掌編小説「可愛いボス」

 日本国内で一、ニを争う大財閥である綾之崎家の大邸宅は、都内の閑静な住宅街の一隅にそびえ立ち、立派な西洋館を構え、隅々まで手入れのゆき届いた広大な庭園の中央に噴水がキラキラと輝きながら花が開くようにリズミカルに立ち昇っていた。
豪華絢爛たるゴシック様式の佇まいはブルジョアジーの華麗なる日常の片鱗を窺うにじゅうぶんだった。

 昼下がりの事である。綾之崎家の敷地の裏手にある巨大なガレージの近くの歩道に一人しゃがみ込んで、進一少年は片手に握った白いチョークで悪戯書きをしながら、昨日、学校で習ったばかりの童謡を元気よく唄っていた。進一は綾之崎家の当主の孫にあたる子供であった。今日は日曜日である。もうすぐここに集まって一緒に遊ぶ仲間の同級生たちをワクワクした気持ちで待ちわびていた。

「…君が、進一君だよね。今、何をしているのかな?」
と、進一の背後から丁寧で優しい声がした。進一は下をうつむいたまま、お絵描きの話しをはじめた。
「これは、正義の味方ミラクルセブンと宇宙怪獣ギャゴンの一騎打ちの場面だよ。ミラクルセブンのスペクトル光線がギャゴンに命中したら、一発で作戦成功なんだ。ねえ、すごいだろ。…それとも、おじさん、ミラクルセブンは知らないの?」
「…いや、よく知ってるよ、本当さ、はははっ」
 そう言って、男は照れ笑いしてみせた。男は黒いサングラスをかけ、黒い背広で全身を包んでいる。不思議そうに進一は男を見上げた。
「もしかして、保険会社のセールスマンなの。…だったら、もう手遅れだよ。だって、僕の父さんずうっと前に加入してるから」
「違う、違う。…実はおじさんは進一君の友達、太郎君の知り合いなんだ。太郎君がね、ついさっき、交通事故でケガをして近くの病院に運ばれたんだよ。それで進一君にも来て欲しいって頼まれちゃってね。どうだい、一緒に来てくれるかな?」
 しばらく進一は黙っていたが、やがて笑顔で答えた。
「太郎君か…。うん、分かった。おじさん、車で来てるの?」
「ああそうだよ。それじゃあ、こっちへおいで…」
 男に手を引かれて、進一が歩道の角を曲がると、つい近くに一台の黒い乗用車が停まっている。その助手席に小柄な背広姿で、もう一人の男性が待っていた。サングラスの男が後部座席のドアを開くと、進一は元気よくシートに飛び乗った。車のドアがドンと閉まると、勢いよくエンジンがかかってアッという間に車が走り出した。

 ようやく混雑した住宅街を抜けて、広々とした国道に出た頃に、運転席の篠村がサングラスを外して、助手席の河田に声をかけた。
「おい、河田。誰かに車を見られなかったろうな」
 すると河田が首をすくめて、おどけたように答えた。
「大丈夫だよ。誰一人も姿をみせなかったからな。…まるで映画に出てくるような豪邸ばかりだぜ、俺には別世界というか気味が悪いよ」すると篠村が大声で笑った。
 やがて車は寂しくなり始めた国道から、碧い海の見える林道へと移った。突然、進一が二人の男に割り込むように顔を突き出して大声で言った。
「おじさんたち、本当はギャング団の一味なんだろ。だって、僕の友達に太郎君なんていないもの…。僕、わざと騙されてあげたんだからね。…僕に感謝してよね」
「えーっ!」思わず、篠村が急ブレーキを踏んだ。驚いた河田も、その拍子にフロントガラスに頭を打った。

