掌編小説「見知らぬ恋人」

  ゴトンと音が鳴って、取り出し口にペットボトルのアップルジュースが落ちてきた。パジャマ姿の香織はコホンと小さく咳払いしてボトルを取り出した。『これで喉の渇きがおさまればいいんだけど』と少し不安げに香織はボトルを持ってロビー中央にある革の長椅子に身を置いた。彼女の片手には読みかけの文庫本がある。その題名は『もう一度巡りあえたら』、香織は大のロマンス小説のファンである。そして、そのページを開こうとした時、コッコッと靴音がしてとなりに誰かの気配を感じた。横を振り向くと妹の富子だった。
 富子は、にじりよって香織に甘えるように言った。
「ねえ、香織姉さん、あたしにもジャンボサイズのコーラおごってよ」
 すると香織は文庫本に視線を落としたままで、
「あんた、ついさっき、メロンパンを食べた所じゃなかったの」
「あれはベツ腹、ベツ腹。でも、姉さん、よくこんな暗い病院で長い間、入院出来るのね。あたしなら我慢出来ずに三日で大脱走しちゃうかも。姉さんエライ、エライ」
「年上をからかうのも、いいかげんにしなさい。それよりも、父さんと母さんはさっきから、どこ行ったのよ」
 富子は軽く首をひねって、
「担当の矢崎先生が、パパとママに話があると言って、近くの控え室に誘拐していったところ。あたしにもよく分かんない」
「ふうん…」
 どこか、腑に落ちない様子で、香織は口をすぼめると、ペットボトルの栓をひらいた。

「病巣の進行状況を考えますと、今の治療法で最善を尽くして、お気の毒ですが、半年の余命が最大の期待というところです。娘さんへのお気持ちは、お察しいたしますが、どうか、ご両親のご理解とお覚悟をお願いいたします」
「そうですか」
 それきり、ふたりの両親は重苦しい雰囲気で口を閉ざした。
 かけがえのない娘の命に、あと半年という、耐えがたいレッテルを貼られてしまったのである。永い沈黙の中で、若い母親の片手に握った白いハンカチが小刻みに震えていた。父親は悔しげに歯を喰いしばっている。矢崎医師はしばらく静かに二人の様子を見守っていたが、やがて沈痛な面持ちで声をかけた。
「どうか、最後の一日まで、大切な香織さんご本人を、お二人の力で精一杯、支えてあげて下さい。ご家族の、香織さんへの愛情が、何よりも彼女の孤独感、寂しさ、不安が癒されると思います…」

 まるで色とりどりの宝石を散りばめたような果てしない星空だった。懐かしげに見上げていた香織は、立ち尽くしたまま、やがてうつむくとふっと溜め息をついた。病院の屋上は、香織には寒々しくて、少し刺激が強かった。
「そろそろベッドにもどらなければ」
 ゆっくりとした足取りで非常階段をおりて、病室に辿りついた。香織は、乱れたままのベッドに寝転がってボンヤリと物思いにふけった。あれやこれやと考え込んでいるうちに疲れた香織は寝返りを打ち、何とはなく、ベッドわきのサイドテーブルに眼を移した。
 そこに一通の青い封筒がそっと置かれていた。
「あれっ、こんな手紙がおいてあったかしら」
 表書きには、慣れた筆遣いで『香織様へ』と書かれている。怪訝な面持ちで香織は便箋をひらいて読んだ。それは香織に宛てた、誠意と情熱にあふれたラブレターであった。―しばらく、手紙を手にしたまま、香織は恥ずかしげに顔を紅潮させて我を忘れていた。ドンと扉がひらいて、勢いよく富子が飛び込んできた。富子はポップコーンの袋を抱えたまま、呆然としている香織を見てビックリして眼を丸くした。
「ね、姉さん、何かとんでもない大事件が起こったの?」
「あんた、大げさすぎるわよ。なんでもないわ。少しショックを受けたところなの」
「ふうーん」
 そう言いながら、富子は香織の手紙をジーッと睨んで、
「姉さん、その手紙、もしかして彼氏からのラブレターかなんかじゃないの。怪しいなあ」
「何でもないったら。ちょっとした開催の案内状なの。それより、あんた、まだ帰らなくてもいいの。もう晩の九時を過ぎてるのよ」
「へへっ、姉さんの生存確認に来ただけ。下のロビーでこれ食べたら帰ろうと思って。じゃあね」
バタバタと富子が去っていった。
 また、香織は独りになった。しかし、思いがけない期待と興奮で、いまだ香織の胸は高鳴って、しばらくの間、その場を動く事も出来ず、ベッドに座り込んでいた。
「この手紙を送ってきたのは、いったい誰なんだろう。でもこんな不思議な気持ち、初めてだわ。そういえば、私、今までラブレターなんてもらったこと、一度もなかったものね」
 香織は何度か深呼吸して、気持ちを落ちつけ、ベッドにもぐり込んだ。しばらく寝つけずにいたが、しだいにやさしい睡魔が襲ってきて、いつしか香織は深い眠りに沈んでいった。

