ショート・ショート「夜更けの車内」

 夜更けの電車内は家路を急ぐ通勤客でひしめき合っていた。
 片隅の席で、俺は新聞のトップ記事を眺めて舌打ちをした。それは大手建設会社の大掛かりな汚職事件の顛末を報じていた。『まったく! 馬鹿げている―』と、ため息をつきゴミ屑を捨てるように新聞を網棚に放り上げた。それにしても腹の虫が収まらず、胸糞が悪い。『今日のあれは奴の完璧な嫌がらせ残業だ』 
  あの上司は最低の社会的サディスト人種だな。テカテカと脂ぎった面をニヤニヤさせて「週明けの開発会議の報告書は今日中に頼むよ」と、終業時間ギリギリに無理難題を押し付けやがって『腹黒オヤジめ!』
 結局、報告書は途中で中断して、デスクに残してきた。バカバカしくて、やってられないってことさ。俺はモヤモヤとした感情を処理できず苛立ちを覚えていた。いっそのこと、会社を辞めてフリーのライターにでも転向するか…。 ぼんやりと夢が頭を過ぎり、やり場のない鬱憤を抱えたまま目を車内に移した。

「……何だよ!! 俺をジロジロ見やがって…何か文句でもあんのかよを!!!」
 そんな荒々しい声が隣席から聞こえてきた。眼をやると、横の革ジャンの若造が、向かい扉近くに立った清楚な姿の老婆を大声で罵倒していた。その老婆はオロオロした口調で何やら口ごもっている。
「お前みたいなババアは、もう世の中のゴミなんだよ。邪魔、さっさと消えちまいな」
 その時、今まで静かだった車内がざわざわと騒めき出した。 巨体の俺は衝動的に席を立ち若造の前に立ちはだかっていた。
「な、何だよ。俺に何か用でもあんのかよをー」
いきなり、俺は革ジャンの胸ぐらを掴んで男を引き上げた。突然の行動に男は狼狽の表情を隠せなかった。俺は吐き捨てるように言った。
「よーく聞け!! お前のような屑が世の中を悪くしてんだ―お前のような若造が偉そうな口をたたくのは100年早いんだ―教えてやろうか、お年寄りには席を譲るんだ。分かったか!!!  若造、顔でも洗って出直してきなー」
  俺は先程までの鬱憤を晴らすかのように弱者に向かう腹立たちさ、正義の刃を抜いていた。

 興奮の最中、電車が駅に到着して扉が開いた。そのタイミングで、俺は若造をそのまま駅のホームへ突き飛ばした。男はホームで倒れこんだまま、恨みがましい顔つきで見上げていた。その瞬間、若造とあの忌々しい上司の顔が重なり垣間見えて消えた。そして扉が閉まった。
 ふと、振り返ると車内の乗客たちが、俺に賞賛の視線を向けているのが感じられた。背広のサラリーマンたちはホオと目を見張り、若い女性たちは瞳が潤んでいるようだった。 あの老婆も何やら礼を言っているようだが、気分が高揚した俺の耳には入らなかった…。

 一躍、車内の英雄となった俺は目的地の駅に下り歩き始めた時、背後から若い女性の声がした「少しお待ちになって、先程の勇敢な方…」
  俺が振り向くと赤いスーツ姿の女性が、会釈して駆け寄って来た。そして「さっきはありがとうございました。気の毒にお婆さんは、オロオロされていて、でも私には言ってさし上げる勇気がなくて…あなたのお陰でスカーっと晴々しました。お礼といっては何なんですが、生ビールでも奢らせていただけますか」
 俺は少し間を置いて「さっきのは、俺自身のこともあって…気にせんといて、俺、残念だけど約束があって先、急ぐので失礼」と言って足早に階段に向かった。

 駅を出てすぐ傍のカウンターで、俺は大ジョッキーの生ビールと枝豆を堪能していた。ほの暗い店内は客足もまばらだった。俺はちょっとしたヒーロー気分に浸っていた。そのせいで、生ビールも旨くて二杯目を急ピッチで呑み干していた。
 もうとっくの昔に、あのバカ上司を責める気は失せていた。俺の心の隅々まで、うっぷんは晴れて上機嫌に夜も更けていった…。(了)