掌編小説「理由のある医院」
それは何度もくり返しみる実に不思議で恐い夢だった…。
まるで七色の絵の具をグチャリと混ぜ合わせたように、粘着質で奇妙な色彩を放ち、ひとつの生命体として鼓動し始め、しだいに広がり巨大化し、それはあたかも蜘蛛の巣のように、駆けて行く私の身体を包み込むように追いかけて来た。しかし必死になって逃げども逃げども、やはり漆黒の闇の中であった。
とうとう精も根も尽き果てて立ち止まった私にそれが覆いかぶさり突如、ハットする断崖絶壁に立っている。そして執拗に追い詰め襲いかかる恐怖に足を踏み外した私は奈落の底へ闇の中へと悲鳴を上げながら消えていくのだった…。
思わず私は声を上げた。気づけば、眠っていた布団のシーツは生臭い汗でびっしょりと濡れているのが分かる。まだ肩で息をしていた。何度となく激しい咳払いに、不安な息苦しさに襲われていた。
『いつもの夢、何かの暗示か?そんなバカな、きっと疲れが原因だろう。気にすることはないさ』
寝台のそばには描きかけの油絵が立て架けられていた。その絵は、真っ赤な花束を抱えた少女が微笑みながら椅子に腰かけてこちらを視ている。
独身の私は画家で生計を立てている。幸いに私の二流作品もぼちぼちと巷では売れているので、ある程度の貯えもあり生活には困るようなことはなかった。
『そういえば、昨日は深夜まで仕事でキャンバスに没頭していたか。そのあと、一人でウイスキーのボトル一本をあっという間に空けたような記憶がおぼろげにあった。酒にはめっぽう強い私があれだけで二日酔いをするはずもない』
苦々しい気分で寝台から静かに身を起こした私は、また何度か咳払いをして俯いてしまった。さすがに広いアトリエの中は、暖房も効き悪く室内は冷え込んでいた。部屋のガラス窓の外は、どんよりとした暗い曇り空で、木枯らしが吹き枯れ葉がグルグルと宙を舞っている。
『この寒気に咳は、どうやら風邪でも引いたらしいな、連日のハードワークが祟ったか』と私は早急に判断をつけると、すぐに身支度を始めた。そしてアトリエの作業机で、トーストとホットコーヒーの軽い朝食を取ると、大きなコートの襟を立てて、急ぎ足で自宅を出た。
私がこの町に移って来て、まだ二ヶ月しか経っていないが生来、土地勘が働く質であると思っていたが、都市郊外にあるこの大規模な整然とした住宅街では、何がどこにあるのか私にもさっぱり分からないし、人工的で面白味のない空間に興味も沸かないせいもある。
それに誰かに尋ねようとしても無駄である。というのも、閑静なこの辺りでは、自動車はおろか、歩いている人も、まるで神隠しにでもあったように誰一人いない。この調子では内科の医院を探し当てるのもひと苦労になるなと、周囲を眺めていた。
しばらく歩いていると、ふとあるものに気がついた。それは小さな墓地だった。低い石造りの塀に囲まれて、小高い斜面に沿いながら、大小さまざまな墓石が所狭しとばかりに並び、周りの住宅地に一種、違和感を伴う古風な存在をまざまざと見せつけている。
そして、その小高な斜面を越えて、威厳をもってそびえ立つように『田所医院』の大きな白い看板が眼に飛び込んで来た。フウとひと息つくと、私はポケットの財布と保険証を手探りで確かめてから、田所医院へと向かう回り道を急ぎ足で歩き始めた………。
田所医院の待合室は、照明が少し落とされて、狭くて長い板張り廊下は細長い造りを連想させ独特の雰囲気を醸し出していた。
柱に掛けられた年代物の振り子時計がその医院の古い歴史を刻むように振り子が静かに揺れていた。
壁際にはひとつだけベージュ色の長椅子が置かれ、茶色のガウンを着たお爺さんが一人、両手に握った杖で身体を支えるように身をかがめて坐っている。
黒いスリッパを履いてから私は受付の窓口に少々気重に声をかけながら窓口の低い開き口に保険証を差し出した。
すると、ゆっくりと白く細い手が伸びてきて保険証を取り、囁くような小声で「しばらくお待ちください」と告げた。