 翌朝、窓から明るい陽の射し込んだ病室の長い廊下で、きのうの手紙でまだ気分の高まったままの香織が、外の新鮮な空気を吸おうと歩いているところに、担当の矢崎医師とばったり出会った。
 微笑んで矢崎医師が声をかけた。
「今朝の調子はどうですか。香織さんも、そろそろ病院の生活にも慣れてきたかなと思っているんだが、何か、困った事があったら、迷わず僕か、いつもの看護婦さんに何でも相談して下さいよ。全面的に協力するからね。ああ、そうだ。君のお父さんから預かっていた万年筆を渡しておくよ。それじゃあ」
『万年筆?』
香織はそれを受け取ると、コクリとひとつ頭を下げて、その場を去った。矢崎先生? 香織はふと考えた。彼は香織よりも少し年上で、なかなかのハンサムでタフな体格の男性だった。
『年上の男性ならって思っていたら、先生…私のタイプの男性かな。でも先生の感じなら、どこかにきれいで裕福な婚約者がいたりして………。』
 そこで香織は自分の想像に、おもわず吹き出して笑ってしまった。香織は一階のロビーまで降りてきた。何気なく、遠くに眼を向けると、受付のカウンターのわきに置かれたテレビで、恋愛ドラマの「秋のソナタ」が流れている。場面は主人公のふたりが抱き合って、くちづけをするクライマックスシーンだ。
 そこに富子がいた。あんぐりと口を大きくひらいて、我を忘れて画面に夢中の様子だった。片手に白いウサギの風船が揺れている。香織は一瞬、富子をにらみつけて、そのままエレベーター横の扉から、緑の芝生が広がる庭園に出た。朝の空気は身体に良い。改めて香織はそう感じた。芝生のあちらこちらにあるベンチで朝の心地よいひと時を過ごす入院患者たちの姿が見られた。
 そのまま香織は芝生の上に座り込んだ。パジャマのポケットに入れたままの青いラブレターが、ガサッと音をたてた。何だか、ホッとする。とても嬉しい。そして、香織が前を見上げた瞬間、近くの芝生の上で誰かが車椅子から転げ落ちた。

「大丈夫ですか」
 車椅子を持ち上げながら、香織が声をかけた。
「どうもありがとう。僕、まだ車椅子になれていないもので…」
 青年はゆっくりと腰を上げると、香織に笑顔を見せた。髪を長く伸ばし、色白の顔に澄んだ瞳と白い歯が印象的な青年だった。
「僕、羽島っていいます。この前、うっかりバイクで事故って、ここに入院する破目になり、窮屈な気分ですよ、君はどうです」
「この前、自宅で吐血して、ややこしい病名をきかされたけど、私、覚えていないの。でもあと半年もしたら退院出来るって、父が言ってました」
 しばらく、ふたりはお互いの身の上話で盛り上がり同い年だという事も分かった。同世代共通の話題で時間も忘れて話し続けていた。突然、羽島が腕時計を見て「そろそろ僕、部屋にもどらないと。回診の時間なので。また
よかったら話し相手になってください。そのときを楽しみにしています。本当にありがとう」と声をあげた。
 羽島は車椅子の背中を見せて病棟の中へ消えていった。しばらく、香織は、はずむような想いに浸っていたが、やがて、ポケットのラブレターを思い出すと、それを取り出して再び読み返した。胸がキュンとした。
「ねえ、ねえ、お姉さーん」
 迫るような勢いで、富子が突進して来るのが見えた。あわてて香織は手紙をポケットに隠して、パジャマの汚れを払い落とした。富子が大声で叫んだ。
「あっ、しまった!」
 見ると、富子の手を離れた白い風船が、空たかく舞い上がっていく。広い青空に吸い込まれるように白い風船は、揺れながら小さくなっていった。

