来たばかりで、表札の明記までは手が回っていないとも考えられる。また、近いうちに引っ越しの挨拶にでも来るだろうと、安易な発想で自分を納得させておいた。さて、仕事だ! 満員電車を目指して、階下へ降りるマンションのエレベーターの扉へと向かった。

 山積みのコピーでデスクを一杯にした午前の仕事が終わって、ようやく会社の昼休みがやって来た。ホッとした友美恵は、同僚の真理子と一緒に、社内にある明るい雰囲気のカフェ・レストランの丸いテーブルに向かい合って、昼食のシーフードドリアとシーザーサラダを前にして話し込んでいた。最初の話題はいつも口うるさい上司の愚痴話だったが、それが途切れると、友美恵が急に思いついたように例の物音の一件を話し出した。
「―っていう事なのよ。ねえ、真理子はどう思う。やっぱり引っ越しの最中かしら」
 すると真理子があきれた顔をして、とがめるような口ぶりで友美恵に答えた。
「何かの都合で壁を叩くってこともあるだろうし、それに、1、2回のことで騒ぐほどのこともないでしょう。本当に友美恵は神経質な性格なのね。でも、もしかしたら、友美恵の幻覚の一種かもよ? いちど試しに神経科を受診してみては、いかがかしらねー。それで何か分かるかもよー。まあ、たいしたアドバイスなんて私には出来ないわね。ごめん」
 そう言ってから、真理子は、ばっさりと友美恵を黙殺したように、もう彼女の話には返事もしないで、ひたすら食事に専念していた。

 パソコンのディスプレイでは、ネットで配信された青春アニメの「サクラ咲く恋」が放映されていた。そこでは主人公の女子高校生のサクラが、初恋の相手、孝夫に、念願のラブ・レターを心臓バクバク状態で差し出している場面だった。友美恵は、ずいぶん前から飲んでいたワインで少し睡魔に襲われながらも、壁の時計で、もう午後の十一時を過ぎた頃だと分かった。そろそろ眠ろうか、と友美恵は考えていた。画面では、ラブ・レターを渡したサクラが、恥ずかしそうな声を上げて校内の廊下を駆け去っていくところであった。そして、その時、壁を3回叩く音がした。しばらくの間をおいて、また壁が3回叩かれる。そして、また3回叩かれた。それでとうとう、友美恵は頭に来た。これは放っておけない。
 
 やがて友美恵は、まるで壊れそうになるほど強い勢いで、ドンドンと隣の部屋の扉を叩き続けていた。しばらく待ってみたが、何の返事もない。よくみれば、おかしなことに部屋のチャイムもついていなかった。何だか、気味が悪い。それで仕方なく、扉の隙間から中を覗き込んだ。広めのワンルーム・マンションのはずだが、その部屋のなかは明かりもなく、真っ暗である。混乱した友美恵は激しい精神的パニック状態に陥り、顔は青ざめ恐怖と戦慄が友美恵の全身を駆け抜けた。
「ひ、ひいー。だ、誰か、助けてえー」
 と、わけの分からない言葉を繰り返しながら、友美恵は乱れた足取りで自室に戻ると、扉の内側から何度も鍵をかけ直して、急いでパソコンの電源を切り、部屋の明かりをつけたままにして、布団のなかに飛び込んだ。けれど、覚めない恐怖に、心臓はバクバクと飛び出しそうに息苦しい。眠られるはずもなかった。しばらく抵抗した結果、もう観念したのか、恐る恐る布団から這い出ると、友美恵はダイニング・キッチンにゆっくりと向かった。そしてワインラックに寝かせてある赤ワインのボトルを一本抜き出してグラスに注ぎ、一心不乱に三杯を立て続けに飲み込んだ。やがて意識朦朧で前後不覚になると、何やらブツブツとつぶやきながら、ふらついた足取りのまま、友美恵はベッドに倒れた……。