その時、急に待合室のムッとした熱気のせいで私は口にマスクをしたまま、思わずむせ返ってしまった。それを気遣うように長椅子の老人が私に優しく声をかけて来た。
「さあさあ、お若い方。………よければここへお座りなさいな。無理をなさると御病気に差し障りますぞ。ここなら暖かいでな」
そう言い終わると、老人はゼイゼイと呼吸を荒げた。
『この老人も私と同じ風邪なのだろうか。最近、忙しさにかまけて新聞もろくに読んでないが、いわゆる流行性感冒の一種という代物かもしれない。ならば早く来院して良かった』
簡単に礼を述べて、私は老人の隣へ素直に腰かけた。
すると老人はさも満足げにうなずくと再び口をひらいた。
「あなたのような若い方を拝見すると、わしがこの田所医院に初めて診察に来た時の事をまるで昨日のようにまざまざと思い出しますな。そう、それはもう五十年も昔の話ですがの………」
私はそこで相槌を打った。
「半世紀もの前ですか。それではさぞ、懐かしい思い出でしょうね」
「風邪引きでしてな。一晩中、悪夢にうなされて、それから咳が出て、出て。…そん時はわしも堪えられなくて自宅から駆け足でやって来たものですわ。今、思えば、あの時は本当にまだ病気でも元気があったようで」
老人の話を聞いて、私はしばらくの間、狼狽の色を隠しきれずにいた。激しい驚愕と緊張感で私の顔はやや硬直していた。
『――真夜中の悪夢と激しい咳払い、それは今朝の私の場合とまったく同じではないか。こんな恐るべき偶然の一致がなぜ存在するのか…』
そこで私は老人にその一部始終を、こわごわと話してみせた。
すると老人は、私の話を不思議がるどころか、まったく平然とした様子で、うんうんと自分で納得したように頷いてみせた。
それでやや不満を抱いた私がやや荒っぽい口調で言葉を続けようとしたが、老人はそれを手でさえぎって止めると、また自分のことをしゃべりだした。
「実は今、わしはこの医院に入院中の身でしてな。あと一ヶ月はここにゆっくり腰を据えて居らねばなりませんのですわ。まったくもって不自由な病の身でしてな…」
その時、待合室の隅の方から、何やら、キコキコといった、何かを引くような不規則な物音が私の耳に響いてきた。そちらに眼を向けた私に、診察室の扉が見えた。どうやら、この妙な物音は、あの診察室の中から聞こえてくるらしい。それを不審に思った私はそのことを隣の老人に問いただした。しかし、杖にしがみついた老人は黙り込んだきり、悲しげな眼差しで何も答えようとはしなかった。
『この田所医院には何か隠された秘密があるのか…』
そこで私は、とりあえず話題を変えて老人に尋ねてみた。
「こんな事、訊くと失礼かもしれませんが、この医院はいつも、
あまり患者が来ないのですか」
すると老人は会得顔でこう答えた。
「ええ、そうですとも。昔から、噂、千里を走ると言いますからな。――その理由はただ、この医院が『イソップの洞窟』に過ぎないという訳からでしてな」
「ふむ、『イソップの洞窟』ですか…」
「はぁ、『イソップの洞窟』ですからな…」
それでしばらく二人は、言うべき言葉を失って沈黙した。窓口のわきの柱、振り子時計がカチカチと音を鳴らせて時を刻んでいく。待合室を、ひたすらに静寂が支配していく。
何の前触れもなく、突然、玄関の扉がひらいたかと思うと、一人の若い女性が二人の前に現れた。彼女は可愛いフリルのついた白いワンピースで、黒い鰐皮のハンドバッグを下げている。一瞬、彼女の視線が私と会ったが、それきりで、彼女はそっけない様子で玄関の横の靴箱に、赤いハイヒールを載せると、スリッパに履き替え、窓口にカードを差し出して、そのままどんどんと暗い待合室を通過して、診察室の扉の向こうに消えていった。その時に、私は初めて靴箱の中に載せた靴の数の多さに驚いた。軽く勘定しても、十組以上は残されている。これも私にとっては大きな謎である。それで私はまたその理由を老人に訊いてみた。すると老人が答えた。