 深夜。
 香織はテーブルに白い便箋をおいて手紙を書いていた。ラブレターへの返事だった。『お手紙、拝見しました。突然のあなたのお言葉に正直、驚いています。今の私の心境として…』香織はそれを書き、何度も便箋を丸めては捨てて、書き直してはボンヤリと天井を見つめていた。とってもむずかしい。
「―つづきは明日、明日」
 香織は万年筆をおくと、とても満足した気持ちでゴロンとベッドに寝転んだ。どこかにいる私の恋人…。枕もとにはお気に入りの文庫本のロマンス小説。疲れてしまった香織はそのまま眠りへと落ちていった。

 それから三ヶ月がたった。あまりの驚きで、香織の両親は、矢崎医師の報告に最初、耳を疑った。何度も父親が確かめるように問い直した。矢崎医師が言った。
「私も不思議でたまりませんでしたよ。しかし、検査の結果が嘘をついているはずがありませんからね。香織さんの病巣は完全に消失しています。巧みなる生命体の神秘というところですが。医師としての立場から説明を求められても辛いところですが。一週間後にもう一度検査してみますが、それで異常がなければ、完治したという事で香織さんは無事に退院となります。どうぞ、ご安心ください。この経緯についてはご両親のあなた方から説明してあげてください。私も良いお知らせができて本当にホッとしています」

 両親から入院の経緯の一部始終を聞かされた香織は、最初はショックを受けていたが、やがて嬉しそうな笑顔にもどった。そして退院の日取りを教えられると一言『ありがとう』と、感謝の気持を伝えた。そして急いで両親を病室から追い出すと独りになってベッドに落ちついた。そしてつぶやいた。
「本当にありがとう、私の見知らぬ恋人さん」
 その時、思いがけない返事が返ってきた。
「いいえ、どういたしまして、香織さん」
 振り向くとそこに妹の富子がいた。いつになくニコニコしている。唖然として香織が訊いた。
「いったいどういうこと、あんた」
「へへへっ、青いラブレターの犯人、実はあたしなの」
「と、富子、あんた………」
 すると富子は真面目な様子で香織の隣にすわり、
「父さんから香織姉さんの病気のこと打ち明けられて、びっくりしたの。それであたし、出来ることないかなって一晩、寝ないで考えてあのラブレターを思いついたの。だって姉さん、ロマンス小説大好きじゃない。すてきな彼氏が出来たら、きっと元気がでるのかなって。でも、結果的には嘘だし、悪いことしたかなあって反省してる。本当にごめんなさい」

 香織はしばらく黙って考え込んでいたが、やがてゆっくりと口をひらいた。
「………富子、助けてくれて本当にありがとう」
「うん、いいの。姉さんが元気ならあたしも嬉しい」
 そこで香織はじろりと富子をにらみつけると、ドスの効いた口調で、
「でも、あんた、あんまりひどい悪戯だけは許さんからね!」
「ハイ。姉御様、以後注意、ごめんちゃい」
「それだから、あんたは、――」
 その時、いきなり部屋の扉が開いて、背広姿の羽島が笑顔をみせた。
「ああ、お邪魔だったかな。僕、きのう、ようやく怪我が治って退院したんだ。それで僕、香織さんのこと気になってお見舞いに来たんだ。これは僕からのお見舞い、果物セット。よかったらどうぞ」
「ありがとう、羽島さん」
 よく似合う背広姿の彼を見て、思わず香織の頬がぽっと赤くなった。そして香織が心配して言った。
「脚の具合はどう?」
「おかげ様でこの通り、ピンピンしてるよ。それで香織さんの退院はいつになるの」
 香織は、所在なげな富子にちらりと眼をやってから、笑顔で答えた。
「あと半月ぐらいかしら。でも来てくれて嬉しいわ。本当にありがとう。だけど羽島さんの背広姿ってピシッと決まっているわね」
「照れちゃうなあ。ああ、そうだ。さっき、考えてたんだけど、香織さんが退院したら、お祝いで一緒に夕食でも楽しもうと思ってさ。また、僕でよかったら、なんだけど」
「ええ、いいわよ。私でよかったら……だけど」
「ああ、忘れてた、紹介するわね、これ、私の妹の富子」
 富子はペコリと頭を下げると、にっこり笑って羽島に言った。「どうぞよろしく、本当の見知らぬ恋人さん!」
(了)