 翌日は土曜日で、休日であった。早朝に、部屋の扉が開くと、中から乱れた髪のままでパジャマ姿の友美恵が現れたかと思うと、彼女はスタスタと小走りにエレベーターに向かい、しばらくして一階の玄関わきにある管理人室の扉をノックしていた。若い女性の演歌歌手らしき甘い歌声が聞こえる。すると中から、管理人の杉村が、妙に、にやけた顔をニュッと出したが、友美恵の姿を認めると、とたんに真面目な顔つきをして無愛想な声で用件を尋ねてきた。気が抜けた調子で友美恵が昨夜に起きた出来事を正直に告白すると、スッと杉村の顔が扉の中へ引っ込んで、ようやく片足にギブスをつけて松葉杖をついた杉村が姿を現した。それでもう一度、寝ぼけたような顔つきで、友美恵は昨夜のことを繰り返して話した。すると杉村は、うんうんと黙って彼女の話に耳を傾けていたが、そのあとで怪訝な表情をしながら、こう語った。
「ふん、あなたが話した部屋のことは今でも憶えていますがな、たしか、前に住んでいた方なら三十代の独身女性でしたが、二年ほど前に結婚退職と同時にあの部屋から出て行かれて、現在では空き部屋になっとりますぞ、……さて真夜中に壁をドンドンとねえ、しかし、それにしても奇妙なことですなあ」
 それではと、友美恵と杉村の二人は問題の部屋を実際に、確認する事になったが、空き部屋のままで、その部屋の鍵はしっかりと掛けられていたことも判明した。では、誰もいない部屋で起きた、あの物音はいったい何なのか。友美恵は頭を抱えて悩みそうになる自分をこらえて、一応、杉村に礼を述べて帰ろうとしたが、それを杉村が引き止めると、一緒に将棋を差してみないかと言い出した。将棋ですって。こんな朝早くから、冗談じゃない。声をかけて来る杉村に無言で頭を下げて背中を向けると、どうやら杉村もあきらめたようで、ブツブツと文句を言いながら退却していく。友美恵は、その場で何度も深呼吸を繰り返しながら、出来るだけ平常心を心がけて隣の部屋の前を冷静に通り過ぎると、あわてて自宅の扉の中に飛び込んだ。そして、ある意味でこれは恐るべき超常現象だ、何とかしてこの原因を突き止めなくては、と友美恵は真剣に考えて、ようやくマンションの近くにある公設の図書館へ出向くことに決めた。
 休日のために多くの客で混雑した図書館の閲覧室の机に、世界中の心霊現象の書物を山積みにして、大きな革表紙の専門書のページを開いた前で、ポルターガイスト、ドッペルゲンガ―、ラップ現象、幽体離脱、ウイッジャ・ボード等々とつぶやきながら、髪を乱した友美恵は何度も襲ってくる睡魔と格闘していたが、これでは埒が明かないと、やがて降参して、トボトボと図書館をあとにした。しかし、このままでは、夜が来るのがとても恐ろしくて仕方がない。そこで友美恵は自宅の電話から真理子の携帯電話に掛けてみた。彼女が一緒に居てくれたら、とても心強い。今夜の一晩だけでも、ともに過ごしてくれないだろうか。すると真理子はいいよ、とすぐに承諾してくれた。二、三時間して、自動車で駆けつけた真理子が、どこかのコンビニで買い込んだ食料品のレジ袋を両手に抱えて、ひと眠りして落ち着いた友美恵の前に姿を見せた。そして友美恵にレジ袋を示して、とても残念だけど、ワインだけはどこにも見当たらなかったの、と軽い冗談で友美恵を笑わせてから、おもむろに友美恵と二人で夕食の準備に取りかかった。
 想い出に残るような楽しく愉快な一夜であった。友美恵自身が驚いたことに、例の物音は一度も鳴らなかったのだった。真理子と二人で、夕食のカルボナーラとコールスローサラダを食べて、ワインを空け、パソコンのネットショップで、近いうちに来る真冬に備えて二人分のロング丈のダウン・ジャケットを買い、またワインを空けては、友美恵が大好物のスップリを夜食に食べて、またワインで乾杯した。あっという間に夜は明けて、朝の小鳥がさえずり出した頃には、二人はベッドの上で、すでにグッスリと眠り込んでいた。

 またね、と笑顔をみせて帰宅していく真理子の自動車を見送ってから、友美恵は気を取り直すと、朝のシャワーで軽く汗を流して、トーストとハムエッグにダージリン・ティーで朝食を済ませて外出し、休日に行きつけのエステティック・サロンに寄り、エスニック料理の専門店で昼食を取り、遠出しては銀座でアクセサリーのショッピングで夢中になった。そして、くたびれた彼女がようやく自宅のマンションに戻ったのは、すでに夕暮れのときであった。
 ダイニングキッチンで、気分よくモーツアルトのピアノ・ソナタを流して、夕食のチョリソーとサルサのピザにワインの準備をしながら、友美恵は幾度か壁のほうへ耳を澄まして、物音がしないのを確かめて安堵のため息をもらした。そして、やはり、あれは私の錯覚だったのかしら、とあらためて首をかしげた。でも、そういえば、と友美恵は思い返す。あれはたしか、どこかで聴いた記憶のあるような物音だ。では、いったいいつの頃かしら。白いレースのカーテンが揺れる窓の外では、早くも夜が訪れていた。ようやく友美恵は焼き上がった熱いピザをオーブンから取り出して、白い器に盛り付けようとした。
 
 突然に、バタンと大きな音を鳴らして、玄関の頑丈な扉が開かれたかと思うと、片手に刃物を握った大男が、黒い覆面をかぶって友美恵の部屋へ侵入してきた。思わず、友美恵は手にした器を床に落とし、それは悲鳴のようなかん高い音を立てて砕け散ってしまった。
 その強盗が、押し殺した低い声で友美恵を脅した。
「おい、そこの女、黙って、おとなしく現金を出してもらおうか。ふん、さもないと………」
 ゆっくりとした動きで、黒いジャンパーを着た大男が友美恵に迫って来た。ガクガクと怯えて震えながら、接近する男の動きに合わせて、友美恵は必死の思いで身を退けていく。しかし友美恵はついに奥の壁際に追い詰められてしまった。その勢いで、ベッドサイドに置いた大型のシェードランプが転がり落ちて壊れた。ついに助けを求めて、誰かに知らせようと、友美恵は無意識のうちに片手の握りこぶしで部屋の壁を叩いていた。1、2、3回と。
 
