掌編小説「波音の調べ」
おだやかで優しげなさざ波が、まるで囁くように彼女の細い裸足に寄せては返して、誘いかけるように揺らめいていた。そのひんやりとして肌寒い砂浜には人影もなく、物憂げな眼差しで彼女はいにしえの遠い遥かな海を見つめていた。サラサラとした白い砂の上にしゃがんで、やわらかなベージュ色のワンピースの裾を吹きつける潮風に遊ばせている。
彼女はもう若くはなかった。束ねた長い黒髪には少し白髪が混じり憂いを秘めた横顔はどこか哀愁を帯びて、彫りの深い顔立ちが凛とした美しさを漂わせていた。彼女は懐かしむように白い砂を手のひらに乗せて、遠く過ぎ去った時間がまるで砂時計のように、さらさらと手から流れていった。静寂に包まれた彼女の遠くで乾いた砂の音が響いていた。ゆったりと、しだいに近づき彼女の傍らで音は静止した。
「波は静かで気持のいい海辺ですね」
長身でラフなスタイルの青年が傍らで静かに心地よく言った。日焼けした聡明な顔つきに白い歯が若さと希望の象徴のようだった。彼女は、今に戻された不快感に戸惑い、心の焦点は揺れ動いていた。「ええ、まあ…」
―海に融けるように二人の時間はいつしか渾然一体となって、静かに寄せるさざ波が二人に囁いていた…。彼は彼女の隣に促されるようにしゃがみ込み、遥か遠い海を眺めた。しばらく静かな波音に二人は時をまかせていた。しかし静寂を破るように彼女は唐突にしゃべり始めた。
「不思議でしょう。ひとりで海辺って。はじめてお会いする方に、お話しするのもおかしなものですが主人は海外出張しておりますの。一昨日までニューヨークに出張中の主人とクラッシックコンサートと夕食をともにして帰国しましてね。でも、私は昔から気まぐれな性分で、帰ってきたら何だか急にここまでドライブに来たくなりましたの。海は心が洗われますわ。でもこんなこと、お若い方に言っても仕方ありませんわね」
青年が遥かな水平線の遠くに眼を投げたまま尋ねた。
「海がお好きなのですね」
「ええ、とっても」
なおも遠い海を見つめたまま、青年が言葉を噛みしめて言った。
「では、今度は僕のお話をしましょう。僕はこの近くのバンガローで開業医をしています。つい最近、胸の痛みを訴える老婦人の緊急患者を診察したのですが、原因は心筋梗塞でした。応急処置で何とか命は取り留めましたが、何しろ小さな診療所ですから、設備もスタッフも万全とはいかない現状を抱えています。
人の命と関わる仕事をしていると、無性に心配の種が頭をもたげて厳しいストレス状態に晒されるのが常です。僕はまだ若くて経験も乏しい医者です。毎日が命がけの責任を背負って、潰されるのではと思うこともしばしばで、自信も揺らぐことがあります。こんな調子だから僕は、まだまだ一人前の医者とはいえないのです。まったく、お恥かしい次第です」
少し苦渋の表情を浮かべ青年は顔を伏せた。彼女は静かな波の音に誘われるようにそっと声を重ねて言った。
「患者さんの一命に尽力されたのですね。人の命の手助けをされるすばらしいお仕事だと思います。貴方の誠実な姿勢が、いつか立派なお医者様に成長されると思いますよ」
爽やかな潮風、静かなさざ波が彼らを諭すようにように包んでいた。青年は大海原のパワーに共鳴するかのように力強く言った。
「いつでも人々は互いに支えあって生きているものです。試練もありますが、僕はこれからも医者の仕事に誇りを持って、一人ひとりの治療を大切に頑張ろうと思っています」
潮風が香り海の息吹が脈々と波となって寄せていた。
青年はズボンのポケットから一枚の写真と木製の小さな小箱を出して来た。それを覗き込む彼女に青年が笑顔で言った。
「これが、その老婦人の写真です」
明るい部屋のベッドに腰かけ、パジャマ着でニッコリ笑っている。婦人の姿が、やや大きめに写されている。金縁眼鏡がよく似合う柔和そうな好印象を与える婦人だった。しばらく彼女は写真を眺めながら優しい表情を浮かべて言った。「ほんとうに、素敵な方ですね」。
一瞬、強い風が吹いて、辺りの砂が白い煙のように舞い上がった。青年は手にした小箱にこびりついた砂粒を払い落としながら、
「大自然は、いつも優しいとは限りませんよね。時には牙を剥いて人間を脅威のどん底に追いやることもあります。それも人間に課せられた試練なのかもしれませんがね」
一変して彼女は憂い顔になり小声で呟いた。
「試練なのですか」
揺れ動く心の中で、何かが張り裂けそうな傷みに襲われていた。
「これ、僕の宝物なのです。いつでも持ち歩いて、これで自分を励ましている事が多くて…。どうぞ、開けてみてください」
彼女は促がされるままに不思議な小箱を手にした。小箱の蓋がひらくと、素朴なオルゴールの曲が流れた。
「―漕げ、漕げ、自分の小船を、独力で」
勇ましい西洋の民謡の言葉が、彼女の頭の中を駆け巡り、堪えていた何かが雪崩のように崩壊していった。やがて彼女は手に小箱を握りしめたまま、涙が止めどなく溢れ出しその場にうずくまってしまった。
驚いた青年は、彼女の肩に手を当てて声をかけた。
「どうされたのですか。大丈夫ですか」と。
すると、堰を切ったように、すすり泣きの声を上げながら彼女はしどろもどろに話し出した。
「実は、私、この海で自殺しょうと思って。主人と娘はドライブ中に山のカーブで車が崖から墜落して亡くなりました。私も同乗していたのですが何故か私だけは助かり。そして主人と娘は、何故、死ななければ…私はひとり残され家族を失いました。人生は切なく不条理です。怒り、悲しみ、喪失感、虚しさ、絶望と、あらゆる苦しみが私を襲いました。
いつまでも救われない心の叫びが続いて 苦しいのです。もう一度、家族のもとへ帰れたら、どれだけ幸せだろうかと。でも、あなたは海の使者のように私の傍にきて、もう一度生きることから逃げないで試練を乗り越える勇気を吹き込んでくれました。それにオルゴールの声が主人と娘のようで…私に頑張って生きて! と言っているようでした。海って不思議ですね。本当に心が洗われるようで。―ああ、そうだ。これをあなたに」
彼女が震える手でハンドバッグから取り出したのは、自殺するために用意した睡眠薬の小瓶だった。それを差し出すと青年は微笑んで受け取り、立ち上がるとその小瓶を遠くの海へと放り投げた。静かな大きな海は、おおらかな包容力でそれを呑み込んだ。そして満面に笑顔を浮かべた青年が言った。
「この睡眠薬で、海もしばらくの間、穏やかに眠りますよ。―海はいつだって、僕たちのほんとうの故郷なのですから」
立ちあがる彼女の目に溢れた涙が輝いていた。
「私、海燕が見てみたいわ。ここまで飛んでくるかしら」
「ええ、飛んできますよ。きっとね」
子守唄のように静かな波音が、いつまでも二人の耳に響いていた。 (了)