 その頑丈そうな寄木造りのバンガローは、水平線へと続く碧い海を臨む岬の上に建てられていた。さっきまで、三人を乗せていた乗用車がその近くの道路わきに隠れるように停められている。
 そして三人は、バンガローの居間で、四角い木製のテーブルを囲むように話し込んでいた。身を乗り出した篠村が進一に言い含めるように言った。
「いいかい、進一君。君は俺たちに誘拐された大事な人質なんだ。…誘拐って意味、分かるよな」
「うん、知ってる。僕んち、お金持ちだから、前にも一度、僕は誘拐された事あるんだ。本当だよ」
 すると河田が眼を丸くして、自慢気に胸をはった進一に訊いた。
「本当かよ。じゃあ、そのときの誘拐犯はどうなったんだ」
「…身代金の受け渡しに失敗して、秘密警察に射殺されたよ」
 ショックで篠村と河田が唖然とするのを見て、進一が笑って言った。
「冗談、冗談。本当は僕がこっそり居場所を警察に電話して逮捕されたんだ。だってその犯人、僕に一回も食事を出してくれなかったんだよ。ひどいよね」
「そうだな。ひどいなあ」
「食事か…」
 タイミング良く、その時、進一の腹の虫がグウと鳴った。
 篠村と河田の二人は、お互いに顔を見合わせてゆっくりとうなずいた。篠村が言った。
「進一君。お昼ご飯は、まだだったよね。…おい、河田、今すぐ車で、近くのスーパーへ行って弁当3つ買ってくるんだ」
「弁当って言われても、俺、金を持ってないぜ」
 すると、進一が半ズボンのポケットから大きな革財布を出すと、中から新品の一万円札を二人に差し出して言った。
「良かったら、これ使ってよ。今日、お小遣いを貰ったところだから」
 びっくりして、河田が眼をパチパチさせて進一に尋ねた。
「お小遣いって、進一君。いつも一万円も、貰ってるのかよ」
「ううん、違うよ」
 そこで進一は財布の中の札束を広げて見せて言った。
「いつも月に八十万円くらいは貰ってるのかな…でも、よく覚えていないよ」

 妙な空気に支配されるように無言のまま二人は、進一に買ってもらった、特製のヒレステーキ弁当を、むにゃむにゃと口に運んでいる。最初に食べ終えた河田が、満腹で勢いづき、口の回りはソースでベトベトのまま、意気込んで大声を張り上げた。
「問題は身代金の金額だ。…あの裕福な綾之崎家のことだから、軽く見積もっても要求額は五千万円は下らんと思うがどうだろう」
 篠村がペットボトルの緑茶をグイと飲んでそれに応じた。
「ああ、俺も同感だ。さっそく、その線で計画を練ってみるか」
 すると進一が、弁当を膝に置いて、ちちちっと舌打ちして口をはさんで言った。
「甘い、甘い。…そんな金額じゃあ、僕を誘拐しても、うちの家族になめてかかられるのが落ちだよ。おじさんたち、お金が欲しいんだろう。僕も手伝ってあげるよ。だから、ここはドンと十億円といこうよ」
「じ、十億円だって……」
 二人は息を飲んで、それ以上は言葉もなく黙り込んだ。そこで、追い討ちをかけるように、進一がペラペラと早口で言葉を続けた。
「おじさんたちは何も心配しなくてもいいんだよ。僕の考えでいけば、まず、成功のカギは親が本当に誘拐を信じるかどうかなんだよ。だから、僕の命が本当に危ないと思うことなんだ。危ないことが本当にわかれば、十億円の身代金だって絶対に出すはずだよ。…苦しめられて助けを求める人質の役なら、僕がうまく演技してあげるから、安心して僕の言うとおりにうちへ電話してみてよ」
 篠村がやや震えた指先で携帯電話のナンバーを押す。電話の呼び出し音が鳴り始めると、急に篠村が二人に背を向けて身をかがめ、小声で誘拐の交渉をし始めている。どうやら、十億円、十億円としきりに繰り返し要求している。やがて篠村が電話口でうなずくと、進一に携帯を手渡してほっと溜め息をついた。進一が椅子にふんぞり返って電話口に言った。
「…い、痛いよ、やめてよ。――く、苦しい、お願いだからもう手を離して…。こ、殺さないで。――ねえ、パパ!僕を助けてー!! ギ、ギャアー!!パパ、殺されるう…」
 そして進一は素早く電話を篠村に返す。あわててそれを受け取り、進一の演技に乗るように今度は、凄味をきかせて交渉を続けた。
 やがて電話が切れ、二人が見守る中で篠村が振り向いて報告した。
「我々の要求を呑むらしい。警察にも連絡はしないと言っている。父親は、とにかく、子供の命だけは保障して欲しいとのことだ」
 得意満面の進一はチューインガムを口に入れると、椅子をゆらゆらと揺すって大きな風船をふくらませている。完全に進一ペースにのせた誘拐犯を手玉にとっての大胆な計画と実行力は見事だった。
「あとに残された問題は、だな…」
 と、篠村はジロリと進一をにらみつけて話を続けた。
「身代金は十億円だ。普通の鞄に入れても一つや二つでは足りない。それだけの膨大な量の金をどうやって受け取るか、だな…」
 篠村と河田がしばらく腕を組んで考え込んだ。しかし、いっこうに良いアイデアが浮かばずに、時間ばかりが悪戯に過ぎていく。黙って二人の会話を呆れた様子で聞いていた、進一は、すっくと立ち上がるとテーブルに両手を突いて、篠村と河田の二人に宣告するようにしっかりと口をひらいた。
「…電車の窓を使えばいいんだよ。走っている電車のトイレのひらく窓から、決めた時間に電車から身代金の鞄を全部落としてもらえば、決めた場所で待っていて集めて車で運べばいいんだよ。急いで集めれば逃げた跡も消せるしね。――こんな方法、僕が外国の推理小説で読んだことあるんだ」
「ふうむ、なるほど…」
「もしかしたら、うまくいくかもな」
 妙に二人は納得してしきりにうなずいている。
 思わず進一が吹き出して笑った。
「おじさんたちは誘拐犯の大人だろう。しっかりしなよ」
 それを聞いて二人はポカンとしている。進一が言った。
「さっそく、うちに電話してみようよ。試しに僕が話してみるから」
 不安げに篠村が携帯電話を進一に手渡す。すると、進一は手際よくポケットからハンカチを出して受話器を包みダイヤルを始めた…。
「…ああ、綾之崎さんかね。お宅の子供を預かっている者だがね、今から身代金の受け渡し方法を伝える。子供の命が大事なら、しっかりと間違えないようにメモを取ることだ。まずは…」