 そして友美恵は、自分自身でハッと気づいた。それは友美恵の子ども時代のころだった。まだ幼ない友美恵が、夢中になって机に向かい勉強していると、家にやって来た友だちの由香ちゃんが、悪戯をするようにニヤニヤと外から部屋の窓ガラスを1,2,3回と叩いてきた。表に出て、いっしょに遊ぼうという、いつもの合図だった。ねえ、お外に出ようよ………。しかし、友美恵が中学校に上がる時になって、由香ちゃんは突然の交通事故であっけなくこの世を去った。亡くなった由香ちゃん。こんな恐ろしい事態になることを由香ちゃんは知っていた。そして何度も一生懸命に友だちの私に伝えようとしたのだ。
 しだいに薄れていく意識のなかで、友美恵は嬉しさに涙を流しながら、刑事らしき男たちに取り押さえられる大男と、こちらへ駆け寄って来る真理子と若い警官の姿がうっすらと浮かんでいた。よかった、ようやく助かったわ。そして穏やかに心地よく、友美恵はゆっくりと気を失って行った………。    (了)  

                              

掌編小説「電話ボックスの黄昏」

 今日もまた、電飾の夜を迎えようと、艶やかで静けさを装う煌々とした夕暮れの時が訪れようとしていた。
 野の林のように立ち並んだ高層マンション街では、すべてが赤一色に染め上げられて、やがて暗黒に包まれる時をじっと待っているかのようであった。その赤い街には行き過ぎる人の影もまばらで、皆が同じようにため息をつき、うなだれているかのような雰囲気があった。その揺れ動く人影たちのなかに、人生に絶望し永遠の安らぎを求めて舗道を彷徨う一人の若い女性の姿があった。

「ああ、どうだろう…この道の向こうには、いったい何が待っているのかしら。何もかも失なった私を、迎え入れてくれる誰かが待っているのかしら…でも、もういいの。それでいいの。死んでいければいいの。死ねば永遠に安らかな眠りが待っているから。今の生き地獄から逃れて私は気持良くこの瞳を閉じて死んでいけるから」そう美佐子は言い聞かせていた。彼女の黒いハンドバッグは、歩き続ける彼女の隣りで、まるで振り子のように右へ左へと、ゆらゆら揺れていた。美佐子の身につけているのは、地味な色合いで安っぽいワンピースと白いハイヒールだった。右足のヒールは無残に折れて、その傾いた足取りは、今にも風に飛ばされそうに、とても頼りなげな様子だった。
 ふと、近くの誰かが、不審そうに美佐子を振り向いたのかもしれない。そんな声がした。しかし美佐子はそれと気づかぬままに、ただ眼の前の何もない空間をみつめながら、おぼつかない調子でこつこつと前へ進んでいく。彼女だけの時間がゆっくりと過ぎていく。そしてどこまでも赤いマンション街の真上で、太陽はまるで、くつろぐかの様にゆっくりとおだやかに沈もうとしていた。

 どっぷりと酔い乱れた彼の毛むくじゃらで大きな右手が、激しい勢いで、怯えた美佐子の顔を繰り返し叩きつけた。大きな音を立てて美佐子の顔が弾け、眼を見開いたままの彼女の唇から血が吹き出して飛んだ。ぎゃーと悲鳴を上げて美佐子は床に倒れる。それでもまだ気がすまないように、彼は小さく舌打ちをして、今度は部屋の隅で布団にくるまれて眠っている幼い赤ん坊に眼をくれると、近づいて、いきなり握りこぶしを振り上げた。
「待って、あなた。お願いだから、この子にだけは手を上げないでちょうだい」
 と声を上げる美佐子には、まったく意を介さずに、彼は赤ん坊に掴みかかろうとする。異変に気づいた赤ん坊が眼を覚まして泣き声を上げ始めた。この子が殺されてしまう。美佐子は我が身を捨てる覚悟で赤ん坊の上に身を伏せ、うずくまっては背中を蹴り続ける彼の攻撃に耐えつづけていた。
 やがて泥酔した彼は気持ちよさそうにグウグウと畳の上で眠ってしまった。丸刈り頭で角ばった顔つきの大柄の男だ。そして美佐子は全身の痛みに耐え切れずに涙を浮かべ、うつろな意識の中で模索していた。
 いつの間にこんな悲惨な生活に変わり果てたのだろう。以前の彼はこうではなかった。突然のリストラによる失業とアルコール中毒が彼をここまで狂わせたのだ。
  しかし、このままでは私と子供が彼の暴力に身も心も破滅してしまう。急いで、ここから逃げ出さなくては。それも今すぐに。美佐子は、はやる気持ちを何とか抑えながら、赤ん坊が泣き声を上げぬようにそっと抱き上げて、鏡台に置いていたハンドバッグのなかを確かめると取り上げ、鏡で、乱れた髪を手で直してからアパートの部屋を出た。しかし、どこにも行く当てはなかった。どうすればいいんだろう。ともかく、ここからどこか遠くへ離れるしかない。それから改めて行き先を考えよう。意を決して美佐子は足早にアパートから立ち去っていった。それが、美佐子の孤独な逃避行の始まりであった……。
 