「すべては『イソップの洞窟』じゃよ。――手遅れだよ。たぶん、今の娘も…」
また思い出したように、診察室の中から、キコキコと何やら妙な物音が鳴り始めた。私は少しの間、その物音に真剣な面持ちで耳を澄ませてみた。その途端に、ぼんやりとしていた私の頭に、或る物語がひらめいた。…それはイソップの寓話の一つであった。病気のライオンは獲物にありつけない。そこで洞窟に潜み、獲物を誘き寄せる。その時、狐が近づいて様子を窺っている。「おまえも入って来い」と言うライオンの声に狐はその申し出を断る。
「なぜだ」と言うライオンに狐は、
「この洞窟に入って行く足跡はたくさんあるが、出て行ったものが一つもない」と答えた。というものである。
そして、洞窟へと入る動物たちの足跡と、靴箱の大量の靴が私の頭の中で突然に重なり合った。その瞬間、私は全身を震わせて愕然とした。
『ついに私はこの医院の恐るべき秘密を悟ってしまったのだ。それで、はじめて医院の裏地に、あの古風な墓地があったのもようやく納得出来る』
私はいつの間にか、老人をふり返って見詰めていた。その私の心を見抜いたように、老人は何一つ言わないで、杖に寄りかかったまま悲しく微笑んでいるではないか。われ知らず、私は小さく悲鳴を上げて、スリッパを履いたまま、玄関の扉へと突進した。幾度となく、扉を押したがびくともしない。
『しまった。閉じ込められたか…』
そして私の背後で診察室の扉がゆっくりと開く気配がする。もう逃げる時間がない。ついに私は、狂いそうになって絶叫した………。
診察室から出て来たのは、笑顔がよく似合う小太りで中年の看護婦であった。彼女は長椅子の老人を見つけると、ジロリと睨みつけて大声で言った。
「お祖父さん、またこんな所に居たんですね。風邪を引いているのだから静かに寝てなさい。――又も、患者さんが一人だとありもしない怪談話で脅かして、悪ふざけもいい加減にしなさいよ!
病気の患者さんに肝試しだなんて、患者さんが来なくなったらどうしますか。それでなくても、うちは大家族なんですよ。…あの靴箱にいっぱいの靴でも分かるでしょう。さあ、さあ、お祖父さん、お仕事の邪魔をしないでお部屋で寝ていなさい。―――ああ、患者さん、申し訳ありませんね。もう少しで診察の準備が出来ますのでお待ちくださいな」
それでも老人は悪怯れるようすもなく、
「わしは、この方の想像力を引き出してやったのじゃよ」
看護婦は呆れ返ったようすで、怒って言った。
「ま、ったく、いいかげんに減らず口は止めてください!」
ひらかれた診察室の扉の向こうから、若い女性の声がした。
「父さん、あのクレジットカードを貸してくれて助かったわ。さっき、待合室の窓口に置いたので母さんに貰ってね」
私は診察室の中を恐る恐る覗き込んだ。すると、灰色の絨毯を敷き詰めた部屋の床の上に座り込んだ幼い子供が、手にしたミニカーのオモチャをキコキコと音を鳴らして滑らせて遊んでいる。そのそばのデスクで、カルテを整理しながら子供の様子を見守っている白衣を着た中年の優しそうな男性の医師がいた。彼がたぶん老人の息子だろう。
私の耳もとでさっきの看護婦が、
「お祖父さんも、昔は立派な内科医だったんですがねえ…引退してからは怪奇小説に興味をもち始め、それが度を越す羽目になって困った、いじわる爺さんに…許してくださいね」と、呟いた。
そして待合室からトコトコと部屋に戻る老人の丸い背中を眺めながら、私は我慢ならずに吐き出す様に大声で看護婦に尋ねた。
「…しかし、玄関の扉は何度、押しても開かなかったのですよ。なぜ、私をここへ閉じ込めたりするのですか?…」
すると女房の看護婦は、少々呆れた様子で諭すように私に答えた。
「そりゃあそうですとも。だって、あの扉、引かないと開きませんからね」
(了)