「あと十分間ほどで目的の列車がやって来る。用意はいいか」
「ああ、準備は万全だぜ」
「俺も大丈夫だ」
 進一ボスの慎重なアドバイスに従って、列車の鉄橋の下にある河沿いの砂利道に車を停めて、三人は約束の時刻が訪れるのをひたすら待っていた。もうとっくに日は暮れて夜の闇の中である。その堤防には人影はない。身代金の受け取りを夜間に決行したのは進一の発案であった。これなら人目を気にせずに仕事を済ませて逃亡できるという。
 三人が潜んでいる乗用車の前を、大きな犬が一匹、クンクンと鳴きながらうろついているのが目についた。まさか、犬が警察に連絡するはずもあるまい。計画は順調である。
 すると暗闇の中で黒々とした鉄橋の向こうから列車がやって来る気配がした。重低音の響きである。進一が声を上げた。
「いよいよ計画実行だよ。みんな、長靴を履いてる。さあー早く仕事にかかろう」
 進一の命令で、三人は急いで車を飛び出すと、堤防を越えて、浅い河の中へジャブジャブと足を踏み入れた。やがて彼らの頭の上を、猛スピードで夜行列車が駆け抜ける。と、同時に、列車からいくつもの小さな黒い物体がコロコロと落下して、川面に落ち、何度も激しい水しぶきを上げた。
「やったぜ!!うまくいくもんだ…」
「さあさあ、みんなで鞄を集めるか。急ごう」
 鞄を拾い上げた篠村と河田の二人が、両手と両脇にそれをいっぱい抱え込んで、有頂天になって急ぎ足で車へと向かっていく。
 そのあとを追いかける進一が、車のトランクに身代金の鞄の山を詰め込む二人の様子を見ながら首をかしげた。進一が低い声で言った。
「おじさんたち。ちょっと待って」
 鞄の山に首を突っ込んだ進一は、やがてその一つを引っぱり出して、その鞄の底をビリビリと剥がしていく。するとそこから、小型の機械装置が足もとに転がり落ちた。呆然としている二人に、進一はニッコリ微笑んで言った。
「…この機械、間違いなく警察が仕掛けた電波発信装置だと思うよ。このままだったら、僕たちの逮捕も時間の問題さ。危ない、危ない。」
 みれば、進一のそばに、さっきの犬が寄って来てクンクンと鳴き出した。その犬は赤い首輪をつけている。
 進一はニヤリとして、その首輪に、例の電波発信装置をくくりつけると、二人を見上げて言った。
「こうしておけば、警察は犬を逮捕する事になるさ。さあ、急いで帰ろうよ」
 果てしなく続く闇の中を、無事に身代金を手にした三人は歓喜の叫びを胸に車は静かに過ぎ去って行った。