 生き地獄のような記憶を残してアパートの部屋から逃げ出した美佐子は、しばらく当てどなく徘徊していた。やがて、彼女が抱きかかえた赤ん坊がゆっくりと眼を覚ますと、大きな泣き声を上げ始めた。やさしく赤ん坊の体を揺らしても、一向に泣き止む気配がない。彼女が困り果てたころに、タイミングよく公営団地のそばにある小さな公園に出た。それで彼女は、公園内にいくつかあるベンチのひとつで休んでは、赤ん坊を抱えたまま、ぼんやりと物思いに耽った。すでに彼女の頭には、これから将来への希望は微塵もなく消えていた。彼女の未来へのすべての扉が、ことごとく閉ざされていく。と同時に、死への願望がゆっくりと頭をもたげて彼女を支配し始めていった。
 明るい日差しの差す公園の美しい光景と裏腹に、もはや彼女の気持ちはありえないくらいに暗く澱んでいた。想い返せば過去に、顔も判らぬ両親に捨てられて孤児院で育った美佐子の唯一の夢が、将来、素朴で明るい家庭を持つことであった。ごく平凡でいい。温かで穏やかな家族の生活。ただそれだけ。しかし、結果として、容赦ない現実は彼女の想いを残忍なまでに打ち砕いてしまった。そう、あの狂った獣のような男の住むアパート以外に私の帰る場所はもうない。ならば、いさぎよく、私の人生を終わりにしてしまおう。遅かれ早かれ、誰でも人生の最後はいずれ訪れてくるのだから…。

 その時また、赤ん坊が泣き出した。そのあどけない泣き顔をじっと覗き込む。もう私は死んでもいい。でも、苦しみとともに産んだこの子の将来だけは……。しばらくの躊躇のあとで意を決したように、美佐子はハンドバックから手帳を探り出すと、一枚の紙片をむしり取って、そこへペンで走り書きをしたためた。「私にはもうどうしようもありません。どうか、この子をよろしくお願いします」しかし、それは美佐子にとって、まさに断腸の思いであった。やり切れぬ気持ちで、そのメモ書きを赤ん坊の胸もとにへヤピンで留めると、そのちいさな体を静かにベンチの上へ横たえた。もはや、悩んでいる時間はない。取り戻す未練が湧き起こる気持ちが起きない間にこの場を離れなければならない。そして急いで駆け去っていく美佐子の眼に溢れんばかりの涙が出てきた。やがて遠くから、去っていく美佐子に追い討ちをかけるように、公園で遊んでいる子供たちの笑い声と歓声が上がった。

 意識が朦朧とした美佐子は、さっきまでの都会的なマンション街を通り抜けると、やがて鄙びた駅前商店街の前に差し掛かった。敏感になった彼女の耳にさらさらと河の流れる音が聴こえてくる。素朴なせせらぎの音が疲れ果てた美佐子の耳にしばらくの間、心地よく響いていた。そこでは茶色く濁って汚染した河の上に小さな橋が架かっている。橋のたもとで、美佐子はふと足もとに眼を止めた。石畳の路上に、ちいさく鋭利なガラスの破片が落ちている。虚ろになった彼女の気持ちを誘うように、ガラス片が鈍く輝いている。しゃがみ込んだ美佐子はそっと破片を拾い上げると、それを自分の左の手首にあてがってみた。しかし手首は切れない。ためらいがあった。どうやら彼女の命を絶つ気持ちに逆らう何か、がある。いったい何だろうか。と、その時、美佐子の背後に何やら鋭い視線を感じて、驚いたように彼女は背後を振り返った。
 そこには煙草店があった。その店先の窓口で、背中を丸めたエプロン姿の小柄な老婆が、丸眼鏡のレンズの奥から無表情にじっと彼女を見詰めている。それで急に何やら不安な気持ちに襲われて、美佐子は手にしたガラス片を河に投げ捨てると、老婆の視線を振りきるように、見上げて遠くに視線を投げた。すると白い歩道橋が視界に飛び込んできた。その歩道橋の下を猛スピードで電車が駆け抜けていくのが見えた。そうだ。あの歩道橋から落ちて電車に衝突したら、私は間違いなく死ねるだろう。その衝撃も一瞬のことに過ぎない。自分の死に場所を探し当てて、美佐子は何やら少し肩の荷が下りたような気がした。
 
 ここで最後を告げると決めた白い歩道橋の階段を、まるで過去の想い出を懐かしくかみ締めるような気持ちで美佐子は力強く昇っていこうとしたが、どうやら身体がふらふらと揺れているようだ。ほとほと歩き疲れたせいか、美佐子の息づかいも荒く苦しげだ。ようやく橋の上までたどり着いた頃には、それならばいっそ、このまま倒れて死んでしまえばいいと、やや自暴自棄な気分で、重い溜め息をついた。しばらくして橋の欄干から、気の抜けたような身体を乗り出しては、真下を見おろしてみる。灰色の砂利石を敷き詰めた二車線の線路を、今、まさに大型の電車が猛スピードで美佐子の下を駆け抜けていく。これなら、ひとたまりもなく絶命するだろう。
「さあ、美佐子。決して何も恐れることはないのよ。これであなたも、生涯の生き地獄からあっという間に解放されるのだから。もう、自由なのよ。ほら、美佐子。今こそ勇気を出して」
 思い切って歯を食いしばり、強く両眼を閉じて、美佐子は橋から身を投げ出そうとした。さあ、最後の瞬間が来た。と、そのとき、バタンと大きな物音がしたかとおもうと、予期せぬことで、美佐子はそのまま、あわてて身をすくめてしまった。それで何ごとかと、美佐子が振り向くと、彼女の足もとに口を開いたハンドバッグが落ちて、中から一枚の白いカードが飛び出していた。美佐子は怪訝な面持ちで、いったい何かしらと、白いカードを拾い上げる。そこには、「こころのダイヤル・・・お悩み事・お困り事があれば、いつでもご相談ください。あなたからのお電話をお待ちしています」と書かれている。
 最初は、いまさらこんなものがどうしたの、と安易な気持ちで破り捨ててやろうかとも思ったが、ふと考え直して「うん、そうだわ、死ぬ前に誰かへ別れの言葉を残しておくのもまんざら悪くなさそうね」と改めて、その電話番号を確かめた。この近くに電話ボックスはないのかしらと、また辺りのあちらこちらに視線を走らせる。すると歩道橋の反対側に、自動車が行き交う広い国道が通っているのが、ちいさなビルの隙間から覗いている。その傍らに狭い駐車場と大きなコンビニが看板を上げているのが見えた。隣には電話ボックスが立っている。よくは見えないが、ボックスの中には人影があるようだ。

「実はさあ、俺、ついさっき、初めて行った駅前の喫茶店のマスターに聴いた所なんだけどさ、ここの電話ボックスから見えてる、あの白い電車の歩道橋、何でも人の噂によれば〝足摺り橋〟って呼ばれてるらしくて、以前から飛び降り自殺の名所なんだって」
 透明なガラス張りの電話ボックスには、地味な背広を着た若い男の先客が、電話で会話の最中だった。そのそばに立った美佐子の耳には男の会話が、手に取るようにはっきりと聴き取れた。美佐子は手にカードを握ったまま、信じられぬ彼の話に思わず驚愕していた。
「本当だって、母さん。先月も二人、あの歩道橋から自殺したんだぜ。一人は失恋した女子高校生、それにもう一人はリストラで失業したサラリーマンだって。よくいう、最近流行の心霊スポットってやつかな。でも、何だか気味悪いよ」
 「自殺の名所」。そして「心霊スポット」。その言葉で、あっという間に美佐子の悲惨だった心境が変化し始めた。そうなの? もしかしたら、いや、本当にそうかもしれない。私が死のうとした理由、それはあの夫の暴力だったのではない。そもそも、夫の暴力そのものが、あの白い橋に原因していたのかもしれないのだ。そして、私までもが、あの橋の魔力に誘われて、ふらふらと、さまよい歩いて引き寄せられて殺されようとした。そうよ、殺されようとしたの。やがて美佐子の心に激しいまでの戦慄と恐怖心が沸き起こってきた。そして一瞬のうちに美佐子は現実世界に戻された。殺されたくない。そして何よりも、死にたくない。決して私は死にたくはないわ。
「そうそう、とうとう由香里のやつ、あの男と駆け落ちして、家出して出て行ったよ。うんうん、それは分かってるよ。亭主の俺にも責任はある、でも、由香里は金遣いが荒いし、派手で身勝手なタイプだろ。それで、前からこうなるとはうすうす感じていたんだ。今ごろ、あの男と、どこかの洒落たレストランで〝二人の未来に乾杯!〟ってところじゃないのかな。あとに俺と息子の太郎を残しておいてさ。本当、いい気なものだよ」