 その夜はバンガローで、盛大な祝賀パーティーが開かれた。大音量のジャズ音楽が軽快に鳴り響く中で、何度もクラッカーが鳴って、シャンパンの栓が次々と抜かれ、食卓には七面鳥の丸焼きや特上の握り寿司が並び、感極まった乾杯の声が幾度となく繰り返された。そして夜は更けた。
 すっかり満足しきった篠村と河田は、しばらくの間、とことん酒が回った様子で、だらしなくソファでふんぞり返って、さっきまでの酒盛りの余韻を味わっていた。空のグラスを手にして酩酊した篠村が、カラフルなピエロの帽子をかぶったままの河田に声をかけた。
「おい、河田。さっきから、進一の姿が見えないぞ、どこへいった」
「さあ、どこかで遊んでいるんじゃないか…」
 変な予感、胸騒ぎに酔いが醒めてしまった二人は、あわてて進一を探しはじめた。
「おーい、河田、進一が見つかったぞ」
 バンガローの玄関前にある揺り椅子の中で、進一は小さな身体を丸くして、ぐっすりと眠り込んでいた。スヤスヤと小さな寝息を立てている。夜空にはまん丸なお月さんが見守るように照っていた。
「…子供って、本当に可愛いものだな」
「ああ、夜は冷えるぞ。おい、急いで毛布をもって来てやれ」
 おとぼけ三人組の波乱万丈な一日は、かくして過ぎ去っていった…。

 翌朝になって、三人は再び食卓を囲んで、作戦会議をひらいていた。居間の片隅には、身代金がぎっしり詰まった鞄たちが、大きく山積みされている。篠村が、旨そうにプカプカと煙草の煙を上げながら皆に言った。
「…問題はこの身代金のこれからの使みちだが。誰か意見はあるか?」
 突如、別世界が出現したようなものだった。大金の山を目の前に、面食らったように押し黙っていた。すると進一がボスの貫禄たっぷりに斜めに身を構えて発言した。
「カジノはどうかな…」
「なに!?」
「アメリカのラスベガスだよ。あちこちのカジノへ行って、持っているお金を2倍に増やしてあげる。どうかな?」
「2倍だって。そんな自信があるのかよ」
「僕、前に『科学的カジノ必勝法』って本を読んだことあるんだ。世界の賭博はすべて基本的に数学の応用だよ。確率論をよく勉強すれば、まず百戦危うからず、って所かな」
「それで? 持ち金を2倍にしてから、いったいどうするつもりだ」
「世界最大の豪華客船に乗って世界一周旅行って楽しいかな…。それで、あとは残りの人生を思いっきりエンジョイするのもけっこう悪くないよ」
「呆れたなあ、まったく――」
 そこで、篠村が腕を組んで考えていたが、ふと思い出したように河田に言った。
「おい、河田。…俺たちの最初の目的って、何だったっけ」
「確か、金貸しに借金した二百万円の返済だったはずだぜ。そのために誘拐を計画したんだ」
「そうだよなあ………」
 二人はそろって十億円もの身代金の山に視線を投げてつぶやいた。
「おい、変なこと言うけど、この世間を渡るための大事な人生の教訓って何だったっけ」
「たとえば、分をわきまえる、とか…」
「足るを知る、とかだよな…」
 そこで気心の知れた二人は同時に同じことを思いついた。
「なあ、この金と子供を返しに行かないか。二百万円だけ頂戴して」
「そうだな」
 それを聞いて突然、逃げようとする進一をロープで縛り上げて、車の後部座席に放り込むと、トランクに十億円を積んだ車は一路、都内の綾之崎家へと向かった…。

 二人の訪問で、玄関に現れたのは和服姿の父親だった。父親は二人の背後に隠れて下を向いている進一を見つけて溜め息をついて言った。
「やはり帰って来たか…。このいたずら坊主が」
 篠村が頭を下げて父親に謝罪をした。
「この度は、大それたことを仕出かし申し訳ない。子供と金は全て返しますので、どうか警察にはどうか内密に。それでお願いがありまして二百万だけ貸しておいて欲しいのです。近いうちに返済しますので頼みます」
 すると父親は複雑な表情をみせて二人に答えた。
「こいつは悪ガキでしてね。本当、家族も手を焼いてましてね。どうかね。金なら返してくれなくてよいので、しばらくこの子を預かってくれないか。君たちにとっても悪い話じゃないだろう…」
 いつの間にか、真一の姿が消えていた。これ幸いに二人は、今のうちだとばかりに、十億円の鞄から二百万円を抜き取ると、父親に一礼すると、逃げるように車で綾之崎家をあとにした…。

 無事に、岬のバンガローへ到着した二人は、これから祝杯を上げようと車をあとにした。仲良く肩を組んで歩き出した二人の背後でカチャリと車のトランクのひらく音がきこえた。振り向いた二人の眼の前で、トランクの中から飛び出してきた進一が、笑顔いっぱいに駆けて来て大きな声で叫んだ。
「ねえ、おじさんたち。僕を誘拐するより、もっと面白い計画があるんだ。…また、僕と一緒に遊ぼうよ。いいだろ」

      (了)