 男の話に、美佐子はこころから同感していた。結局、この人も私と似たような境遇なんだ。実際、男も女も結構、身勝手なものね。世の中って、どこかで誰かが楽をすれば、その分、誰かが苦労しなけりゃならない。これって理不尽なのかしら。美佐子は重くため息を吐いた。また電話ボックスの男が話す言葉が、彼女の耳に入った。
「…俺の性格なのかな、いつまでも過去に捕われたくないんだ。だって無意味だろ、どうあれ、過去って変えられないよ、それに嫌な出来事も放っておけば、いつの間にか、遠い記憶になってくれる。だから、また将来の夢をもう一度、描いてみようと思うんだ。俺はこれから第二の人生を歩んでいく」
 美佐子の表情が徐々に明るくなってきた。美佐子は考えていた。そうよね。ものは考え様よね。現在、私は本当に、また自由を手に入れたのかもしれない。私の人生なんだから、私の好きにする。やろうと思えば、この世のなか、何だって挑戦できる筈よ。そう、がんばったり、楽しんだりねえ。これからは、苦しんでも生きていく勇気を持たなくちゃ。がんばれ、がんばれ、美佐子。
「それでさ、俺、ドライブが趣味だろ。で、昨日、久しぶりに海を眺めてみるかと、近くの海岸まで、気分転換に車で出かけたんだ。ラジカセで、ポップな音楽を聴きながら、でっかい海をみていたら、俺、パーッと気分が晴れてきて、爽快、爽快って感じなんだ。車のドライブっていいよ。さあ、今度はどこへ行こうかって、今もあれこれ思案中なんだ」
 音楽鑑賞か。そう、そう。ようやく美佐子は、いつもの忙しい日常生活で、いつの間にか忘れていた憧れの女性歌手の甘い歌声を思い出していた。つい最近も、また彼女の新曲のアルバムが発売されたことは、近所のスーパーで流れていたラジオ放送で知っていた。ぜひ、聴いてみたい。今からでも、駅前デパートのレコード店に出かけよう。何だか、楽しい気分になってきたわ。
「ああ、母さん、うっかり忘れていたよ。俺、今日は自宅に息子の太郎を、おいてきたんだっけ。もう、こんな時間になってしまった。太郎のやつ、きっと、お腹を空かせて待っている筈だ。俺、急いで帰ることにするよ」
 公園で置き去りにした私の大事な赤ちゃん。そうだ。うっかりと今朝からまだ一度もミルクを飲ませていないきっと腹ペコだろう。ああ、今は音楽どころではないわ。とにかく一刻も早く、公園に残してきた私の子供を連れ戻さないと。急げ、美佐子。

 カチャンと電話を切ると、悩み事を打ち明けて気が済んだのか、若い男はゆっくりと落ち着いた心持ちで電話ボックスを出た。どこか遠くで、駆け去っていく女性の靴音が、たかく響いて来る。さて、今日の仕事も無事にこなしたな。彼はきつくなったネクタイに片手をあてがって緩めようとして軽くうつむくと、すぐ足もとに落ちている小さなカードに眼を止めた。何だろうか。「こころのダイヤル」と書かれているようだ。彼はそれを軽く拾い上げると、すこし笑顔を浮かべ、再びボックスの扉をひらくと、白いカードを緑色の電話機の上に置いて少し気分が軽くなった。そして手にした薄っぺらな財布の中身を確かめると、彼は上機嫌で軽く口笛を吹きながら、彼の車が待っている駐車場へと向かった。
 電話ボックスは、今日も孤独になって残された。しかし、いつも、どこか寂しげな電話ボックスは、今日は何かをお祝いする特別な日でもあるかのように、とても元気そうに、凛として立ち、穏やかな夕陽を受け止めていた。今日もまた、電話ボックスに黄昏が訪れていた。誰の人影もない。そして巨大なビル街に沈みかけた赤い太陽は、まるで、おおきくあくびをしては、のんびりと居眠りしているようであった……。   (了)

掌編小説「或る一日」

  昨晩から流れたままのテレビ画面に、カラフルな照明の収録スタジオで、早朝のテレビ・ショッピングの放映をしていた。赤いレオタードを着た、ひとりの筋肉隆々なアメリカ人男性のトレーナーが、巨大なトレーニング・マシンの「ツイスト」を両手に抱えて、ぐいぐいと腹筋を鍛えているところだった。バック・ダンサーとともに男性トレーナーが身体を揺らせながら、にっこり笑うと、実に健康的な印象を受ける。一緒に流れているダンス・ミュージックも軽快に弾んでいた。やがて商品申し込みのフリーダイヤルを、女性アナウンサーが爽やかな声で伝え始めた。
  汚れの目立った薄い毛布を無意識に片手で振り払うと、荒々しげに俊郎は眼を覚ました。どうも、いやな夢を見たようだ。それにしても何という寝苦しい暑さなんだ。俊郎は、もぞもぞと布団から這い出ると、枕のそばに置いた、くしゃくしゃの小箱から一本のタバコを引き抜いて旨そうに吸った。やがて、あたりにタバコの煙が立ち込めて、畳敷きのひと間は白い「もや」で包まれていく。片隅の流し台や、小型冷蔵庫や、畳に置いた座卓の姿がやや霞んでいく。そして二本目のタバコに手を伸ばしたとたんに、俊郎は急激な尿意を催した。こいつはやばい、と俊郎は、びっしょりと汗まみれのパジャマ着のままで玄関わきのトイレへと向かった。ややもして用を済ませた俊郎は、ひび割れした洗面台の前で、よく手入れした鏡をややこわごわと覗き込む。
 ああ、また少し顔の小じわが増えてきたような気がする。歳をとったって証拠だな。泣かせるねえ。

 テレビのニュース番組は最新情報を伝えている真面目そうな若い男性のアナウンサーの姿が消えると、大きく日本地図が映し出されて天気予報のコーナーに変わった。「今日は全国的に晴れの空模様となるでしょう。ただ猛暑日が続きますので、熱中症対策には充分にお気をつけください」
  俊郎は、部屋のガラス窓にカーテンはなく、堅く閉ざされているのに眼を向けてから、いつの間にか空腹になっている自分にようやく気づいて、やや情けない顔になっていた「まだ何か、残っていたかなあ…」と少し不安な気持ちで小型冷蔵庫の中をごそごそと探ってみる。
「まるで、現在の俺、ゴキブリの気分だな。どれどれ、ああ、あった、あった」冷えた焼き鳥の缶詰をひとつ、見つけると、それを座卓の上でパカンとあけて、急いで口へとかき込んでしまう。「あとはこれだな」と息まいた調子で座卓に空のコップを置いてから、生たまごをポンと割って入れ、そのまま、グイと飲み込む。これで朝食をすませた。

  テレビでは新型スマート・フォンのコマーシャル。舞台は江戸。水戸黄門の一行が立ちはだかって、印籠ならぬ、スマホを取り出しては「さても、これが眼に入らぬか」と、悪党奉行に土下座させるシーン。俊郎は「結構、笑えるねえ」と笑みを浮かべた。BGMでは、現在流行のポップス「君と歩んで」の曲が高らかに響いて来る。 俊郎は、朝食後のタバコ一服を終えたところである。それでいわゆる無の境地に達した彼は、そのまま、ごろんと布団の上で気持ちよく寝そべる。足もとで絡んでいた雑誌をホイと拾い上げてみる。写真週刊誌「シャッター」だった。
 先週号のそれをひろげて、ページをパラパラと繰った。おやっと最初に彼の眼を引いたのは、人気アイドル、夢緒かなえの不倫騒動の一件だった。写真では、頭を下げて詫びる彼女の記者会見の様子がリアルに写されている。かなえの顔はよく見えないが、泣いているらしいとは察せられる。「しかし、将来ある若者だ。彼女の私生活だっていろいろあるさ。泣かせるねえ」
 俊郎は、ため息をつき、情けない気持ちを拭うように雑誌を放り投げてから、ひと汗かいたパジャマをモゴモゴと脱ぎ、下着姿であぐらを組んだ。今日も今日とて夏日で暑さもひとしおである。
「こいつは夏から、た、た、たまらんなあ」と即興の歌舞伎役者よろしく、しかめ面で両手を広げて大きくポーズを決めてみる。しかし、どうも、見栄えがないのはたぶん俺の練習が足りないからだろうと、勝手に決めてかかる。軽く苦笑いしては、部屋の扇風機のスイッチを入れて、ダイヤルを「強」にセットする。だが、扇風機の風は一向に生ぬるくて気持ち悪い。あの「秋」の御方はいつになれば来てくださるのだろうか。

  テレビはニュース番組。海外諸国の近況が報道され、その生々しい内容は切迫した過激な現実の実態を垣間見せている。うん、うん、と俊郎はうなずいて、その成り行きを真剣に見守っている。どうやら抗議行動の群集が、武器を構えた軍隊に向かって非難の叫びを声高に投石を繰り返しているようだ。やがて、飽きると俊郎はテレビの隣に積んだ文庫本の山に気が向いた。そういえば、最近、読んでないなあ。少しでもがんばってみるかな。その背表紙を下から順に眺めていく。「宮本武蔵」、「忠臣蔵」、「新撰組」等々時代ものが十冊ほど積み上げられている。俊郎は、一番、底にある「宮本武蔵」を取り上げて、またパラパラとページを繰っていく。そしてある登場人物を探してから、その男の台詞を所々に真似てはつぶやいてみる。また時折、首を傾げては、いつしか、我を忘れてしまうと、俊郎はひたすら読書に没頭していた。
 「 野田さーん、宅急便でーす」と、玄関の扉の向こうから呼び声がする。いつしか寝そべっていた俊郎は顔を上げて、荷物を受け取りに行く。二人の間で何やら笑い声が上がり、やがて荷物を手にした俊郎は、部屋に戻るとそれを座卓に置いた。小さくて可愛い段ボール箱だった。送り主の氏名欄から、しばらくの暗中模索の結果、それが旧友からのものだとようやく判明した。

  テレビでは、お昼のバラエティー番組の「笑っていいかも」が、賑やかにスタートしていた。イケメンの若いダンサーたちが舞台を踊り回ってから、いよいよ待望の司会者がニコニコ顔で登場となって、場内が割れんばかりに拍手の嵐となる。
「おおっ、もうそんな時間か。ではでは、と」冷蔵庫の上には、即席のカップ・ラーメンが二個積まれて、いかにも寂しそうに俊郎を待っている。おもむろに冷蔵庫をひらくと、野菜たちを出して綺麗に水洗い。ようやく手鍋でお湯が沸いたころには、ザク切り野菜を盛りつけた手造りラーメンの準備完了である。熱湯を注いで待つこと、三分間。その間、俊郎は、とても嬉しげに鼻歌を鳴らしている。

  テレビでは私営プールのコマーシャルが流れる。都内のウォーターランド「シュプール」だ。人だかりのプールサイドに集合した大勢のビキニ・ギャルたちがセクシーにポーズを決めると、それに合わせて、弾けるように男性の力強いアナウンスが入る。俊郎はニヤニヤとスケベ面でそれをただ眺めている。そして、せわしなくラーメンをすする音が、六畳一間の部屋に広がっていた。「ああ、食った。食った。満腹だ。さあ、食後はこれで『しめ』といきますか」と、またもプカプカとタバコを吸い出す。全身を満たす至福のひと時である。
 それにしても、俊郎は、先刻から窓の向こうがどうも気になって仕方ない。とうとう窓をあけては、外の風景に視線を走らせる。そこには何の変哲もなく広がる、いつも見慣れた住宅街がある。その向こうから、賑やかに聴こえる駅前商店街通りの歌声。しばらく、俊郎は窓辺にもたれて、うっとりとした気分で、その民謡に耳を傾けていた。何だか、子供になってお祭りに来ている感じだな。ほんとうに、たまらんな…

「おい、死にたくなければ、じっとして、そこを動くんじゃねえぞ」
 背後から声がした。俊郎の表情が一瞬にして凍りついた。
「お前がおとなしくしているんなら、決して悪いようにはしねえからな」
 おずおずと身をかがめながら、俊郎は決死の覚悟を決めてゆっくりと後を振り向いた。
 ところが…
 テレビに、悪党らしき白人の男性が背広に中折れ帽という格好で、眼前に立ちすくむブロンドの髪をした若い女性に黒い拳銃を向けている。そしてさらに脅しの台詞が続いていく。
 懐かしい往年の西洋映画が上映されていたのである。気が抜けて呆然とした俊郎はその場でへたり込んだまま、テレビをみつめていたが、はっと気づいて声を出した。「これは確か、あの憧れのボギーが出ていた映画だったよな。その筈、その筈。えーっと、何々とかいうタイトルだったぞ。これはリバイバル上映ってやつか。泣かせるねえ」
 そのあと俊郎は時間がたつのを忘れて、映画の世界に嵌まって、どんどんと魅了されていった。

 壁に架けた四角い時計は、すでに午後五時を回っていた。テレビがついたまま、俊郎はだらしない格好でぐっすりと眠っている。夕刻、アパートの外で、無邪気に、はしゃいでいた子どもたちも大声を上げて駆け去っていく。ハッとして、突き動かされるように俊郎は目覚めた。そのとたんに、座卓に置いた例の小包が、俊郎の眼に飛び込んでくる。さて、中身はなんだろうかと、ざわざわと好奇心が沸き起こる。俊郎は手を伸ばしていた。
 ちいさな銀色のフレームの中に、巨大な倉庫を背景にして旧友と肩を組んで並んだ、若いころの自分の写真があった。肩を組んだ二人は楽しげに微笑んでいる。俊郎はふふんと鼻を鳴らした。「これは懐かしいなあ。あいつ、まだ生きてたのか。ふん、現在、あいつ、どうしてるんだろう。しかし、とても嬉しいよ。泣かせるねえ」
 ウキウキとして写真を卓上に飾っておき、同封してあった短い手紙文を読み終えては、ホッと一息ついて、俊郎は調子よく夕食の準備を始め出した。

  テレビでは、新型自動車「マグナム」のコマーシャル。そこでは、険しい山道をうねるように、朝日を浴びて滑走する自動車が感動的に描かれている。自動車は、二枚目の男優を乗せて、タフで順調な滑り出しといったところか。ハンドルを切る男優の表情が、妙にしぶくて良い。
 座卓に夕食の器を並べてから、腰を据えて俊郎は夕食にかかった。ニッコリと笑みを浮かべて、まずは豆腐の冷奴から。箸を伸ばす。その瞬間、俊郎の頭の中がグラリと揺らいだかと思うと、そのまま、スーッと意識が消えた彼の身体は、どんと床の上に倒れ込んで、そのまま突っ伏していた。

  とある街角の某電気機器量販店の二階フロア。その壁の全面を覆いつくすように、何十台もの大型ディスプレイのテレビ画像が並んで、すべての画面に、同じ笑い顔の老人の姿を映していた。どうやら、ニュース報道らしい。女性アナウンサーの、きびきびとした声が同時に聴こえてくる。その場に集まった客たちがそれを見守っている。
―昨夜未明に、往年の時代劇映画の名脇役として、世に知られた野田俊郎さんが、自宅のアパートの一室で死亡しているのが、アパートを訪れた知人らによって発見されました。死因は脳溢血とみられます。享年、九十八歳でした。野田さんは「宮本武蔵」や「忠臣蔵」等の作品に出演され、当時、「泣かせるねえ」の名文句で、映画界の流行語として話題となり、個性的なバイ・プレーヤーとして活躍されましたが、晩年はヒット作に恵まれず、家族と交通事故での死別後は、長い間、独居生活を送られていました。では、次のニュースです」   (了)